第4話

「え?」

 僕がどんな言葉を欲しがっているかはわかっているはずなのに、サーシャは知らんぷりでもう一回繰り返す。

「アキ、明日の朝一番にその女の子に謝りなさい」

 聞き間違いなんかじゃない。僕を慰めてくれるどころかサーシャは迷うことなくビビの味方をしたのだった。だから僕は思わず、さっきよりも大きな声を出してしまう。

「何で僕が謝らなきゃいけないの?」

 僕にはサーシャの言っていることが全然わからない。まだ出会ったばかりの担任の先生が急に教室の真ん中で言い合いをはじめた僕とビビにびっくりして「けんか両成敗」を言い渡したのは、嫌だけどしょうがないような気もする。でもサーシャは違う。

 もう何年も一緒に暮らしている、僕のお世話をするためにここにいるサーシャ。ロボットが僕じゃなくて見知らぬビビの肩を持つなんて、おかしいに決まっている。

「サーシャまで僕を悪者扱いするの?」

 思わず頬をふくらませる僕に、サーシャは嚙んで含めるように言い聞かせた。

「悪者とか、そういう話をしているんじゃないんです。確かにその子の騒ぎ方は少し大げさだったかもしれないけれど、あなたが髪を触ったのは事実なんでしょう? 知らない男の子に急に触られてびっくりしたんですよ。もしかしたらアキがむきになるから、彼女だって後に引けなくなったのかも知れません」

 確かに僕はちょっとだけビビの髪に触った。確かにビビに怒鳴られて、負けないくらいの勢いで怒鳴り返した。サーシャから謝るように言われると自信がなくなってくる。もしかしたら、ビビだけじゃなくて僕もちょっとくらいは悪かったのだろうか。

「でも……」

 それでもビビに謝るのは嫌だ。サーシャの言葉に素直に首を縦に振れず唇を噛んでいると、僕の頰にそっと冷たい手が触れる。

「アキ、私は何もあなただけが悪いと言っているわけではないんです。ただ、もう小学生なのだから、人とのトラブルを解決するためにそういう方法もあることは知っておいて損はありません。お互いが意地を張って引き下がれなくなっているときに先に謝るのは負けではないですから」

 いたわるように頬を包み込んでくれるひんやりとした感触に胸のあたりのもやもやが少しずつ溶けていく。言われていることの意味は正直よくわかっていない。でも、サーシャが優しく触れてくれればそこから穏やかな気持ちが流れ込んできて、ビビに対してもさっきほどは腹が立っていないような気がしてきた。

 やがてサーシャは僕の肩をぽんと一度叩くと、さっきまでとは全然違う、明るい声を出した。

「さあ、話はここまで、暗い顔もここまでです。夕食にしましょう。お腹減っているでしょう? 今日はデザートにアップルパイもありますよ」

「やったあ!」

 僕は歓声をあげると、ソファから飛び降りた。

 そして次の朝、僕はおそるおそるビビに話しかけることにする。サーシャと話しているときはビビへの嫌な気持ちがほとんどなくなったような気がしていたけれど、実際にその顔を見るとやっぱり落ち着かない。第一、あんなに怒りっぽいビビと、ちょっと謝ったくらいで本当に仲直りできるんだろうか。サーシャはビビと会ったことがないから適当なことを言ったのかもしれない。

 でも、約束は約束だから今さらなかったことにはできない。

「あのさ」

 僕はもじもじしながらビビの椅子の横に立った。

「何?」

 ビビは怖い顔をして椅子から立ち上がると半歩だけ後ろに下がった。まるで僕がすごく乱暴な子供で、今にも殴りかかってくるんじゃないかと警戒しているみたいだった。

 僕は苦い薬を飲むときみたいに精一杯急いで、早口の小さな声で謝った。

「昨日はごめん。引っ張ってはいないけど、ちょっとだけ君の髪に触っちゃったんだ。僕のママと同じ色の髪の毛だったから」

 その瞬間、ビビのビー玉みたいな目はびっくりしたときの猫みたいに大きくなった。僕が謝るなんて、きっと夢にも思っていなかったんだろう。

 でもビビの反応だって負けないくらい意外なものだった。「あたしも悪かったわ」という言葉の代わりに不機嫌そうな顔のままでビビは言ったのだ。

「だったら、あんたのママの髪を触ってればいいじゃない」

 その肩のあたりでは昨日と同じストロベリーブロンドのお下げ髪が揺れている。ビビの言うことは当たっている。僕だって別にビビの髪なんか触りたくなかった。お母さんの髪を触れるならそうしてる。でも、それができないから。

「でも僕は」

 喉のあたりがぎゅっとなる。ただでさえビビには嫌われているし馬鹿にされているから絶対にこの子の目の前で泣いちゃいけない。僕はそう思って何とか我慢した。

「でも僕は、何よ」

「……僕のお母さんは死んじゃったから、もう髪の毛にも触れないんだ」

 なんとか泣かないままに最後まで言うことができた。

 ビビはまたびっくりしたときの顔をした。でも、それはほんのちょっとの間だけで、すぐにまた僕をじっとにらみつける。

「……そう。で?」

 じっと見られていると落ち着かないし、謝ったところでビビは怒ったままだ。自分から謝れば仲直りできるとサーシャは言っていたけど、それは嘘だった。気まずくなった僕は、ビビとの話をすぐに終わらせたくてますます早口になる。まるで叱られて言い訳をしているみたいだった。

「別に、それだけ。髪を引っ張ったつもりはなかったから、びっくりして言い返しちゃったけど、もし触られたのが嫌だったなら、そのことは謝らなきゃって」

 それだけ言い終えると僕はすぐにビビから目をそらして自分の席に戻ろうとした。だって僕はもうサーシャとの約束は守った。ビビにちゃんと謝った。もちろん許してはもらえなかったし、仲直りはできなかったけれどもうこれで十分だと思った。

 一歩踏み出したところで肩越しにビビの声が聞こえる。

「ねえ」

 まだ何か言いたいのだろうか。僕の謝り方が気にくわないとか、そういういちゃもんをつけてくるのだろうか。振り向いてもろくなことは言われない気がして、僕はビビの声が聞こえていない振りをした。

 でも、その「振り」は長くは続かない。ビビはもう一度僕に呼びかける。

「ねえ、あんたロボットの匂いがする」