「ラインハルト、なんでだよ」
耳元で囁いてくる声色には悲壮感すら漂った。そして、指摘されてはじめて自分の体の状態に気づいたラインハルトもまた、得体の知れない不安のようなものに襲われる。
あの晩から自分がルーカスに性的なものを感じていたのは確かなことだ。そして昨晩のラインハルトは半ば自暴自棄であったとはいえ、ルーカスのことを考え、彼の吐息や表情や手を思い浮かべて自慰に溺れた。なのになぜ実際に今ルーカスに抱きしめられ触れられて、自分の体は一切反応しないのだろう。
抵抗が緩んだことに気づいたのか、ルーカスが左手をラインハルトの顔に伸ばす。切り傷を覆うテープを触れるか触れないかの微かなタッチで撫でて、そのまま頰を包み込むと同時に、切実な眼差しを向ける。
「ルーカスっ」
止める間もなかった、というのは多分嘘だ。ルーカスの必死な表情が哀れになった、というのもきっと嘘。
近づいてきた唇が、恐る恐るといった風にそっと触れる。一度、二度。拒絶の動きがないことを確かめて、少しずつ触れる時間が長くなる。かつてオスカルと交わしたのは、この程度のじゃれ合いのようなキスで、その先はなかった。しかしもちろんルーカスの右手は相変わらずラインハルトの下着の中に差し込まれたままだし、唇はただ表面に触れるだけでは終わらない。
ぬるりとした感触がラインハルトの唇の合わせ目をなぞる。何を求められているかは何となく理解できるが、それが正しいのかわからないから動けない。やがて息苦しさにたまらず薄く口を開いたタイミングを捉えて、ルーカスの熱く濡れた舌がするりと入り込んできた。
「ん……っ」
行為としては知っている、深い口づけ。慎みを知らないカップルが音を立てて貪るようなキスをしているところを見たこともある。しかし自分の身に起きてしまえばそれは色っぽくもなんともない、ただ驚きと戸惑い――そして、頭の中は「何が正解なのか」でいっぱいになる。
ルーカスの舌はぎこちなく、それでもなんとかラインハルトの歯列をなぞり、口内を弄り、奥に逃げようとする舌を捕まえようと闇雲に動く。応じるべきではないことはわかっている。ラインハルトは必死の思いでルーカスの思いを拒絶した。そして、このまま何としてでも拒絶を貫くべきで、一時的な熱病に浮かされているだけのこの少年をどうにか自分の体から引き離し、ここから追い出し、二度と会わないことがラインハルトにとっては唯一の正解。
でも――今ラインハルトの心を覆いつつあるのはまったく異なる種類の不安だ。この気持ちが正しくないのだとしても、あきらめざるを得ないものなのだとしても、自分はルーカスのことを今では一人の男として意識している。そして許されないことだと知りつつも愛し愛される未来を望んだはずだった。
子どもではないから、愛情の先にセックスへの欲望があることは知っている。かつて教会では禁欲がいかに尊く、自慰行為や婚前交渉がどれほど罪深いものかをさんざん説かれたが、実際は信者ですら少なからずそれらの教えを守ってはいないのだということも今では理解している。
くちゅくちゅと濡れた音が、口の中から直接頭に響くのは奇妙な感じだ。絡め取られた舌に必死で吸い付いてくるルーカスは、母乳にすがりつく子猫のようにも思えてくる。必死に、滑稽なほど必死に口の中を蹂躙していたルーカスだが、やがて飲み込みきれなかった唾液がラインハルトの唇から伝うのを舌で追いかけて、ようやく長い口づけに一区切りをつけた。
「……はぁ」
ようやく唇を解放され、ラインハルトは小さく息をつく。うまく呼吸できていなかったから頭の奥が少しぼんやりしている。しかしそれでも、今ルーカスが失望していることだけは、その顔を見るまでもなくわかった。
長く深いキスに、ラインハルトはただ硬直してされるがままだった。その間もルーカスの手は変わらずラインハルトの性器に触れていたが、相変わらず一切の反応はない。昨日はルーカスのことを考えるだけで何度も何度も、怖いくらいに張り詰めた場所なのに。
「あ、あの、ルーカス」
思わず名前を呼び、結局は何も言えない。
馬鹿みたいだ。ルーカスを巻き込みたくないと、このまま拒絶すべきだと理解しているのに、同じ頭で今ルーカスに失望されることを怖がっている。いい大人のくせに、キスや愛撫のひとつにも応えられない自分をルーカスがどう思うか、そんなことを気にして怯えている自分のことがどうしようもなく惨めだった。
「ラインハルト」
キスの余韻で、ルーカスの頰は少し紅潮していた。しかし、その声には確かに失望が込められているようだった。
「ねえ、どうすれば……」
絞り出すような声と同時に、ルーカスの右手に力がこもった。優しく撫でさすっていただけだったそこを握るように、さっきより乱雑に擦りはじめる。何とかラインハルトの体から望むような反応を引き出そうとしているのだ。
しかしラインハルトは、決してルーカスの行為が望む結果に結びつかないことを知っている。もはやラインハルトの頭の中はどうしようもなく混乱してしまっているし、同じように混乱したルーカスの愛撫も、快楽を呼び起こすものとは程遠くなっている。やがて、激しい動きにラインハルトは思わず小さな悲鳴をあげた。
「痛いっ」
その一言で、ルーカスの手が止まる。ラインハルトは自分が決定的に場を壊してしまったことに気づいた。
「ご、ごめん」
ルーカスは慌てたようにラインハルトのペニスを握る手を離した。それと同時に、ぎゅっと抱きしめていた体からも弾かれたように距離を置く。
「ラインハルト、ごめん。ひどいことするつもりじゃなかったんだ。つい……つい僕……」
そう言いながらルーカスの表情は曇り、あっという間に青ざめる。ラインハルトは自分の反応がルーカスを傷つけて、失望させたことを確信した。結局同じだ。ルーカスをこれ以上巻き込まず、真っ当な人生に戻してやるためには彼を拒絶して傷つけなければいけない。一方で、ラインハルトがルーカスを受け入れようとしたところで、自分の歪みきった心と体はうまく応えることが出来ずに、こんな有様になってしまうのだ。
相手がオスカルだろうがルーカスだろうが、ラインハルトにはいまさら恋愛なんてできるはずはなかった――そんなことわかっていたはずなのに、なんで一瞬でも夢を見てしまったんだろう。
「わかっただろ」と、ラインハルトは顔を上げないままでつぶやいた。これ以上落胆したルーカスの顔を見る勇気はなかった。
「わかったって……?」
「気持ちなんて、ないってことだよ」
何もかもただの幻で、勘違いだった。だって実際にルーカスの欲望を前にして、ラインハルトは惨めに震えるだけだった。ルーカスの気持ちが恋なんかではないのと同様に、自分の気持ちだって恋ではなかったのかもしれない。独りぼっちの寂しい男が人恋しくて勘違いしてしまっただけ。きっと。
「おまえにいくら触られたって俺は何も感じない。何度も言わせるな、成長した今のおまえに興味なんかないし、無理やり押し倒してくる相手を家に置き続ける趣味もないんだ」
「ごめん。つい焦って、無理やりしたことは謝るから。もう二度としないから。ラインハルト、お願い許して。出ていけなんて言わないで」
ルーカスの声が弱々しくなり、ついには涙が混じりはじめる。
もちろん哀れみはある。情もある。でもこれ以上こんなことを続けたって不毛なだけだ。ルーカスのためにも自分のためにも今できるのは、離れ離れになること。そして忘れること。だからラインハルトは、涙でぐしゃぐしゃになりながら謝り続けるルーカスに向けて言う。
「自分で出て行かないなら、おまえの叔父さんに連絡して連れに来てもらおうか」