第26話

「あんな重いもの持って歩いたなら、肩こってるかなと思って」

 少しだけ言い訳がましい色が混ざるのは、いつもならば間髪入れずに返ってくる「結構です」の言葉がないことに羽多野も違和感を抱いたからなのかもしれない。

 それはそれとして、肩を揉んでやろうかというのが今の栄のニーズを的確に捉えた申し出であることは確かだ。口調や物言いは相変わらず不遜だが、言われずとも必要としていることを察して先回りする羽多野の嗅覚はなかなかのもので、だからこそ議員秘書として重用されたであろうことは想像に難くない。

 軽く肩を回してみると、油を差していないギアのようにぎしぎしと硬い感じがした。いつもより長い時間湯船に浸かって、重い荷物を担いで歩いたダメージ回復に努めはしたのだが、効果はいまひとつだ。

「学生時代はあれくらい軽々と持ち歩いていた気がするんですけど、同じようにはいきませんね。かさばるから地下鉄でも気を遣うし」

 そういってため息を吐いたのを了承と受け止めたのか、羽多野は自然な仕草で栄の肩に手を触れた。

「だって剣道自体が久しぶりなんだろう? 肩もだけど、全体的に普段と違う筋肉を動かしたなら明日はあちこち痛むんじゃないか。いや、もしかしたら明後日かもしれないけど」

 筋肉の張りを確かめるように手のひらで肩から首にかけてそっと撫でる感触自体に他意は感じられないが相手が相手だけに気は抜けない。とはいえあまりがちがちに緊張しているのを気取られても自意識過剰と思われてしまうという複雑な心境の中、栄はあえて平静を気取って羽多野の軽口に応じる。

「アラフォーと一緒にしないでくださいよ。こっちでも定期的に泳いではいるし……筋肉痛が出るとしても明日です」

「やだなあ、若者ぶっちゃって。同じ三十代なのに」

 笑いながら羽多野は、サイドテーブルに置いてあったタオルを手にして栄の肩に掛けた。風呂上がりに髪を拭いたままリビングに持ってきたものだ。どうやら本気で肩を揉む気でいるらしい。

「お客様、かゆいところはございませんか」

「それ、美容院です」

 薄い布越しに体温が伝わり、やがて同じくらいの温度に落ち着く。頃合いを見計らって羽多野の手に力がこもった。今日の荷物のせいだけでなく、普段のデスクワークのせいもあって硬く凝り固まった筋がぐっと押され、痛みと気持ちよさの入り混じった感覚が肩に広がる。

 素人のマッサージになどほとんど期待しておらず、これもスキンシップ訓練の一種だと思っていた栄だが、以外にも羽多野の肩もみは上手かった。何らかのツボなのか、痛みを感じる場所に指を入れたかと思えば、強弱を付けて丁寧に凝りをほぐしていく。

「俺、肩揉むの上手いだろ」

 栄の心を見透かしたかのように、羽多野が自画自賛した。

「どこかでマッサージ師でもやってたんですか?」

 冗談めかした問いかけに、返ってきたのは意外にも「まあ、そんなもんだな」という言葉だった。そんな過去まであるのかと驚いて振り返ると、羽多野はにやりとして見せる。

「最初にバイトで入った事務所の先生が肩こりひどくて、マッサージに行く暇もないからって、一番下っ端だった俺が肩揉み係にされてたんだよ」

「なんだ」

 それは正確にはマッサージ師とは呼ばない、拍子抜けだ。しかし笠井事務所ではあんなにも偉そうに振舞っていた羽多野にもぺーぺーの新人秘書時代があったのだと思うと感慨深い。そういえば最初は腰掛けアルバイトのつもりで秘書業をはじめたのだと言っていたっけ。

 栄は今までほとんど羽多野の個人的な部分について質問したことはないし、羽多野も自ら語ることは少なかった。せいぜいこのあいだのアトランタ時代の話くらいだが、あえてあんなことを聞かせた目的は今ならばわかる。帰国子女や留学経験者へ無神経な嫉妬をしていた栄に、羽多野なりに苛立ったのだろう。

 確かに栄は、若い頃に海外生活の経験があるというだけで、たいした苦労もなしに羽多野が言葉を身につけたのだと思い込んでいた。異国の環境に馴染むには子どもだろうが学生だろうが、それぞれ立場に応じた苦労があるだろうに、それには一切目を向けようとせず今この瞬間自分より優位にいる相手をただ羨むだけ。「努力する才能という言葉が嫌い」などと言っておきながら、気づけば自分も同じことをしていたことを今は恥ずかしく思う。

「羽多野さんはどうして議員秘書になったんですか? アメリカ生活も長いのに、わざわざ帰国して。もともと政治学やってたとか?」

 ふと口にした疑問を羽多野は否定する。

「いや、専攻は経営学。政治は特に興味なかったな」

「じゃあ、どうして?」

「なんとなく帰国して仕事もなしにぶらぶらしてたときに、声かけられたんだよ。その先生も気難しかったから人がいなくて困ってたんだろうな。知り合いから、数か月でいいからって」

 状況としてはわからなくもない。わざわざ立候補して国政を担おうとするような人間は大抵、良し悪しは別として自我も癖も強い。秘書など手足か奴隷のような気持ちでいる議員も少なくないため、いつ行っても違う秘書がいるような事務所も珍しくないのだ。

 公設秘書であれば一応身分は国家公務員になるが、それでも議員が議席を失えば同時に職を失うため身分は不安定。二世を含め将来政治家になりたいという野心を抱いている者や、思想や信仰で組織的に囲われている場合を除いて、離職率が高いことは理解できる。だが、そんな面倒な職場で肩もみ係にさせられながらも、羽多野は議員秘書としては事務所内のトップである政策秘書まで「上り詰めた」わけだ。

「辞めたくはならなかったんですか? 笠井先生もたいがいでしたけど、コロンビア出て肩もみ係って、俺だったら三日経たずにやめてますよ」

「君ならそうだろうな。でも俺はやることもやりたいこともなかったし、暇つぶしに勉強してみたら幸か不幸か秘書試験にも通って」

「受かってるんですか、政策秘書試験……」

 国会議員は三人までの公設秘書を置くことができ、その中でも最重要といわれるのが政策秘書だ。政策立案の補助をするという職務内容が特殊かつ高度であることから、政策秘書になるには試験もしくは選考審査に合格しなければならない。

 選考審査の対象者になるのは栄のような国家公務員総合職試験合格者や司法試験合格者、長期の公設秘書経験者などに限られる。そういった資格や経験のない人間が一足跳びに政策秘書になるには独自の資格試験を受ける必要があるが、難易度は公務員試験以上に高く、合格率は低いと聞いている。

 暇つぶしの勉強で難試験に合格したというのもさりげない自慢のつもりだろうか。栄は多少不愉快な気分になるが、羽多野は平然としている。

「不安定雇用だけど、給与もましでボーナスも出るだろ。日本企業で働いたこともない三十がらみの男が公務員待遇ってマシな方だし、忙しいのは苦にならなかったから」

「しかも無神経な性格だから、ごり押しするのも気がとがめない。もしかしたら天職だったんじゃないですか?」

「天職だったら、あんな形じゃ失わないって」

「あ……」

 栄は失言を自覚した。羽多野があまりに無職生活を楽しんでいる様子なので忘れそうになるが、一応は議員の不祥事で詰め腹を切らされた男だ。さすがに天職というのはあんまりだったかもしれない。

「でも今はこうしてまた肩揉みやって谷口くんに食わせてもらってるわけだから、最初にお仕えした先生には感謝だな」

 気まずい雰囲気になることを避けようと話を逸らしたのは羽多野。小さな声で「そうですね」と答えた栄に対してわざとらしいほどに明るい声を出す。

「それにしてもお客さん、首から肩からゴリゴリに凝ってますね。毎日パソコンばかり見てちゃ体悪くしますよ」

 そう言いながら羽多野のマッサージは肩から腕に下がってくる。やがてその手が今日の稽古で打たれた部分に到達し、思いのほか強い力でつかまれた。

「痛っ!」

「え、痛い? 強すぎた?」

「あ、いやそういうんじゃなくて」

 決してマッサージが強すぎるという意味ではない。悪気がないのもわかっている。栄が長袖のシャツを着ているので、羽多野はその下がどうなっているかわからなかったのだ。論より証拠とばかりに栄は袖をまくってみせる。

「うわ、なんだよこれ」

「久しぶりでなまってたんで、ちょこちょこ小手を受けそこなっちゃって。しかもあいつらチャンバラのノリで打ってくるし」

 羽多野は眉をひそめ幾筋ものみみず腫れを見つめる。

「剣道って防具をつけてるから生傷とは縁がないと思ってたけど、なかなか痛々しいな」

 栄は手首のあたりを示して、腕のうち防具で守れる部分が意外と少ないことを教えてやった。

「小手ってこの辺りしか覆ってないから、相手が打ち損じたりこっちが避けそこねたりすると、どうしても防具がないところに当たっちゃうんですよ」

 剣道の覚えがある人間には見慣れた傷だが、部外者が驚くのも無理はない。そういえば最初に生傷だらけの栄を見たときの尚人も顔面を蒼白にしていた。

「痛くないの?」

「痛いですけど、そういう競技なんで。古武道やレスリングだって生傷できるでしょう」

「そりゃそうだけどさ」

 栄からすれば生身で殴り合ったり絞め合ったりするスポーツの方がよっぽど恐ろしく思えるが、知らない世界がより危険に見えるのはお互い様なのかもしれない。

 羽多野がげんなりした顔をしているので栄は促すように腕を差し伸べる。

「他人の傷にダメージ受けるような繊細なタイプには見えませんけど。ほら、マッサージしてくれるんでしょう」

「……それはまあ、谷口くんの平穏と健康が俺の本懐ですから」

 羽多野は腕まくりした栄の腕を取る。シャツ越しでもタオル越しでもない手の感触。ふとこのあいだの夜のことを思い出しそうになって、栄はあわてて邪念を振り払った。