3. 先ずは、敵を知るべし

 かくしてアカリは、一番見られたくない場面を見られた相手と同じゼミに所属することになった。

 倉橋ゼミの新入生は三人。アカリと蒔苗の他は、たき百合子ゆりこという女子学生がいる。四年生は四人。男女半々でうち一人はシンガポールからの留学生だ。

 来週にも歓迎会が行われる予定になっているが、何度かゼミに体験参加したことのあるアカリは既に全員と顔見知りだった。百合子も飲み会や同じ講義で顔を合わせることが多く、すでに見知った仲。というわけで、唯一の正体不明な相手が、よりによって蒔苗だったりする。

 教授の部屋の前で出くわしたとき、アカリは逃げるように倉橋教授の部屋に飛び込んだ。あまりに動揺して前日の失礼な態度を責めることも、あらぬ場面を見られたことを口止めすることも、すっかり頭から飛んでしまったのだ。

 だがしかし、このままにしておくわけにもいかない。アカリのような隠れゲイにとっては、望まぬところで性志向を公表されること――アウティングこそが最大の脅威だ。

 少しずつ世の中の理解が進んできているとは言われるが、生まれてこの方そういう場所や出会い系サイト以外でお仲間に出会ったことはない。割り切ってLGBTを商売道具にテレビに出ているような人々は極めて特殊な例だし、自分の性に自信を持ってプライドパレードに参加しているような人々もアカリにとっては遠い別世界の住人だ。

 決してゲイだとばれてはいけない。世に紛れて、ごくごく普通の生活をしたい。そんなささやかな希望を叶えるだけでも、アカリにとっては日々の努力と注意が必要だ。

「にも関わらず、あの野郎!」

 思い出すと再び怒りがよみがえる。

 俺の平穏な生活を脅かしたどころか、さも気持ち悪そうにゲロ吐くなんて。あんな性悪しょうわるそうな奴なんだから、放っておいたら面白おかしくあの日の話をばらまかれてしまうかもしれない。

 いや待て、もしかしたらそういう話をするような友達もいない孤独な奴という可能性もある。だったらいいな。いや、きっとそうだ。何しろ同じ専攻同じ学年のアカリがこの二年間まったく気づかなかったくらい蒔苗は存在感がないのだから。

 悶々と眠れぬ夜を過ごした挙げ句の結論は「まずは敵を知ること」。アカリはさっそく同じゼミに所属することになるたき百合子ゆりこに電話をかけた。

「もしもし、ゆりっぺ。俺だけど今大丈夫?」

「うん、話せるよ。どうしたの」

 プライベートで普段から電話を掛けあうほど仲良くはないので、百合子はゼミ関係の連絡だと思ったようだ。しかしもちろんアカリの要件はそんなものではない。いや、ある意味ゼミにも関係はしているか。

「ゆりっぺさ、同じゼミに配属になった蒔苗って知ってる?」

「知ってるよ。だって同学年じゃん」

 即答。なんと百合子は蒔苗の存在に気づいていた。

「うそ、まじで? 俺、全然あいつのこと知らなかったわ」

 アカリががっかりとした声を出すと、電話の向こうの百合子は少し考えてから「でも、わかるかも」とアカリをフォローした。ゆりっぺは実に空気が読める、気の利く女学生なのだ。

「蒔苗くんって、ちょっとおとなしいっていうかクールっていうか。あんまり人とつるんでるとこ見たことないし、飲み会にもほとんど来ない印象。まあ、だからって存在知らないっていうのはどうかと思うけど。だって多分アカリも同じ講義取ってるよ。『メディア学概論』とか」

「まじか、全然気づかんかった。でさ、ゆりっぺ、あいつと話したりする? どんな奴か知ってる?」

「メディア学概論」自体は大講義室を使って完全な座学形式で行われているとはいえ、まさか同じ講義にあいつがいたとは。のぞき魔の顔に見覚えがある気がしたのは無理もない。

 そして、あのとき蒔苗がアカリを同級生だと認識した上でじっと見ていたことも間違いない。多少乱暴なことをしてでも、絶対にあいつの口は封じなければ。アカリは決意を新たにした。

 百合子からはたいした情報が得られなかったので、それからアカリは友人たちに手当たり次第に蒔苗聡に関する情報を聞き回った。だが、その成果は芳しいものではなかった。

 ――いや、情報収集の成果が芳しくないことそれ自体が、アカリにとっては朗報といっていいのかもしれない。

 ほぼ一致しているのは「おとなしそう」「地味」「人とつるまない」で、たまに少しだけ突っ込んだ情報として「家が金持ちらしい」「映画好き」といった話が混じる。社交的なアカリとしては友達の一人も作らず二年間何をやっていたのかと不思議に思えるが、それが事実なのならば少なくとも蒔苗にはアカリの秘密を触れ回るような友達がそもそも存在しないということになる。

 大人しいやつならとりあえず一安心かな。あとは、ゼミが始まったら最初に一発がつんと……。

「おい、明里」

「ぎゃあああっ」

 背後から肩を叩かれて思わず大声を上げる。なんということか、そこには蒔苗聡まさに本人が立っているではないか。

 夜道で突然ヘッドライトに照らされた猫のように固まってしまったアカリに向かって、蒔苗は前回同様の無表情で言った。

「おまえ、俺のことかぎまわってるんだって?」