Chapter 1|第10話

 今夜はベッドを譲ろうか、と声を掛けたがルーカスはあっさりと首を振りソファの上で毛布を被ってしまった。こういう強がりは尊重してやったほうがいいのかもしれないと考え、ラインハルトもそれ以上何も言わなかった。

 寝室に入ると部屋の隅に散らばったままの鏡の破片が目に入る。昨晩の自分を思い出して苦笑いしながらラインハルトはそれらを片付けた。あんなに激しい苛立ちと焦燥に襲われたのが嘘のように気持ちは凪いでいる。もちろんルーカスの姿にどうしようもなく嫉妬してしまうことは変わらない。だが、それはそれとして今では、彼は彼なりの苦悩を背負った一人の人間なのだと思えた。

 そして、その晩ラインハルトは懐かしい夢を見た。父親の夢でもない、オスカルの夢でもない。年上の友人たちの夢だ。

 まだ少年の姿をした――懐かしく恋しい、金色の髪と華奢な手足を持つラインハルトは、父親からオスカルと会うことを禁止されて途方に暮れた。家にも教会にも自分の居場所を見出すことができず、ただ孤独だった。そんなときに出会ったのが、レオとニコだった。彼らはあまり似ていない兄弟で、聖職者の未亡人である老女の家の半地下の部屋に間借りしていた。

 その頃のウィーンは今以上に戦後の混乱が色濃く、街のあちこちには空襲で廃墟になった建物が残り、品物のほとんど置かれていない店の前に人々は長い列を作ってなんとか日々の糧を手に入れようとしていた。戦時中は田舎の親類を頼って疎開していたのでラインハルト自身がウィーンの市街戦を目にしたわけではないが、久しぶりに戻った懐かしい街の変わり果てた姿には言葉を失った。だが、オスカルとの再会、そして互いの愛情を確かめ合うことができた短い期間はラインハルトの人生のうちほんの短い、幸福の絶頂だったのかもしれない。

 父に同性愛を責められ、オスカルと会うことを禁止され、途方に暮れたラインハルトは建物の前の階段に座ってレオの帰りを待っている。父親のいる家には帰りたくない。だからしょっちゅう彼らの部屋に通った。夕方になれば仕事を終えたレオが真っ直ぐに戻ってくるのはわかっていた。

 ラインハルトの姿を認めると、少し困ったような、迷惑そうな顔をしながら、それでもレオは「仕方ないな」と部屋の鍵を開けて迎え入れてくれる。一方のニコは縄張り意識の強い猫のようにラインハルトが彼らの領域に入ることを警戒していたが、本当に辛いときには黙って助けの手を差し伸べてくれた。

 鳶色の髪に緑の目をした背の高いレオと、濃い茶色の髪と目を持つ小柄で華奢なニコは、どこか違和感のある兄弟だった。彼らふたりの間に漂う空気はいつだってよそよそしさと親密さが奇妙に混じり合っていて、ラインハルトと一緒にいるときのレオは軽口を叩いたりときに饒舌だったが、そこにニコが加わると彼の寡黙さにつられるのかやけに遠慮がちな態度を見せた。

 誰かが彼らのことを「ナチの収容所から逃げてきたユダヤ人だ」と言っているのを聞いたことがある。父もラインハルトが彼らのところへ出入りすることを良く思ってはいなかったが、それがレオとニコの出自のせいと言うよりは、単に偶然出くわした彼らにラインハルトへの態度を諌められた恨みによるものだったのだと思う。

 ラインハルトは、レオとニコのことが好きだった。彼らの暮らす狭くて暗くて湿っぽい部屋が好きだった。隠れ家のようなそこで息を潜めて密やかに暮らす二人のことが羨ましくて憧れて、いつか自分にも好きな人と――オスカルとそんな風に暮らす日が来るのだと夢見たこともあった。もちろん、その後まもなく訪れた成長期の体を持て余し、結局オスカルとの連絡は絶ってしまったのだが。

 だが、ラインハルトが二人を信頼するほどにはレオもニコもラインハルトのことを思ってはいなかったようだ。なぜなら彼らは何の挨拶もないままにウィーンから姿を消した。まずはニコが。そして数年後にレオも。

「何も言わずにいなくなるなんて。ニコだけじゃなく、まさかレオまで」

 もぬけの殻になった部屋を眺め呆然とするラインハルトとは対照的に、彼らに部屋を貸していたシュルツ夫人は彼らの不義理を責めることはしなかった。むしろ「人には事情があるんだから」とラインハルトを諌め、ただ消えた男たちを心配していた。

 ――あの頃よりは大人になったから、今は少しはおばさんたちの気持ちも理解できる。何しろあの二人はどう見ても訳ありだったし。

 目を覚ましたラインハルトはぼんやりと考える。

 レオとニコには人目を避けてウィーンで暮らさなければいけない理由があり、また何も言わずにウィーンから消えなければいけない理由があったのだろう。そんな訳ありの二人が小煩い少年の相手をしてくれていたことには感謝して当然で、こんな風に裏切られた気持ちを抱くのはラインハルトの身勝手にすぎない。

 一方的に理想の二人だと思っていた彼らが、そうではなかったこと。勝手に兄のように慕っていたつもりが、相手から同じだけの思いを返してもらえなかったこと。オスカルへの気持ちだけではない、ラインハルトはいつまでも過去を引きずり、過去にとらわれ、一歩も進めないままでいる。

 ――でも、あの部屋に入れてもらえたのは嬉しかった。

 確かにあのときラインハルトは救われた。家族と距離ができ、恋人を失い、どうすればいいかわからなかったときに、あの狭い半地下の部屋に招き入れ、居場所を作ってくれたのはレオでありニコだった。いつでも来てもいいと言ってもらえ、受け入れてもらえた。

 居場所をなくした子どもだったかつてのラインハルトは、赤の他人である大人に一時的ではあるが救われた。だから今、ほんの数日ではあるが居場所をなくしたルーカスをここで預かるのも何かの縁なのかもしれない。

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