第75話

 栄は暗がりの中で目を覚ました。

 ひどく疲れている。徹夜で仕事をした次の夕方よりも、三千メートル泳いだ後よりもずっと。背中が痛くて、あちこちの関節がぎしぎしと軋む。それだけではなく尻には腫れたような違和感――そこでやっと、自分が今どこにいて眠る前に何をしたのかを思い出した。

 一瞬で熱くなった顔を枕に埋めてからちらりと隣に目をやると、こちらに背中を向けて横たわる男の後頭部と裸の肩が暗闇にぼんやり浮き上がった。よく眠っているのか、ゆっくりとした一定のリズムで肩が上下している。

 まったく、気持ちよさそうに眠っちゃって。つぶやいて、ため息をひとつ。

 確かに栄は傷つき疲れて弱った羽多野に自ら手を差し伸べた。「眠れる方法」を口にした時点である程度の覚悟もしていた。でもいくらなんでも――ただ組み敷かれ後ろを貫かれるだけならまだましだったかもしれないと思うほど、行為は強烈で強引だった。

 恥ずかしい場所を舐められて、自分の手で後孔に触れるような真似までさせられた。その上、羽多野はコンドームも付けずに押し入って栄の中に出したのだ。栄は尚人と八年間付き合って数え切れないほどの回数寝たが、浮気された怒りに任せたとき以外に一度だって生で挿入したことはない。これまでの人生の中でセックスに対して心がけてきた優しさや丁寧さはなんだったのかと虚しくなるほど、羽多野はただ栄を征服し貪った。

 行為の後、冷静になった羽多野は一転して栄を気遣った。フローリングに倒されたままで交わったので背中は痛むし、立ち上がろうとした栄は腰が抜けてぺたんと床に尻もちをついてしまった。羽多野の力を借りてようやくソファによじ登るとブランケットを被ったまま風呂の準備を待った。もちろん恥ずかしくて羽多野の顔などまともに見られない。

 きっと風呂場も荒れ放題で掃除する必要があったのだろう。かなりの時間が経ってから戻ってきた羽多野は栄に肩を貸した。不本意ながら風呂場までは連れて行ってもらったが、それ以上手を借りるつもりはなかった。

「谷口くん?」

 鼻先でバスルームのドアを締められた男は戸惑うように名前を呼ぶが、栄は毅然と言い切った。

「ここから先は結構です」

「でも足腰ふらふらだし……中の後始末も」

 露骨な言葉と同時に、尻から内腿にどろりと生温い液体が流れ出す。慌てて下肢に力を入れれば鋭い痛みに再び足元がぐらついた。目の前のドアノブにしがみついてなんとか無様に転倒することだけは避けた。

「あなたの手は借りません!」

 風呂場に羽多野と。そんなことを許したならばどうなるかは火を見るより明らかだ。裸で向かい合って汚れた体や奥の中に出されたものを――疲れ果てたはずの体が熱を持つのを押しとどめるように栄はシャワーの水を出した。下肢は腫れたような熱を持っているし膝はがくがくと震えている。でも絶対に羽多野に触れられるのはまずい。その気持ちだけに支えられ、栄は時間をかけて自分の体を清めた。

 よろよろと風呂から上がると新品ではないものの比較的新しく洗濯されている衣類が置いてあった。隣にはパッケージに入ったままの真新しい下着も添えてあったが、羽多野の履いていた「あの」形状を思い出すと、とても開封する気にはなれない。すでに洗濯乾燥機は回り始めているので、数時間凌げば再び自分の履いてきたボクサーブリーフを使うことができるだろうと考え、栄は下着はつけないままでスウェットに脚を通した。

 栄にとって幸いだったのは、この数週間リビングに営巣されていたせいで、ほとんど使われていなかった羽多野の寝室がこの家の中では比較的清潔に保たれていたことだった。それどころか栄が風呂に入っている間に羽多野は気を遣ってリネンを取り換えていたようだ。

「君は横になって休んでろ」

 そう栄に告げると羽多野は入れ替わりで風呂場に向かう。疲れ果てた体をベッドに横たえるとパリッとしたシーツの肌触りが気持ちよかった。

 羽多野と違って睡眠不足だったわけでもないのに、張り詰めていた気持ちが一気に緩んだせいか栄の記憶はそこで途切れている。きっと羽多野が戻ってくるよりも前に眠りに落ちてしまったのだろう。

 今が何時なのかが気になるが、腕時計は外して洗面台に置いてきた。スマートフォンはコートのポケットに入ったままリビングにあるはずだ。ともかく外は暗いから、真夜中もしくは明け方なのかもしれない。

 羽多野を起こさないようにそっと背後から顔をのぞき込む。風呂には入ってきたようだが、億劫だったのか無精ひげはまだ残っている。起きて欲しいような欲しくないような落ち着かない気持ちで栄はそのままじっと羽多野を見ていた。あまりにじっと見つめていたせいか、やがて身じろぎして羽多野がうっすらと目を開ける。

「……谷口くん?」

「すみません、起こしちゃって。寝てていいですよ、まだ……」

 まだ、何だというのだろう。栄は休暇中で羽多野は無職の身。時間なんて気にせずに眠ることができる。しかし羽多野は肘をつくと体を反転させ栄の方を向いた。

「体は? 夢中になって無理させたけど」

「……別に、大丈夫です」

 いたわりの言葉に羞恥心が湧き上がり、憮然と顔を背ける栄を見て羽多野は微笑んだ。羽多野が目覚めるのが楽しみなような怖いような気持ちでそわそわしていた自分が情けなく思えてくる。

「慣れてるんですね」

 とっさに口に出した言葉に羽多野は目を丸くして、それから悩ましげに眉をひそめた。

「……どう答えれば君を怒らせずにすむのかな?」

 そういうつもりで言ったわけではない。栄は左右に首を振る。

「怒ったりしません。俺だってそんな子どもじゃないです。ただ……」

 自分が失礼なことを言っているかもしれないという不安から後半は声が小さくなった。自分にも尚人がいたのだから、羽多野にリラという妻がいたことをどうこう言うつもりはない。ただ、本来は女にしか関心のない羽多野がなぜ男の扱いに慣れているのかという点についてはまだ聞いていなかった。

「なぜ男と寝るようになったのかが気になる? 大体、谷口くんが考えているとおりだと思うけど」

 そして羽多野は、リラと離婚して逃げるように日本に帰国してからしばらくは生活が乱れてずいぶん遊んだのだと話した。

「最初は女と遊んだよ。種なしだから大丈夫だって言って生でやったりさ。どうせ元々ガキなんか好きじゃないんだから、むしろ面倒なく遊べて便利だなんて思ってさ。……でも、やっぱなんか憐まれているような気がして」

「だから……」

「ああ、男とでも寝てみるかって」

 二丁目にも行ったし、マッチングアプリも使った。実際に試してみると男を相手にすることに抵抗はなく、むしろ女を相手にするときのような駆け引きのない即物的な関係は肌にあった。そんな中から人寂しさで何人かと付き合ってみたこともある。だが、続かなかった。

「当たり前だよな。別に恋愛したいわけじゃなくて、自分が人を組み敷いて征服することができる男だって証明したかっただけなんだから」

 自嘲気味に笑う羽多野を見て湧き上がるのは、寂しさ。自分の弱さ未熟さのせいで駄目にしてしまったとはいえ、栄には尚人がいた。青くさくて若い感情だったとはいえ少なくとも二十代のほとんどすべてをかけて尚人のことを愛した。だが、羽多野は――。

「だったら、今は?」

 鬱屈した感情を抱えて成り上がることだけを考えていた若い頃の彼に、愛や恋は縁遠かった。現にリラのことすら彼は「愛していなかった」と言い切った。その後はセックスは自尊心を取り戻すための手段となり、だったら今は? 羽多野はどんな気持ちで、どれだけの覚悟を持って栄を求めてきたのか。

「そういう君は?」

 ストレートな答えを期待したのに、羽多野は意外にもはぐらかした。それどころか栄の心境を問い詰めてくる。

「長く付き合って、あきらめたけど忘れられない恋人がいて、それでも俺に抱かれた。君は、どういう気持ちでいるの?」

 あれだけ言葉と態度で求められておきながら言葉を求めた自分も野暮だったが、わざわざこの場で心境を聞いてくる羽多野はそれ以上に意地が悪い。