僕と機械仕掛けと思い出(20)

 まるきり知らない人に話しかけられた様子で怯えきったおじいさんに、おばあさんはつかつかと歩み寄ると腕をつかんで立ち上がらせようとする。

「はいはい、わかってますよ。でもあなたの妻は私なんですから、一緒に家に帰りましょう」

「そう……そういえば、そうだったか? だが」

「そうなんです! さあ、行きますよ」

 強引なおばあさんに押し切られてなのか、それともほんの少しは今の生活の記憶が残っているのか、おじいさんは迷いながらも立ち上がり、足を踏み出した。

 同じ指輪をつけているし、警察のことも知っているし、多分この人は本当におじいさんの家族なんだろう。でも、もし違っていたら……。いや、でもこんなおばあさんが誘拐なんてするはずはない。どきどきしながら、でも声をかけることができずにいる僕の代わりにサーシャが口を開く。

「あの」

 その声に、おばあさんが急によそ行きの顔になる。

「あら、すみません。もしかしてこの人がご迷惑をおかけしたんじゃないですか? 最近暇があるとこの公園に来ては、いつまでもぐずぐずしているみたいで」

「迷惑だなんて、ただ……ずっとおひとりで座っているから気になっていただけで」

 こっちも困っているんです、という返事には深いため息がまじる。

「認知症が悪化しているっていうのに、体が元気だからって目を離すと勝手に出かけてしまって。普段は娘夫婦が迎えに来るんですけど、今日は急に孫が熱を出して、だから私が」

 そしておばあさんは、僕とサーシャにおじいさんについて話した。

 最初は少し忘れっぽいくらいで、この年になればよくあることだと思っていた。けれど症状は次第にひどくなり、やがて家族の顔すら見分けられないことが増えた。時間帯やタイミングによって状態にはむらがあるけれど、最近では昔の記憶に閉じこもってばかりなのだと。

「彼にとっては私も、娘たちも他人に思えるんです。だから家にいても不安なんでしょうね、すぐに出かけてしまう。でも出先でも帰り道がわからなくなって人様に迷惑をかけてしまうから。先日も警察の方に連れて帰ってもらって……でも外出を制限すると手がつけられないほど怒ってしまうんです」

 最近ではこの公園への散歩が定番だとわかっているから、ある程度自由にさせているのだという。そして、暗くなって寒くなって、いいかげんおじいさんが疲れた頃になって、家族の誰かが迎えにくるのだと。もしかしたら僕たちがおじいさんを警察官に預けた日にも、入れ違いでおじいさんの娘が公園にやって来ていたのかもしれない。 

「あなたたち、ご近所の方かしら? 本当に申し訳ありませんでした。さあ、あなた、帰りましょう」

 おばあさんがおじいさんの腕をとったまま、歩き出す。不安そうではあるけれど、おじいさんは渋々並んで歩き出し――、一度足をとめて、僕を振り返る。

「坊や、もし私の待ち合わせの相手が来たら、今日は急用ができたと謝っておいてくれないかい。明日の同じ時間に必ずまたここに来るから、と」

「……はい」

 待ち合わせの相手。その言葉に、僕は勇気を振り絞っておばあさんに声をかけた。

「あの」

「なあに? 坊や。このおじいさんは今のことと昔のことがわからなくなっているの。気にしないで」

「そうじゃなくて、あの。おばあさんは、バラの花は好きですか?」

 それはきっと、想像していた質問とはかけ離れたものだったのだろう。おばあさんは驚いたように、お化粧できれいに縁取られた目を見開いた。

「バラ……ええ、好きよ。でも、それが何か?」

 やっぱり待ち合わせの相手は、この人だった。僕はまくし立てるように続ける。

「おじいさんが毎日この公園に来るようになったのは、植え込みのバラがすごくきれいだったからなんです! 世界で一番きれいで素敵な恋人にバラの花を見せたいって毎日楽しみにしてたんです。もう散っちゃったけど……でも……」

 まるで小さな子どもに呆れているような態度でおじいさんに接するおばあさんに、彼がどれだけ「待ち合わせ相手」――つまり、彼女のことを大切に思っているかを。そうじゃないと、あんまりに可哀想だ。

「ああ、だからあの日バラの花を」

 その言葉に、あの日僕が手折ったバラは、おばあさんに届いていたのだと知った。おじいさんが大事に大事に、パトロールカーの中で不安でいっぱいなときにも握りしめていたバラ。

 良かった、と思う僕とは対照的に、おばあさんはぽつりと言う。

「嬉しいけど……そのバラは〈私〉への贈り物だったのかしらね」

「え?」

 瞬時にはその意味がわからない。だっておじいさんがバラを見せたかった恋人は――バラの花が大好きで、プロポーズするつもりの恋人は、間違いなくこのおばあさんなのに。

 それとも、違うというんだろうか。

「あの人の目には、遠い昔のことしか見えていないのよ。彼の記憶の中にある遠い昔の〈私〉は、〈私〉なのかしら?」

 難しすぎて、僕にはわからないつぶやき。ただ、おばあさんがとても寂しい気持ちでいることだけは、ひりひりするくらいに伝わってきた。

 僕はそれ以上何も言えなくなった。さっきまでのおじいさんとの会話で温かくなった気持ち――自分にとって「大切な人」を永遠に大事にすることの価値を知った心強さが、頼りなくしぼんでいく。

 好きという気持ち、誰かを大切に思う気持ち――永遠なんて、やっぱりこの世には存在しないのかもしれない。

 おじいさんの心細さとおばあさんの寂しさの両方が伝染したみたいに、僕もまたどうしようもなく頼りない気持ちで、遠ざかっていく二人の背中を見送った。