Chapter 4|第66話

「これ、殴られたんだ」

 そう言って、オスカルは空になった右手で自らの口元の絆創膏を指して見せる。

「え?」

 突然話を変えられラインハルトが思わず聞き返すと、オスカルは自嘲気味に小さく笑った。

「昨日あのガキが事務所にやってきて、何も言わずぶん殴ってきた。こっちは何の構えもなかったから思い切り床にひっくり返ってこの様だよ。もちろん二発目もやられるほど間抜けじゃないが、みっともないったらありゃしない」

「あのガキって……」

 そんなのルーカス以外にあり得ない。でも、ルーカスがわざわざオスカルのところまで出向く理由など――浮かび上がってきた都合の良い想像をラインハルトは心の中で慌てて打ち消す。だが、そんなみっともない動揺は目の前のオスカルには気づかれてしまっているのかもしれない。オスカルはラインハルトのあからさまな狼狽に目を細めた。

「ご想像通り、ルーカスだよ。勝手な勘違いで人の人生台無しにした冷血漢って、事務所のスタッフや相談者の面前で散々罵りやがる。ラインハルトは子どもに邪な関心なんか持たないし、一緒に暮らしている間もちゃんと大人として守ってくれたんだって必死な顔でさ」

「そんな――」

 思わず否定しそうになるのは、先日の自分がひどいやり方でルーカスを突き放したことを自覚しているからだ。心だけでない、意図したわけではないとはいえ肉体までも彼を拒絶した結果ルーカスは傷つき消沈して去っていった。それでおしまいになるはずだった。だがルーカスはラインハルトの名誉を回復するためにわざわざオスカルのところへ出向いて行ったというのだ。もちろん暴力行為は褒められたものではないが。

 オスカルは一歩踏み出し、ラインハルトの目の前すぐ手に取れる場所にまで、ふたつのネックレスが載った手のひらを近づける。

「あいつがこれを持ってきた。ラインハルトは俺のことを忘れていないから、もう一度ちゃんと考えてやってくれって」

「でも、本当にこれは」

 まだ状況を飲み込めずにいるラインハルトに、オスカルは笑う。気まずそうで、しかし親しみを感じさせるその表情は少年時代の彼を思い起こさせた。

「聞いたよ。初恋の思い出の品だって聞いてあいつ、嫉妬してこれを窓から投げ捨ててしまったんだってな。ラインハルトにこっぴどく叱られて反省したって、雨に濡れた犬みたいな顔でしょぼくれてたよ。あのおっかない叔父さんには補修だって嘘ついて、夜な夜なここまで探しに来ていたらしいぜ」

 ラインハルトはもう一度オスカルの手の中にあるペンダントに視線を落とす。こんな小さな物、いくら落とした場所の目星がつくからって簡単に見つかるはずはない。安い合金にメッキしただけの吹けば飛ぶようなネックレスだから風に流されてどこか遠くへ行ってしまった可能性もあった。でも、ルーカスはラインハルトの大切な物を奪ってしまったことを気にして、必死にこれを探し出したのだ。毎夜、薄暗い街灯だけを頼りに。

 震える手を伸ばし、二つのネックレスを取り上げる。ほとんどおもちゃのようなそれらがどんな貴金属より重く輝いて見えるのは、きっとルーカスの気持ちが乗っているから。ラインハルトはネックレスをぎゅっと握りしめた。

「悪いことしたって思ってるのは本当だ。顔も見たくないって思われてるのもわかってる。でも、あんな風にガキに説教されてただ黙っているわけにもいかなくて、嫌がられるのは承知でここに来た」

 そう言ったオスカルは一瞬ためらってから、続ける。

「でも、あいつは誤解しているんだろう? だってラインハルト、おまえは俺のことなんてもう……」

「うん」

 うなずく声には涙が混じる。今こんなに胸がいっぱいなのはオスカルが謝罪に来てくれたからではない。ラインハルトはただ、自分のことを思って行動してくれたルーカスの気持ちが嬉しかった。まだルーカスがラインハルトのことを忘れていないのだという事実が嬉しくて、一方でただ苦しかった。

 ルーカスの無邪気さは残酷だ。そのルーカスにそそのかされてこんなところまで出向いてきたオスカルだって残酷だ。だってこんな話を聞けば、ラインハルトはまたあきらめられなくなってしまう。何とかして消し去ろうとしているルーカスへの気持ちがまた大きくなってしまう。

「ありがとうオスカル。ただ、これはもういらないんだ。良ければ君の方で処分して欲しい」

 ラインハルトは顔を上げてオスカルの手を取ると、そこにネックレスを戻した。そして驚いたように「どうして」とつぶやくオスカルに向かって、涙を拭きながら何とか笑おうとした。

「俺は自分が小児性愛者ペドフィリアだと思ったことはない。でも、失った初恋に執着して、歪んだ気持ちをルーカスに投影していたことは事実だ。結果として――俺はあいつに邪な気持ちを抱いたし、それがルーカスに悪影響を与えたのも事実だと思う。だからオスカル、君やハウスドルフさんの言っていることも完全に間違っているわけじゃない」

 勘違いしてはいけない。いくらルーカスがラインハルトを慕ってくれたとしても、その気持ちの出発点自体が間違っているのだということを。最初から間違っているものは、どこまでいったって間違いのままなのだ。ラインハルトは唇を噛んだ。

 オスカルは頑ななラインハルトにむしろ驚いているようだった。そして、ためらいがちに手を伸ばすと慰めるようにラインハルトの肩を軽く叩いた。

「俺が言うのもおかしな話かもしれないが、ラインハルト、たった二年だ。あの叔父さんだって体面さえ保てればいいんだから、ルーカスが学校を出た後のことなんか気にしないさ……」

 たった二年――無神経な言葉に忘れかけていた怒りが急に蘇る。ラインハルトは思わずオスカルの手を振り払い、大声を上げた。

「たった二年だって? それを君が言うのか?」

 オスカルの手からほとんど音も立てずに金色のネックレスが飛び、床に落ちた。オスカルはそこでようやく失言に気づいたのか、はっとして口をつぐむ。だが一度堰を切った感情は止まらない。ラインハルトはオスカルに詰め寄った。

「二年は長い、彼みたいな子どもにとっては特にね。君と同じですぐに目を覚ますに決まってる。俺はあんな辛い思いをするのはもうこりごりなんだ。さあ、言いたいこと言ってもう十分だろう。そのおもちゃを拾って帰ってくれ。帰れよ!」

 どうしてこうも皆自分勝手なのだろう。理想の息子でなければ我が子でないとのたまう父。勝手な都合でルーカスを押し付けてきたかと思えば、体面を気にして急に取り上げに来るハウスドルフ氏。一方的な思い込みでラインハルトの身の破滅を呼び込んでおきながら、今になって親切面をしてくるオスカル。

 そして――あきらめる、忘れると何度も何度も繰り返して、それでもまだルーカスへの思いを断ち切れずにいる自分自身。もう何もかもうんざりだ。

 突然大声を上げたラインハルトの勢いに押されたようにのろのろとオスカルは床に落ちたペンダントを拾った。そして観念したように入り口のドアへ向かいながら、背中越しに一言問いかける。

「おまえは、あいつを俺と同じだと思っているのか?」

 まさか、冗談じゃない。ほんの少し離れていたくらいで気持ちが揺らぎ、果てにはラインハルトとの初恋を過去の過ちだと笑って済まそうとしたオスカルと、ルーカスが同じであるはずがない。ルーカスはもっと真っすぐに必死にラインハルトを求めてくれた。そして、思いを拒まれた後ですらラインハルトの幸せのためにオスカルの元を訪れてくれた。

 ラインハルトはルーカスがどれだけ誠実な人間かを知っているからこそ、ルーカスを巻き込みたくない。それに――巻き込んだ結果――。

「……もしもまた自分が、好きになった人にとって人生の汚点になってしまったら思うと、怖いんだ」

 そう答えると同時に、ドアノブが回った。