ぽたぽたと、続けざまにこぼれ落ちる涙が床の色を変えていく。顔を手で覆ったシルビアは小さく嗚咽をあげて、肩を震わせて泣いていた。
「あ……」
しまった、女の子を泣かせてしまった。うろたえたところで、後ろから力いっぱい突き飛ばされた。
「ちょっと、どういうこと? 何してんのよ!」
さっき僕をここへ引っ張ってきた子と、他にも数人。女の子たちが駆け寄ってきて、お姫様と従者たちみたいにシルビアをぐるりと取り囲む。それからまるで、さもひどい奴だといったふうに僕をにらみつけた。
「何って、僕は。僕はただ」
泣かせるつもりじゃなかった。ただ、僕がシルビアのことを好きだと皆が勘違いしているせいで困っていることを伝えたかっただけ。なのにどうして一方的に悪者みたいに扱われてしまうんだろう。
「いいの、もういいから」
小さな声でシルビアが止めようとするけれど、正義感に火がついた女の子たちは止まらず、口々に僕に批判を投げつけた。
「何が気に食わないのか知らないけど、女の子を泣かせるなんて最低!」
「ちょっともてたからって調子に乗っちゃってさ。アキヒコくんがそんな意地悪だなんて知らなかった」
ぐさぐさと、言葉はナイフのように僕の胸に刺さる。それからようやく気がすんだのか、慰めるようにシルビアの肩を抱いて女の子たちは僕を置き去りにした。もちろん捨て台詞は忘れずに――。
「シルビア、あんな奴やめときなよ。行こう!」
シルビアが僕を好きで、僕もシルビアが好きだという噂が流れたときと同じくらいのスピードで、僕がシルビアを振って、泣かせたという噂もすぐに教室に広まった。
午後の授業は、教室中がぎこちない雰囲気でいっぱいだった。シルビアは赤い目をしてじっとうつむいたまま。女の子たちはピリピリと怒り冷めやらぬ様子。そして僕は、ただうろたえていた。
休憩時間になっても皆、気まずそうに僕に話しかけもしない――いや、突然ベンが椅子を立つと、僕の席まで歩み寄ってくる。
「アキ」
ベンが僕に話しかけてくるのは、「裏切り者」と罵ってきた日以来のことだ。あれから一週間くらいしか経っていないはずなのに、ずいぶん久しぶりのような気がした。
「ベン……」
僕は期待で胸をいっぱいにして、親友を見上げた。
女の子たちを怒らせてしまったけれど、今日の騒ぎのせいで少なくともベンには、僕にシルビアを奪い取る気はないと伝わったはずだ。裏切り者でないことがわかって、仲直りを言い出しにきたんだろう。僕にとっては女の子なんかより、ナーサリー時代からの友達のほうがずっと大事だ。
でもなぜだかベンは怒った顔をしていた。そして、言う。
「どうして、シルビアを泣かせたんだよ」
「え?」
「女の子に人前で恥かかせるなんて、可哀想じゃないか。アキにひどいこと言われて、シルビアはすごくショックを受けたってさ」
あまりの驚きに、ぽかんとしてしまう。恥? 一体何の話だろう。ベンの誤解を解こうとして、僕は言い返した。
「……違う。僕はただ、勝手な噂で迷惑してるって言っただけだよ」
「迷惑だなんて言い方がひどいって言ってるんだ。それに、好きじゃないって伝えるにしたって、人のいないところを選ぶとか、もっとやりようがあるだろ。あんまりだよ」
ますます口調は激しくなるばかりだった。
ベンは、僕が無理矢理あそこに連れて行かれたことを知らない。言ったとしても伝わらないだろう。僕はやっと、ベンにとって一番大切なのはシルビアで、僕の気持ちなんてどうだっていいのだと理解した。
他人の勝手な気持ちに振り回されて、誤解を解こうとすれば、ますます責められる。もう、どうすればいいのかわからなかった。
黙って立ち上がると、邪魔だとばかりにベンの胸を強く押す。そして僕は駆け足で廊下に出て行った。もうこれ以上、教室に居続けることはできそうになかった。
職員室に駆け込むと、担任の先生の机へ一目散に向かう。
「どうしたの? アキヒコくん。他の子もだけど今日はなんだか雰囲気が……喧嘩でも……?」
とてもではないけれど、説明できるような気分ではない。質問に答える代わりに僕は先生のブラウスの袖を引いて、訴えた。
「先生、気分が悪い。朝からずっと具合が悪くて、我慢ができなくなったら家に電話してってサーシャが言ってた」
気分が悪いという割にはここまで走ってきた僕のことを、先生は奇妙に思っただろう。うろたえながらも、すぐにノートをめくって僕の家の電話番号を探してくれた。
職員室の隅にある来客用のソファに座って待っていると、予想よりずっと早くサーシャはやってきた。通学用のバッグは先生が持ってきてくれたから、教室には戻らずにすんだ。その際に他の子から話を聞いたのかはわからない。ただ、先生とサーシャは少しの間、僕から離れた場所で話をしているようだった。
校門ではタクシーが待っていた。到着が早いと思ったら、サーシャはタクシーで迎えにきてくれていたのだ。おかげで家までもあっという間だった。
「ほら、手を洗ったら着替えてベッドで休んでいなさい。すぐに蜂蜜をたっぷり入れた温かいハーブ・コーデュアルを持っていってあげます。それを飲んだら少し眠るといいでしょう」
サーシャはまるで僕が本当の病気であるかのように、てきぱきと指示した。でも僕は部屋に行きたくなくて、手を洗い終えてもリビングでもじもじしている。
「どうしたんですか? やっぱり熱があるんじゃないでしょうね。心気性の発熱だってあり得る話ですから……」
エプロンで手を拭きながら近寄ってきたサーシャが僕の熱を見ようと額に手を伸ばす。冷たい手のひらが触れると、ぷつんと僕の中でなにかが切れた。
次の瞬間、彼の胴回りに抱きついて僕はわあっと泣き出していた。小さな子どもみたいに大きな声をあげて、前回こんなふうに泣いたのがいつだったかは、思い出すことすらできない。
「アキ……何があったんですか? 先生からは、女の子たちと喧嘩をしたようだと聞きましたが」
一瞬驚いたように固まったサーシャは、額から離した手で僕の髪をそっと撫でた。まるで小さな子どもをあやすときみたいに。
「ひどいんだ。皆、僕ばっかり悪者にするんだ」
しゃくりあげて上手く言葉がでてこないけれど、僕は一生懸命説明した。シルビアのせいで皆に好奇の目で見られて、ベンにも絶交されたままで、学校に行くのがどんどん辛くなったこと。勝手に「告白しろ」とばかりに廊下に連れ出されて、我慢できずシルビアに迷惑だと言ってしまったこと。そのせいで女の子たちはもちろん、ベンからも責められたこと。
すべて話終える頃には泣き疲れて、涙もほとんど止まっていた。サーシャは優しく僕の腕を引いて、ソファに座らせてから「おばかさんですね」と小さく笑った。
「あなたもやはり、恋する心の機微についていくらかは学んだ方がいいかもしれません」
「きび?」
「好きな子ができると、皆、わがままになったり、物事を奇妙にねじまげて捉えたり、自分でもわけがわからない行動を取ってしまうものなんですよ。その結果、人を傷つけてしまうことだって。……あなたもいずれわかります」