ルーカスが足を止める。ラインハルトにはわかっている。今話をしないとルーカスは本当にここから去ってしまう。そしてもしかしたら今度こそもう二度と戻ってはこないかもしれないのだと。
「ルーカス、待ってくれ」
もう一度呼びかけるとルーカスがゆっくりと振り向いた。
言いたいことは山ほどあるのに、何をどこから話せば良いのかわからない。熱くて大きな塊が喉元に引っかかっているようで、それ以上の言葉が出てこないもどかしさに焦れて、とうとうラインハルトの目から一筋の涙が流れた。
ルーカスが苦しそうに目を細める。その表情はまるで恋や愛の苦しみをいくつも知っている、一人前の大人のようだった。
「やめてよ、そんな顔をされたら誤解しそうになる」
そう言ってラインハルトの方へ一歩踏み出し右手を差し伸べようとして、しかし躊躇したようにルーカスはその手を引っ込めてしまう。そんな動作ひとつに不安が湧き上がり、続けざまに熱い涙が頬を伝い床板に落ちる。
「……誤解なんかじゃない」
ようやく振り絞った言葉はそれだけだった。
誤解なんかじゃない。ずっとルーカスのことを思っていた。ここで一緒に過ごす日々がずっと続くことを祈り、いつの日か彼に愛されることを望んできた。それを口に出せなかったのはただ、怖かったからだ。
再び言葉に詰まったラインハルトを困ったようにじっと見つめて、ルーカスは口を開く。
「だったら話してよ、本当のことを」
これまでさんざんラインハルトの嘘と強がりに振り回されてきたルーカスが言葉を求めるのは当たり前のことだ。彼を引き留めるために必要なのは本当の気持ちをきちんと言葉で伝えること。わかっている。そんなことわかっている。でも怖さは完全には消えない。
「でもルーカス、おまえを一緒に地獄に落としてしまう……」
ルーカスの周囲の人間はどう思うだろう。ルーカスの将来はどうなってしまうだろう。いつかラインハルトとの出会いをひどく後悔することがあるのではないか。
ここに至ってまだ最後の一歩を踏み出せないラインハルトに、ルーカスが再び手を伸ばした。今度は迷いなく、ラインハルトの握りしめたままの拳に手のひらを重ねてくる。その体温の熱さに、ラインハルトは緊張のあまり自分の手が冷え切っていたことを知った。そしてルーカスはラインハルトの目を覗きこみ、小さく笑う。
「僕が誰だか知ってるだろう。死に神に名付けられた子ども。地獄に落ちることなんか恐れるはずはない。いまさら怖いものなんて――あるとすればただひとつ、こんな僕に手を差し伸べてくれたラインハルト、あんたを失うことだけだ」
手を差し伸べたのは、どっちだ。何もかもをなくしてずっと一人で生きるのだと思い込んでいたラインハルトを必要として、居場所を作ってくれたのは誰だ。醜いところも弱さも狡さも知って、それでも何度だって戻ってきてくれたのは。
ラインハルトは堪えきれず嗚咽を漏らした。泣きながらただ、謝ることしかできない。
「ごめん、ごめん……」
そんなラインハルトの右手を握りしめたまま、ルーカスは空いている方の手を伸ばしてくる。
「聞きたいのはそんな言葉じゃない。わかってるんだろ」
髪に触れる手。あの日衝動的に脱色してしまったせいで、ほとんど白に近い金色になった髪に、ルーカスは慰るように愛おしむようにそっと触れる。
ラインハルトは手のひらの中にあるネックレスをぎゅっと握りしめた。どうか今度こそ間違えないように。どうか今度こそ自分の本当の気持ちと向き合えるように。もしかしたらいつか、近い将来もしくは遠い未来にルーカスの気持ちが変わってしまうことがあるとしても、それでも構わない。ただ今は――。
「ルーカス、行くな。お願いだから俺を捨てないで」
そう口にした瞬間、足元がぐらりと揺らぐ。ルーカスが強い力でラインハルトを抱き寄せたのだ。言葉もなくただルーカスは強く、強くラインハルトの体を抱きしめ、肩口に顔を埋める。その体は熱くて、少し震えているようだった。
感情の堰が切れたようにラインハルトは声を上げて泣き出した。みっともないことは百も承知で、喉元でわだかまっていた言葉までも一気にあふれ出す。
「おまえを不幸にするのが怖い。何より今以上におまえのことを好きになって、後で幻滅されたときに自分が傷つくのが怖い。でも、俺の髪が金色に輝いていなくても、どれだけ姿が醜くて滑稽でも……それでもおまえには必要とされたいって、愛されたいって思う気持ちが捨てられない」
泣きじゃくりながら一気にまくし立てる。顔を預けているルーカスの肩がみるみる涙で濡れていくが、止めることはできなかった。たくましくなったルーカスの背中を力いっぱいに抱きしめて、ただラインハルトは思いの丈をぶつけた。
ルーカスは子どもをあやすときのようにラインハルトの背中をぽんぽんと軽く叩きながら言う。
「僕が知っているのは最初から、今のラインハルトだけだよ。幻滅なんかするはずがない」
そしてゆっくりと手を動かし、確かめるように髪を、肩を、背中を撫でる。
「栗色の髪で、痩せぎすで、わがままで癇癪持ちでさ。多分他の人から見たら凛々しい一人前の大人に見えるのかもしれないけどさ、僕からすれば誰より優しくて脆くて危うくて、可愛くて守ってあげたい人だ。最初からずっと」
「ルーカス……」
ラインハルトはそっと顔を上げると、抱きしめる腕を緩めてルーカスと向かい合う。少しだけ低い場所から見上げてくる青い目は真剣そのものだった。
こんな年下の少年から「可愛い」とか「守ってあげたい」などと言われて喜んでいるなんて、はたから見たら滑稽な光景だろう。それでもこれは、ラインハルトが何よりも望んできた言葉だった。自分の外見の変化に絶望した思春期のあの日からずっと、それでも誰かにこんな風に思われることを心の奥底で望んでいた。
ルーカスはさっき自ら棚に置いたネックレスの片割れを手に取る。
「これは、本当に僕のものなの?」
その言葉に、ルーカスはオスカルの言葉を聞き流していたわけではなかったのだと知る。ただ彼もラインハルトの気持ちに確信が持てない以上、一度はそれを手から離すしかなかったのだろう。
「それはオスカルと一緒に買ったものだし、嫌ならまとめて捨ててもいいんだ。でも、これまでのいろいろなことがあったからこそおまえと出会えたから、もし嫌じゃなければ持っていて欲しい」
真実の愛の証。子どもだったラインハルトが初恋にのぼせていた頃に思いついた、馬鹿みたいな話。今では真実の愛なんてこの世には存在しないのだと思っているし、仮にそんなものがあったとしても自分のような平凡な人間には感知することはできないだろう。でも、今のラインハルトはそれでもいいのだと感じている。
自分がルーカスを求めて、ルーカスも応えてくれている。今信じられるのも大切なのも、きっとその事実だけ。
そしてルーカスは「もちろん喜んで。でも……」とつぶやくと、手にしたネックレスをそっとラインハルトの首にかけた。慌ててラインハルトも握りしめたままでいたもうひとつのネックレスをルーカスの首にかける。
「ルーカス」
「ラインハルト……」
互いの首で輝く十字架を見つめ、その視線はやがて位置を変え絡み合う。許しを得る言葉などいらない。ごく自然な動きで二人は再び抱き合い、ゆっくりと唇を合わせた。
混乱と同様の中で交わしたキスとは何もかもが違っていた。そっと触れ合い離すことを何度か繰り返し、どちらともなく首を傾け半開きの唇を深く絡み合わせた。散々唇を貪り尽くすと、次は口の中。舌を絡ませ、互いの歯列や粘膜の味すら確かめる。
「んっ……う」
息苦しくて口を離すと口角からだらしなく唾液が流れる。それを舌で絡めては再び唇を合わせる。互いの体をかき抱き、気づけばルーカスがラインハルトの腰にぐっと自らの腰を押し当ててきていた。