Chapter 3|第41話

「おはよう」と声をかけられた瞬間、心臓が飛び跳ねた。

 ルーカスはいつも通りの表情、いつも通りの態度。だがラインハルトは思わず手に持ったタオルで濡れてもいない顔を拭くふりをして、視線を合わせるのを避けてしまう。

 結局ほとんど一睡もできなかった。寝不足で朦朧とした頭で、何もかもただの夢だったのかもしれないと自分を納得させようともした。しかしいざ声を聞けば昨晩の生々しい音、声、そういった何もかもが脳裏によみがえる。

 喉の渇きなど忘れた。ただ息を殺して薄い月明かりに照らされた部屋を満たす息遣いに耳を澄ました。下手に身動きをすればルーカスに気づかれてしまうかもしれないという気持ちもあった。もしもわざとではないとはいえこんな場面を目にしてしまったことがばれたら、気まずいなどという話では済まない。まともに共同生活を続けていくことすら難しくなってしまうだろう。

「……おはよう」

 朝の挨拶だけ返し身支度のため寝室へ向かう。今はまだルーカスの顔を正面から見ることも、落ち着いて声を聞くこともできそうにない。せめて夜まで時間が欲しい。気持ちの整理をして、何もなかったふりで今まで通りルーカスと向かい合うための時間が。だからラインハルトは、着替えを終えるとすぐに家を出ようとした。ただでさえ普段より早く起き出しているから出勤するには不自然な時間なのはわかっている。しかしルーカスと同じ空間にいることが、どうしようもなく気まずい。

「どうしたの、まだ早いじゃないか。もうお湯が沸くから、コーヒーくらい飲んでいくだろ?」

 カバンを手にそそくさと扉に向かうラインハルトを見つけ、ルーカスは無邪気にもそんな言葉をかけてくる。その声すら昨日までとは響きが違っているように思えて、ラインハルトはぎゅっとカバンの持ち手を握りしめた。

「ちょっと……早く出てやらなきゃいけない仕事があって」

「へえ、そんなこと今まで一度もなかったのに」

 ルーカスの声はどことなく訝しげだ。これまで二年近くの同居生活で、寝坊した日を除けばラインハルトは毎日判で押したように同じ時刻に家を出ていた。今日に限って早出しなければいけないなどと言い出して、もしかしてルーカスに怪しまれて、気付かれてしまうかもしれない。あれを、見てしまったことを。

 嫌な予感に一瞬ひるむが、ラインハルトは思い直す。だって、もしもあんな場面を見られたことにルーカスが気づいているのならば、こんな風にいつもと同じような態度を撮り続けることができるはずがない。

 だって、ルーカスは多感な十六歳だ。それに、ここに来てからはラインハルトに遠慮してか教会の話をすることはないが、彼はハウスドルフ夫妻の元で毎週日曜日に教会に通って育った。自慰行為が神の言うところの貞潔に背く罪であるという認識はあるだろう。羞恥だけでなく罪深い行為を見られてしまったことへの自覚があるならば、きっとルーカスはラインハルト以上に動揺しているに違いない。こんな風に屈託なく話しかけてくる時点で、ルーカスが昨晩の出来事に気づいている可能性は限りなく薄い――ラインハルトは自分自身にそう言い聞かせた。

「仕方ないだろ、仕事なんだからこういうこともあるさ」

 うまい言い訳が思い浮かばなかったのでそんな言葉でごまかして一歩踏み出す。その瞬間無防備な首筋にぞわりとした感覚が走り、思わず大きな声を出して振り返る。

「うわっ……何だよ急に」

 髪の生え際と首筋のちょうど境目あたりに撫でるように触れられ、全身に電気が走ったようだった。

「ごめん、急に動くから距離感が。大丈夫なの? 目にくまができてるし、体調でも悪いのかと」

 振り向いた先には、過剰ともいえるラインハルトの反応に戸惑った様子でルーカスが立っている。肩でも叩こうとして手を伸ばしたところ、ラインハルトが急に動いたので距離感が狂って首筋に触れてしまったと、ルーカスはそう言っている。しかもラインハルトがあからさまな寝不足の顔をしていることにも、とうに気付いていたのだと。

「後ろから急に触られたら驚くだろ。別に、暑かったからちょっと寝付けなかっただけで具合が悪いわけじゃない。おまえが気にする必要なんかないよ」

 過剰な反応をしてしまったことも手伝ってなおさら気まずい。ラインハルトはルーカスの顔を正面から見ることができず、視線を伏せながらなんとか言い訳を口にすると一歩二歩と後ずさりして扉に向かいきびすを返す。

 ルーカスは、それ以上会話を続けることも拒み部屋を出ていこうとするラインハルトの背中に向かって、半ばひとりごとのようにつぶやいた。

「確かに暑かったよね。僕もなかなか眠れなかった……」

 それ以上ルーカスの声を聞くのも耐え難く、ラインハルトは普段より強い力で扉を閉めると急ぎ足で階段を降りはじめた。

 うなじのあたりが、さっき軽い力で触れられた場所が、熱い。一体なんで、どうして。ルーカスの手なんて、指なんて、これまで数えきれないほど触れてきた。いまさらちょっと指が触ったくらいで動揺する必要なんてないはずだ。でも、あの手は、あの指はもう今までのものとは違う。ラインハルトはそのことを知っている。

 ソファの背もたれに遮られて、ルーカスの姿は見えなかった。ただ、荒い息づかいと衣擦れ、ソファの壊れかけたスプリングが軋む音だけが部屋に充満していた。もしもあの背もたれがなければ、ルーカスの姿が視界に入っていたならば、きっとラインハルトの目に見えていたであろう光景。右利きのルーカスは彼自身の欲望をおさめるためにその手を、指を使って、そしてついさっき同じ手でラインハルトに触れたのだ。

 うなじから、一気に熱が全身に広がった。

 ラインハルトは踊り場で足を止める。強烈な熱は体の内側にまで広がり、胃が、心臓がじりじりと焼かれるような苦しさに息が詰まる。シャツの背中を汚す可能性すらもうどうでもよくて、埃っぽい壁に背中をつけてなんとか呼吸を整えようとするが、うまくはいかない。

 ラインハルトは、ここ最近自分自身に重苦しくのしかかっていた不安の正体がなんであったのかに、ぼんやりと気づきつつあった。

 ルーカスが成長し、ラインハルトが憧れた美しい少年の姿からかけ離れていくこと。彼が独り立ちして部屋を出ていく日が確実に近づいていること。ルーカス自身が青年になろうとする厄介な年頃に差し掛かり、接し方が難しくなってきたこと。そのどれもがラインハルトの気持ちを暗く重くさせた。でも、一番自分が恐れていたのはきっと、そういうことではなくて。

「……冗談じゃない」

 絞り出すようにつぶやいて、ラインハルトは嫌な考えを振り払うように頭を左右に振った。しかし、忘れようとすればするほど、否定しようとすればするほど、その考えはどんどん強固になっていく。

 出会った頃も、いや、つい最近まで考えたこともなかった。自分がルーカスのことを一人の男として、恋愛や性欲の対象にすらなりうるものとして見る日が来るだなんて。