消毒液のにおいがする真っ白い部屋に突然あらわれたのは、いままで見たことのない大人の男の人だった。
「はじめまして、アキ」
ずっとお母さんと二人だけで暮らしていた僕は、大人の男の人はなんとなく苦手だった。だってたいてい体が大きくて、声がちょっと低くて、力が強い。持ち上げられたらそのままどこにだって連れて行かれてしまいそうな、大好きなお母さんと二度と会えなくなってしまいそうな、そんな気持ちになってしまう。
でも、その男の人は普通の大人とは違っていた。全体的にほっそりとして、色の白い顔にふんわりとした笑顔を浮かべて、まるで大人が大人にやるみたいに礼儀正しく右手を差し出してくるから、つい僕も手を出してしまった。
握り返した手は大きくて冷たかった。ベッドの上で動かないお母さんとおなじくらい冷たかったから、驚いた僕はさっと手を離してしまうけれど、その人は嫌な顔をしなかった。だから僕は「この人は怖くない」と思ってちょっとだけ安心した。
「あなた、誰?」僕はその男の人にきいた。
「私は、あなたのお母さんのお友達ですよ」と、彼は言った。
僕は今までに一度もお母さんの友達を見たことがない。お母さんは口癖のように「アキ、お母さんにはあなただけよ」と言っていたし、実際、僕たちの暮らす小さな部屋にほかの誰かがやってくるようなことは一度だってなかった。
ナーサリーの友達には、お母さんだけでなくお父さんがいたり、たまにお母さんが二人いたり、お父さんが二人いたりする。それどころか、おじさんやおばさん、いとこ、おじいさんやおばあさんといったたくさんの人たちと暮らしている子もいる。でも、僕と同じようにお母さんだけ、もしくはお父さんと二人だけで暮らしている友達だって珍しくはないから、さびしいとかうらやましいとか、そういう気持ちになったことはない。
「お母さんには、友達なんかいないよ」
少しだけ男の人を怪しんだ僕がそう言うと、彼はほんの短い間、考え込むみたいに動きを止めてから、用心深く言葉を選び直した。
「そうですね……便宜上『友達』という言葉を使いましたが、いささか正確さを欠いたかもしれません。あなたはまだ幼いから、わかりやすいように配慮したつもりでしたが、気分を害したならば申し訳ありません」
「きぶんをがいした?」
それ以外にも「べんぎじょう」とか「いささか」とか「はいりょ」とか、たくさんの意味のわからない言葉があったけれど、聞き返そうとするときには一番最後の部分以外はもう思い出せなかった。
「『気分を害した』というのは、嫌な気持ちになったということです。ともかく正確に言い直しましょう。私はあなたのお母様と契約しているんです。彼女の身に何かあったら、その後のいろいろな仕事を引き受けることになっています」
いろいろな仕事、というのが何のことなのか僕にはわからなかった。でも、きっと本当にたくさんのやらなきゃいけないことがあったんだと思う。男の人はそれから病院の人たちや「葬儀会社」というところの人たちと忙しそうに話をして、そのあいまには僕の食事の準備をしてくれたり、着替えを準備してシャワーを浴びさせてくれたり、夜には寝かしつけてくれたりもした。
不思議なことに、彼の作るスープはお母さんの作ったものとまったく同じ味がした。だから、お母さんのいない部屋で見知らぬ男の人に見守られて気持ちが落ち着くはずなんてないのに、僕はすぐに眠り込んでしまう。
少し前に、お母さんに連れられて洋服の採寸に行った。いつもの買い物では僕がお店にある洋服に合わせるのに、このときはお店の人が僕の体のあちこちを測って、それにピッタリ合わせた服を作るのだと言っていた。それは特別なことだから、すごくわくわくしたのを覚えている。
「これ、あのときの服かな」
男の人が差し出してきた上下揃いの黒い服を見て僕がつぶやくと、彼は「ええ」とうなずいた。僕はその服を着て彼に手を引かれ出かけると、病院とは別の場所でお母さんの棺の中に花を入れた。僕の背丈は棺を覗きこむには足りなかったので、彼は「葬儀会社」の人に踏み台を持ってくるように言った。
「お母さん、どう? この前の服だよ。似合ってる?」
声をかけるけれど、お母さんは目を閉じたままで返事はない。病院では青白く見えた顔の、ほっぺたのあたりに赤みがさしていて、乱れていたストロベリーブロンドの長い髪は綺麗に梳き整えられていた。まるで生きているみたいなのに、手をのばして触ると体は冷たくてかちかちに硬い。
悲しい気持ちよりは、不思議な気持ち。だから僕は泣かなかった。
僕がお母さんを見送る間、「契約」の男の人はずっと隣にいて冷たい手で僕の手を握っていた。
その日の夜、彼は僕に分厚い紙の束を見せてくれた。
お母さんとたくさん練習をしたから、僕はもう文字を読むことができる。けれど、その紙に書かれているのは見たことのない難しい言葉ばかりで全然意味がわからない。ただ、見慣れたお母さんのサインがあることだけはわかった。
「これは、契約書です」彼は言う。
「けいやくしょ?」僕はきき返す。
「あなたのお母様が、私を契約されたのです。自己紹介が遅れましたが、私は『電子的家庭支援社』の家事育児支援ロボットで、型番はAPーZ92ーMです」
「……」
笑顔を崩さないまま、彼が急に「自分はロボットだ」と言い出したので僕は何も言えなくなった。
言葉の意味はわかっていいる。おうちのことや子どものお世話を手伝うロボットは珍しくない。僕の通うナーサリーにもそれぞれのクラスに一人ずつの人間の先生の他に、ロボットの先生がいる。見ただけでは人間の先生との違いはほとんどわからないし、話したって同じだ。ただ、ロボットの先生は皆、目立つ場所に「電子的保育補助員」と書かれたバッジをつけている。
「驚かれましたか?」
僕がぽかんと口を開けたまま黙っているからか、「AP-Z92-M」は心配そうな表情を浮かべて僕の顔の前でひらひらと手を振った。
確かに僕は驚いていた。だって、今の今まで、この男の人がロボットだなんてちっとも思っていなかった。うまく言えないけれど、ナーサリーにいるロボットの先生たちと比べても、街中で働いているいろいろなロボットと比べても、「AP-Z92-M」はものすごく人間っぽいのだ。確かに手はすごく冷たかったけど、お母さんよりもすごく落ち着いていて全然怒ったり驚いたりしないけれど――それ以外は全然ロボットっぽさを感じない。
「先生が……、人間の先生が、ロボットの先生には『ほうりつ』で『ひょうじ』が必要なんだって言ってた。でも、あなたにはバッジがないよ」
からかわれているのかもしれないという気持ちが消えなくて、僕はじっと彼を見た。細く柔らかい黒髪はきっちりと整えてありまったく乱れはない。ほっそりとした白い顔と、切れ長の目にはやはり黒い瞳、薄い唇はほんのり湿っているように見える。彼の瞳は僕の動揺につられたみたいに揺らいでいて、どれだけじっくり眺めてもロボットであるようには見えない。
しかし、彼は左右に首を振って僕の言うことを否定した。
「業務用の場合は表示が義務付けられていますが、私は家庭用なのでバッジはいらないんです。大丈夫、法律違反はしていませんよ」
「ふうん……そうなの?」
この世界にはバッジを付けなくても良いロボットがいるということを、僕はこのときはじめて知った。だったら街ですれ違う人たちの中にもロボットが紛れているのかもしれない。わくわくするような気もするし、ちょっと怖いような気もする。
彼は冷たい手を伸ばして僕の頭を撫でる。
「アキ、あなたのお母様は病気が悪化してあなたの面倒を見ることができなくなった場合に備えて当社と契約されました。そして残念ながら彼女が亡くなられたため、私がやってきたのです。あなたが成人するまでお世話させていただきます」