遅刻ぎりぎりに息を切らして小学校に滑りこんだことを除けば、一日は普段と変わりなく過ぎた。いつもと同じように校内の掃除や営繕をしながら、ときおり話しかけてくる子どもたちの相手をしていればあっという間に時間は過ぎる。そして、普段ならば仕事を終えればまっすぐ家に帰るラインハルトだが、今日は珍しく他の予定が入っていた。
学校のすべての施錠を終えてから、会場だと聞かされていた貸切の小さなバーに到着すると、すでにそこには教師や事務員など学校で普段顔を合わせる面々が集っていた。以前と比べて人々と会話を交わすことへの抵抗が多少は薄れたラインハルトだが、酒の入った賑やかな社交には馴染めず、とりあえず頼んだビールのジョッキを手にしてカウンターの一番隅に隠れるように座った。
人々の輪の中心には、クララがいる。学校帰りなので特にドレスアップしているわけではないが、誰かがふざけて店の花瓶から抜き取り髪に挿してやった赤い薔薇の花が、弾けるような笑顔によく似合っている。同僚たちは次々彼女に近づいては祝福の言葉をかけているのだろう、クララはその度はにかむようにわずかに睫毛を震わせた。
クララが「実は、婚約したの」と打ち明けてきたのは、ひと月ほど前のことだった。大学時代の友人と久しぶりに再会し、あっという間に意気投合したのだという。教員の仕事にはやりがいを感じているし、すぐに仕事を辞めるようなつもりはなかったが、商社に勤める恋人が外国に赴任することが決まり、散々悩んだ挙句退職することにした――そう告げる彼女の顔には喜びと寂しさが入り混じっていた。
以前、精神的に余裕をなくしていた時期にラインハルトは彼女にひどい言葉を投げつけたことがある。後で散々後悔したが、自分から謝ることなどできるはずもない。言葉を交わすことなく数ヶ月が経過したが、ある日クララが何もなかったかのように「おはよう」と声をかけてきた。それで何もかも元に戻った。クララは再び用務員準備室を訪れるようになり、ラインハルトはたまにはコーヒーや紅茶を淹れて彼女を迎えた。
人々の輪に入りきれずにいたラインハルトだが、やがて場の雰囲気が落ち着いた頃にクララがさりげなく近づいてくる。手にはワイングラスを持ち、酔っているのか頰が赤らんでいる。
「おめでとう、クララ」
そう言ってラインハルトがジョッキを差し出すと、クララはワイングラスをコツンと当てて「ありがとう」と答えた。普段は饒舌なクララなのに、逆に酔うと口が重くなる方なのか、ラインハルトの顔を見て微笑むだけでそれ以上何も言おうとしない。
先に沈黙を破ったのはラインハルトだった。少し離れた場所にはクララに話しかけたい素振りのグループがいる。自分がいつまでも今日の主賓を引き止めることはできない。だから、伝えるべきことを口にするなら今しかない。
「心から祝福する。でも君がいなくなると寂しくなるよ」
手持ち無沙汰をごまかすために飲んだビールのせいで、普段よりいくらか開放的な気持ちになっていたかもしれない。そうでなければ少なくとも後半の言葉は決して口にできなかったはずだ。
「嘘。面倒がなくなると思ってるでしょう?」
クララはそう言ってにやりと笑った。過去に怒りと混乱に任せて「来るな」「迷惑だ」と言ったことをまだ少しは根に持っているのかも知れない。だとしても、彼女はその傷を冗談に紛れさせる程度には大人だ。
「ちょっとはね。でも、寂しいっていうのも嘘じゃない」
今度はさっきよりもう少し、真剣な調子で言う。確かに最初は迷惑だった。若い女教師と用務員ごときが親しくすることで悪目立ちしたくなかった。おしゃべりなクララが自分の場所や時間に割り込んで来ることへの戸惑いもあった。しかしいつの間にか彼女との雑談も日常になり、クララがいない学校を思えば、浮かんでくる感情は寂しさの他にない。だって彼女はラインハルトにとって唯一の友人だから。
ラインハルトが再び口にした「寂しい」という言葉に、クララの顔から笑いが消えた。驚いたように、感慨深そうに、首を傾げてつぶやく。
「あなた変わったわね。髪だけじゃなく何もかも。最初は何だか表情も反応もぎこちなくて、踏み込みすぎて怒らせちゃったこともあった。でもいつからだろう、雰囲気がずっと柔らかくなった気がする。……きっと幸せなのね」
どうだろう。ラインハルトは言葉に詰まる。
今の自分が幸せだという自覚はない。しかし以前のように自分自身は孤独で不幸なのだと迷いなく断言できる気もしない。何が変わったわけでもない。失った恋は戻らない。理想の自分とは程遠いまま。それでも、今の自分のままでも家に帰れば待っていてくれる相手がいる。こうして隣に並んで笑顔で話しかけてくれる同僚がいる。
これを不幸とは呼ばない。でも、これが幸せというものなのだろうか。ラインハルトにはわからない。だからクララの指摘に対して明確を返すことはしなかった。
「君の方が幸せそうだ」
クララも、ラインハルトが話題をそらしたことには気づいただろう。
「そりゃそうよ、最高に幸せだもの」
クララは満面の笑顔で髪に飾った赤い花を抜き取ると、ラインハルトの胸ポケットに挿した。最初に出会ったときに感じたのと同じ香水の甘い匂いが鼻先をくすぐり、消えていく。
「元気でね、ラインハルト。あなたは優しくて繊細な人よ。そんなあなたを理解して、寄り添える人といて」