リュシカと名乗った美しい少年があの大男に「アイク」と呼びかける声色や、彼に名前をもらったのだと嬉しそうにつぶやく姿を見て、セスは漠然と二人の関係は特別で尊いものなのだろうと感じていた。
気持ちは複雑だ。クシュナンと自分しか存在することのなかった小屋へリュシカという美しい異物を入れることへの違和感。それは不思議なことにちくちくとした胸の痛みすら伴うようだった。同時にセスは目の前のリュシカに対しても、彼の意に沿わないことをさせるのを不憫だと思う程度には好感を抱くようになっていた。
しかし、自分が言い出したことであるのに今さらリュシカをクシュナンのところへ連れて行くことを止めることは難しい。スイに、集落の人々に、なかったことにしてくれなどと言えるはずはなかった。
──頼みさえ聞いてくれれば誰も君たちに酷いことはしない。だから逃げないって約束してくれ。
セスが石板にそう書き付けるとリュシカは小さくうなずいた。本当はそんなこと聞くまでもなく、この少年が檻の中にあの大男を残したままひとり逃げ出すはずはない。
セスはリュシカの細い胴を締め付ける縄をほどいてやったが、いざことに及ぶ際に暴れてクシュナンを傷つけるようなことがあってはいけないので、両手首をひとつに結わえた縄だけは残した。苦痛から解放され小さく息を吐くリュシカの袖を引き、立ち上がらせる。
「行くの? その……神の使いという人のところへ」
セスが首を縦に振って歩き出すと、リュシカは特に抵抗することもなく後を着ついてきた。そして小さな声でセスに礼を告げる。
「ありがとう、縄を切ってくれて。痛くてたまらなかったんだ」
リュシカは突然襲撃され連れてこられ、牢に押し込まれるという理不尽な目に遭った。そしてセスがアイクとリュシカを捕らえた側の人間だということはわかっているはずだ。なのになぜ感謝の言葉など述べるのだろう。セスにはリュシカの考えていることはとても理解できない。セスはリュシカの人の好さに苛立ち、同時にそんな自分を嫌悪した。
今まで毎日ひとりで行き来していた「神の使いの小屋」への道を、他の人間、しかも集落外の人物を連れて歩くのは不思議な気分だ。この少年を捧げればクシュナンは彼を抱くだろう。そのときセスはどうすればいいのだろうか。神の使いが心から満足したかどうかを確かめるために小屋に留まり二人の交合を見届けるべきだろうか。それとも彼らは見られることを嫌がるだろうか。
ぼんやりと考えごとをしているうちに、あっという間に小屋に着いた。小さいが手入れの整った建物をリュシカは興味深そうに眺めて「ここ?」と聞く。
セスは扉を叩く。反応がないのは気にせず少し待ってから扉を開くと、いつもどおりクシュナンは部屋の隅で壁にもたれかかるように座っていた。セスが無言で入っていくのもいつものことなので、特段の反応はない――しかし、その後に続く人影を見てクシュナンは表情を変えた。
「セス。何だそいつは」
歓迎しているとは言いがたい、鋭い口調だった。
ここにやってきて以降セス以外の人間を見ていないクシュナンが突然見知らぬ少年……しかも両手を縛られた状態で連れてこられた人物を見て驚くのは無理もない。セスはどう振る舞うべきか迷ったが、口をきくことができるリュシカが先回りした。
「僕はリュシカ。君の相手をしろって言われて連れてこられた。神の使いの相手をするのは光栄なことだから、ありがたく思えって」
臆することなくリュシカが告げると、クシュナンは驚いたような顔をして「おまえは、喋れるのか」とつぶやいた。
その声色自体は特に感情のこもったものではないが、それでもセスは傷ついた。クシュナンにとって話し相手にもなれず欲望を解放する手助けもできない自分はもはや不要の人物になってしまったのだろうか。いくら動揺していたとはいえ自分が兄に「神の使いが相手を欲しがっている」などと進言してしまったことを改めて激しく後悔した。あのときの自分はどうかしていたのだ。
クシュナンと過ごす時間が心地よいのは、彼がセスと比較可能な他人を持たないからだった。例え口をきくことができず雑談の相手にすらなれなくとも、ここではセスだけがクシュナンにとっての他者であり外界とつながる窓だった。クシュナンにとっては不便この上ないだろう環境だがセスにとって彼と過ごす時間は救いであり癒しだったのだ。
集落の人間と関わるとき、兄と関わるとき、セスはいつも自分が声を持たないことに対する劣等感に押しつぶされそうになる。もちろん兄とは筆談を通じてコミュニケーションをとることはできる。しかし不自由のある弟だからこそ兄がことさら優しく接してくれるのだということに気づかないほど幼くはない。スイの優しさの中に混じる憐憫の情はときどきセスを苦しくさせる。
だが、クシュナンは違った。言葉や表情に出すことは避けているようだが、ひとりきりでここで過ごす時間はあまりに孤独で退屈なのだろう。例え口がきけなくとも、たいした反応は返ってこなくとも、クシュナンはセスの訪問をとても楽しみにしているように見える。劣等感にまみれて生きているセスにとって、そんなクシュナンの態度はささやかながらも自尊心を満たしてくれるものだった。
今ここにはセスよりはるかに美しく、クシュナンと会話を交わすことのできる他人がいる。クシュナンはセスよりもこの少年を気に入り、セスは用なしになってしまうかもしれない。惨めだ──それが今の正直なセスの感情だった。
「セス、どういうことだ。こいつはなんだ? 相手とはどういうことだ」
意外にもクシュナンはセスに対して鋭い視線を向けた。持て余しているであろう欲望を発散できる相手を連れてきてやったにも関わらず、向けられるのは喜びというよりは戸惑いや怒りに近い感情。セスは困惑し、ただ視線を泳がせた。
助け舟を出したのはリュシカだった。
「怒らないで。彼も、僕をここに連れてくるよう命令されたんだ。君は神の使いで、この集落の人は一年間、君が何も不自由しないよう丁寧にもてなさないといけないんだってね。そうでないと山にひどいことが起こるって聞いた」
リュシカはスイの言っていた内容をよどみなくクシュナンに伝えた。
「神の使い……一年間……」
リュシカの口にした言葉をクシュナンは思案げに繰り返す。そして、リュシカの真っ黒な瞳はクシュナンの青い目を見据えた。
「そう。で、僕が最初に聞きたいのは、君が本当に神の使いなのかどうかだ」
単刀直入に切り出すリュシカの口を、セスは塞いでしまいたい気分だった。
もちろんセスはクシュナンが神の使いであるという事実を疑うつもりなどない。何しろ父や長老を含めた集落の皆が見極めた結果だ。それに最初こそセスを試すように世話を受けることを拒んだクシュナンだが、今はおとなしくこの小屋で過ごすことを受け入れている。もし神の使いではないのだとすればクシュナンはもっと激しい反発を続けるに決まっている。
もしも今ここでクシュナンがリュシカの質問を否定したとしても、それはきっと集落の人間を試しているだけなのだ。だって、クシュナンが神の使いでなければ彼がここにいる理由、彼がここでセスの世話を受けている理由がなくなってしまう。
自分たちの正しさを確信しているはずなのに、だったらなぜ今自分はこんなにも不安な気持ちでいるのだろう。セスはひどく頼りない気持ちでクシュナンの答えを待った。
「俺は……」
クシュナンは口を開き、一度ちらりとセスの顔色をうかがった。そして、ゆっくりはっきり言い切った。
「そうだ。俺は山の神に使わされてここにやって来た。この集落の人間の忠誠を確かめるためにな」
ほっとしたような、気が抜けたような、全身からすっと力が抜けるのを感じてセスはその場にへたりこむ。
「セス?」
「おい!」
両手を縛られたリュシカの腕は届かない。代わりにクシュナンがセスを抱き留める。その熱い肌にふれられただけでセスの全身を寒気に似たものが走り抜け、あわてて腕で褐色の体を突き放すと首を左右に振る。これ以上彼に触れられてはならない。それは本能的な恐怖だった。
床にへたり込んだセスを見てひとつ息を吐くと、クシュナンはリュシカにも座るように言った。そして、神の使いであるクシュナンと、世話役であるセスと、さらわれてきたリュシカは三人で車座になって顔をつきあわせることになった。
先ほど同様、おそれを知らないリュシカは単刀直入にクシュナンに訊ねる。
「それで、神の使いである君は本当に今、夜の相手を求めているの? 僕はそのためにここに連れてこられたんだ」