サーシャとけんかになるのはそんなに珍しいことじゃない。というか、休みの日に一日一緒にいれば、大体一度はけんかをする。とはいえ僕が一方的にサーシャの言うことや態度に腹を立てるだけのこれをけんかと呼ぶのかはよくわからないけれど。
「サーシャのばか、わからずや」
部屋でひとり、つぶやく。
面白くない。僕が腹を立てたときに、乱暴な言葉や失礼な言葉を使ってしまうのは、それでサーシャに僕がどれだけ怒っているか、悲しいかをわかって欲しいから。僕がサーシャに「嫌い」と言ってしまうのは、僕がサーシャに「嫌い」と言われたくないから。でも、サーシャは僕がどれだけ憎まれ口を叩いても平気な顔をしている。
お母さんは違った。もちろん僕がいけない言葉を口にしたら、サーシャと同じくらい、もしかしたらサーシャよりもっとずっと怖い顔でお母さんは怒った。でも、あんなに澄ました顔はしなかった。僕が怒りで頭がこんがらがった勢いで「お母さんなんて嫌いだ」と言うと、いつだって悲しそうな顔をする。そうすると僕は自分がどれだけひどいことを口にしてしまったかに気づいて、慌ててお母さんに抱きついて「ごめんなさい」と謝る。そうするとお母さんも僕をぎゅっと抱きしめて、許してくれた。
でも、サーシャは僕に嫌いだと言われたってなんでもない顔をして、それどころか「嫌いで結構」なんてさらりと口にする。だから僕も、謝るチャンスを見失ってしまう。
「猫、だめなのかぁ」
あんなにきっぱりと断られるのは意外だった。もしかしたらサーシャは本当に猫が嫌いなのだろうか。これまでにひどく引っかかれたり、噛まれたりしたことがあるのかもしれない。でも、それならそれでちゃんと理由を言ってくれたらいいのに。
自転車はすでに買ってもらって、猫もだめとなると本当に何も浮かばない。僕はベッドにごろりと横になると、他のプレゼント候補を考えはじめた。食事の後ですぐに横になるとサーシャは怒るけれど、どうせ今は見られていない。
しばらく経った頃、小さな声が聞こえた。
にゃあん。
猫の声。これは多分、ポピーだ。ブラウンさんはアパートメントの自分の部屋のドアに小さな猫用のドアをつけてポピーが自由に出入りできるようにしている。だから僕は階段や家の近所でよく彼――ポピーはオス猫だ――と出会う。このアパートメントには他に猫を飼っている人はいないし、ポピーはこの辺りのボス猫だから、声がするなら彼の声に決まっているのだ。
ただひとつおかしなことがあるとすれば、ポピーの声が窓の方がら聞こえてくることだ。普段彼の声が聞こえるとしたら、気まぐれに僕たちの家の玄関ドアを引っかいて鳴くときくらいだし、そのときだって玄関から距離のある僕の部屋までは届かない。
おかしいと思って、僕はベッドから飛び降りて窓を開けると、そこから顔を出した。
にゃあん。さっきより近くからポピーの声が聞こえる。普段より少し高くて不安そうな響き。一体どこにいるのだろう。きょろきょろと周囲を見回して、僕はついに彼の姿を見つけた。
「ポピー」
大きな声を上げそうになったけれど、我慢したのはサーシャに気づかれてしまうかもしれないからだ。さっき猫の話でけんかになったばかりなのに、タイミングが悪い。
ポピーは、僕の部屋からずいぶん下にいた。アパートメントの三階、ちょうどブラウンさんのある場所の窓の外側にあるごく細い段差にかろうじて引っかかって、不安そうに鳴いていた。土曜日の午前中は、いつもブラウンさんはチェスのサークルに出かけてしまう。今日は少し気温が高いから、細く開けておいた窓からうっかり外に出て、戻れなくなってしまったのだろうか。
猫は高いところが得意だ。ポピーだって、ナーサリーによく入り込んでくる野良猫だって、僕が遊ぼうとして手を伸ばすとすっと身をかわして高いところに逃げてしまう。まるで妖精みたいに高い木の上や塀の上を歩き回る姿はしょっちゅう見ている。でも、今のポピーは少し様子が違うようだ。そういえば、高い枝に登りすぎた猫が降りられなくなってレスキューに助けられたというニュースを見たことがある。猫も、あまり高い場所だと怖くなってしまうのかもしれない。
「ポピー、待ってて。すぐに助けてあげる」
僕は小さな声でポピーに向かってささやきかけると窓を閉めた。
そっと部屋のドアを開く。廊下にサーシャの気配はない。リビングで家事をしているか、仕事が終わってしまったのならばソファで本でも読んでいるのだろうか。とにかく廊下にサーシャがいないのは幸運だった。だって、サーシャは猫が嫌いなのだから、僕がポピーを助けたいと言ってもきっと賛成してくれない。それどころか「だめです」の一言で僕をリビングに閉じ込めてしまうかもしれない。
床を這うようにしてそっとそっと玄関まで行った。ドアを開けるときに少しだけ軋むような音がしたけれど、そんなに大きい音は出さずに済んだと思う。すぐ下の踊り場までは足音を忍ばせて、サーシャが追ってきていないことに気づくと、そこから先は一気に駆け下りた。
アパートメントの共同玄関の重いドアを開けて外に出ると、ブラウンさんの家の窓のあたりを見上げる。そこにはまだポピーが怯えた様子で、でも必死に足を踏ん張っていた。あまりにも足場が細いから、さすがのポピーもうまく他の場所に飛び移れないのかもしれない。
「ポピー!」
「にゃああん」
名前を呼ぶとさっきよりももっと心細そうな声でポピーが鳴いた。どうしよう、僕はきょろきょろと周囲を見回す。管理人さんがたまに使っている脚立がひとつ。あの一番上からジャンプしてポピーを捕まえてはどうだろう。いや、全然高さが足りない。
さらに周囲を見回して――僕の目に入ったのは雨樋だった。
地面から続く雨樋は、アパートメントの外壁に沿ってまっすぐ上に伸び、ちょうどポピーのいる窓の近くを通っている。ところどころに壁に固定するための金具もついているから、あそこに足をかけながら木登りの要領で登って行けば、きっとすぐにポピーに手が届く。
それは完璧なプランに思えた。僕は、足が滑らないようにその場に靴を脱いで、脱ぎ捨てた靴下をその中に詰め込んだ。アスファルトの感触が足裏にくすぐったくて、小さく跳ねるようにして雨樋のところまで行くと、両手を伸ばして壁を這うパイプに飛びついた。
雨樋はあまり太さがないので、木登りよりは少し難しそうだった。でも、金属でできた表面には細かい凹凸があってしっかりとつかめば十分ポピーのいるところまで行けそうな気がした。少しずつポピーの声が近づいてくるのに元気づけられて、僕は一生懸命手足を動かした。やがて僕の手がブラウンさんの窓に届きそうな場所までやってきて――僕はふと、下を見た。
ぐらりと目がくらむ。
つまり、そこは僕が想像していたよりずっとずっと高い場所だったのだ。
地面が遠く見える。さっき脱ぎ捨ててきた僕の靴はすごく小さい、ミニチュアみたいだった。どうやって僕はこんな高い場所まで上ってくることができたんだろう。高さをいったん意識してしまうと、急に僕の体の深いところから怖さがせり上がってきた。
落ち着かなきゃいけない。あとちょっとだけ高いところまで行って、片手だけを雨樋から離して伸ばしポピーを救出する。そしてポピーを抱いて、上ってきたときと同じように少しずつ下に降りていけばいい。
何も難しいことはないはずなのに、一度怖いと感じてしまった僕の体は、決して同じようには動いてくれない。僕の手足は震えて、上に行くことも、下に戻ることもできなくなった。窓枠で震えているポピーとまったく同じ状態だった。
どうしよう、どうしよう。手足がどんどん冷たくなって、汗が噴き出してくる。汗をかくと、滑るかもしれない。滑ったら落ちるかもしれない。この高さから落ちてしまえば下にあるのはアスファルトだけ。そこに叩きつけられたら?
そのとき、僕を呼ぶ声がした。
「アキ!」
サーシャの声だった。家をこっそり出たことにどうやって気づいたのかわからないが、サーシャが僕を見つけて外に出てきたのだ。
僕はサーシャがすぐ下にいることを知って、でもそっちを見ることはできない。だって今下を見たら、怖さのあまり手を離してしまうから。
「アキ、何やってるんですか。ゆっくり降りてきて……」
「でも、ポピーが!」
思わずそう叫んでいた。でも本当は、自分がもう上にも下にも一ミリだって進めないことはわかっていた。ばかなことをした。本当はちゃんと大人の人を呼んで、ポピーを助けてもらうべきだった。僕はもう六歳だからなんでも自分でできると思って、結果こんなところで震えながら雨樋にへばりついているなんて。
「ポピーはちゃんと助けます。猫のことは心配しないで、あなたはそこから降りることだけを考えてください」
サーシャはそう言った。猫が嫌いなサーシャが本当にポピーを助けてくれるのかはわからない。でももう僕にはサーシャを疑うような余裕は残っていなかった。怖くて怖くて、ただ地上に無事に戻りたくて、頭の中はそれだけだ。
「でもサーシャ、怖くて手と足が動かないよ!」
怖い、と口にすると気持ちが一気にあふれ出す。僕は雨樋を必死に握りしめたまま泣き出した。
地面からはガシャガシャという音が聞こえてくる。あの高さの足りない脚立を動かしているのだろうか。でもサーシャだってそんなに背が高くはないから脚立に乗ってもここまでは届かない。
「アキ、しっかりして。もう少しだけそのまま……」
サーシャの声は途中で聞こえなくなった。
――僕の両手はついに、雨樋から離れていた。