第45話

 しかし硬直する栄をよそに、目の前では友安が喉に刺さった小骨が外れたかのようにすっきりとした表情で手を打った。

「そういえばそんな話も聞いたような気がするな。だから名前を聞いてもしっくりこなかったのか、やっと腑に落ちた」

「そのあたりは僕は知らなかったんだけど、聞いたところだとあっちで商売やってる日系人の一人娘と結婚して、けっこうな逆玉だって言われてたらしいな」

「あー、そうだ。話しているうちに何だか思い出してきた」

 連想ゲームのようなやり取りを楽しむ目の前の男たちに割り込む気には到底なれず、とりあえず平静を保つふりだけでもしようと栄はグラスに手を伸ばす。しかし震える腕は思うように動かず、肘がテーブルに並んだカトラリーに意図せず触れると同時にナイフが床に落ちる鋭い音が店内に響いた。

 友安と四ノ宮が驚いたように言葉を止めて栄に視線を向けた。しまったと思い足元に手を伸ばすが、一足早くやってきたウェイターが床に落ちたナイフを拾い上げ、すぐに代わりを持ってくると言い残して去っていった。

 何もかもがスローモーションのように感じられた。別の名字? 結婚? 信じがたい単語だけが頭の中で反響する。四十がらみという年齢からすれば結婚歴があったとしてもまったくおかしくはない。でも仕事上の付き合いから数えて二年以上、これまで一度だって羽多野に家族の影が見えたことはない。何より家庭があるならば一年以上も職もなくぶらぶらしてはいられないだろう。

「えっと……それは、人違いではなくて?」

 栄がようやく絞り出した言葉を、友安は威勢よく笑い飛ばした。

「なんだよ谷口、俺や四ノ宮の記憶力が信用ならないっていうのか」

「いえ、そういうわけじゃないですけど。でも、だったらなぜ日本で議員秘書なんて……」

 逆玉ということは婿養子ということだろうか――いや、婿養子という概念がアメリカにもあるのかどうか栄は知らないが。ともかくそんな大層な身分の人間と、今自分のマンションに居着いている男が同一人物であるとはなかなか信じることができなかった。

 ウェイターが新しいナイフをもってきて栄の前に置く。それとほとんど同時に、さっき頼んだメインの料理が運ばれてきた。ローストビーフの焼き加減は完璧。添え物の野菜も安いパブとは違って美しい色を保っているし、黄金色のヨークシャープティングも完全な膨らみ方。鮮やかなミントソースのかかったラムチョップも実に美味そうだ。

「お、これこれ。これぞイギリス料理って感じ」

 湯気を立てるロースト料理を前にひとまず羽多野についての話題が途切れる。友安が先陣を切って肉を自分の皿にとりわけ、そのあいだに栄はソムリエの持ってきたワインのテイスティングをした。もちろん動揺した舌では味などまったく感じないから、ただのポーズだ。

 しばらくは、この肉が美味いだとか英国メシマズ説はもはや過去のものだとか、そんな話が続いただろうか。栄はこのまま羽多野の話など忘れて欲しいという気持ちと、ここまできたなら彼らの知ることは何もかも聞いておきたいという気持ちのあいだで悶々としながら、機械的に料理を口に運んだ。

「そういえばさっきの話だけど」

 ちょうど料理談議が一区切りついたところで、思い出したように話題を戻したのは四ノ宮だった。友安との電話の中で羽多野について聞かれたものの記憶が定かでなかった四ノ宮は、今日の席の話題作り目的も兼ねて、アメリカに留まって仕事をしている友人に話題を振ってみたのだという。その友人は経営学専攻だったこともあり羽多野のことをよく記憶していた。

「どうも、あの後しばらくして離婚したらしいよ。名字が変わった上に帰国して議員事務所で働いていたっていうのもそういう事情があったからなんだろうな。あまり評判のいい男じゃなかったから、去年のスキャンダルのときにも現地の日本人同窓生コミュニティではちょっとした話題になったらしい」

 結婚していたという話に続いて、今度は離婚。怒涛の情報量にとても頭がついていかない。それでも羽多野の結婚生活が過去のものだと聞いた栄は安堵に似た感情を抱き、同時にそんな自分に違和感を抱く。

 ――なぜほっとするんだろう。別に羽多野が結婚していようが、独身だろうがそんなことどうでもいいはずじゃないか。

 自分に言い聞かせるように胸の中で呟きながら、頭では感情を正当化する理屈を探し続けた。いくらセックスには至っていないとはいえ結婚している男相手にあんなことをするのは倫理にもとる。人並み以上の常識を持って正しく生きているつもりの栄にとって、羽多野が既婚か未婚かというのはやはり重要な問題であるように思える。

 でも本当は、本当に引っかかっているのはそういうことではなくて。理論立てて考えようとする頭と暴走する心が上手く噛み合わない。結婚がなんだ。もともとストレートの男だろうとは思っていたじゃないか。過去に遊んでいたというような話は本人もしていたし、そもそもあの振る舞いをみればわかることだ。

 嘘をついていたわけではない――学歴を指摘したときに羽多野はそう弁明した。もしも結婚歴のことを聞けば同じような答えが返ってくるのだろうか。嘘をついたわけじゃなく、ただ黙っていただけだと。たいしたことではないし、そんなことで大げさに驚いたり怒ったり、傷ついたりする栄の方こそ自意識過剰なのだと。

 だったらどうだ。嘘じゃなければ、栄にとっても本当に問題はないのだろうか。いや、そんなはずはない。だって今の時点で既に栄の心は穏やかではない。女を知っている男、女と寝る男。存在を否定はしないが自分としては基本的にノーサンキューだ。だって女と結婚するような男は天秤にかければきっと最終的には栄よりも社会的な安定や、女と暮らす世間体を選ぶに決まっている。嫌な考えばかりが胸の中を覆い尽くしたちょうどそのときだった。

「しかしまあ、今回の件ではじめて去年のスキャンダルとやらのこと知ったけど、ネットの記事読むだけでもけっこうな言われようだったんだな。日本じゃしばらく騒ぎになってたんだろ?」

 話が自分に向けられていることに気づいて栄はぎこちなく笑った。

「ええ。ただ、笠井議員の落選運動のあおりを食った格好だったから、見ていてちょっと可哀想だとは……」

 思わず羽多野をかばうような言葉を口にしかかったが、四ノ宮がそれを制した。

「でも、学生時代の彼を知る奴らはいかにもだって言ってたよ。押しが強くてプライドも高い上昇志向の塊みたいな男で、他の日本人学生への態度は特にひどかったらしいから恨みも相応に買っていたんだろうな。言い方はひどいけど、逆玉アメリカンドリームに失敗した後は日本で政界進出でも狙ってたんだろうに、ざまあみろ的な感じだったらしい」

「でもまだ会館に出入りしてたってことは、完全にそっちをあきらめたってわけでもないんじゃねえの。なあ、谷口」

「……さあ、俺はそこまでは……」

 もはや栄は顔に笑いの表情を作ることすら難しい。友安や四ノ宮に悪気がないのはわかっている。栄だって、羽多野のことを直接知らなければ――いや知っていても、かつてのようにただ憎しみの対象としか見ていなかったならば、彼らと同じように羽多野の不運を自業自得だと看破し酒の肴にしたはずだ。

 そうする気になれないのは、羽多野から受けたのがただの嫌がらせや悪意ではないと思っているから。でも、それがもしも間違いなのだとすれば。栄が一方的に彼から好意を寄せられていると勘違いしていただけなのだとすれば――。

 何より、押しが強いのはともかくプライドだとか上昇志向の塊だとか、あの何を言っても飄々としている男にはもっとも似合わない言葉であるように思える。なのに彼らは羽多野がかつてそういう男で、現在も変わってはいないと信じているのだ。足元がぐらつき世界ごとひずむような感覚。今まで自分が見てきた羽多野貴明は、彼の本当の姿だったのだろうか。もしかしたら栄は何かとても大切なことを見落としているのではないだろうか。

 とどめに、四ノ宮が言う。

「特に家柄や環境に恵まれたタイプのことは目の敵にしていたみたいだからな。苦労して学力だけで進学した優秀な奴ではあったんだろうけど、人を蹴落とすような態度は目に余ったらしいよ」

「そんだけの執念で逆玉に乗ったのに結局離婚って。やっぱり後でボロがでたのかね。人間本性って隠せないもんだな。怖い怖い」

 確かに嫌なことばかりされたし今だって強引ではある。でもそれだけではなくて、たまに妙に優しかったり献身的だったり。だから栄は羽多野の意地の悪さまでも、不器用な男の歪んだ好意なのだと思い込んだ。思い込んで、舞い上がって、体に触れることを許した。

 でも――羽多野の本質が彼らの話している学生時代から変わっていないのだとすれば?

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