9. 蒔苗はセックスがしたい(らしい)

 コントのようにパイプ椅子から転げ落ちたアカリに「どうしたんだ急に」と蒔苗が助けの手を差し伸べる。まさか原因が自分にあるとはこれっぽっちも思っていない態度だ。

「いや、いいんじゃないですかね。セックス」

 よろめきながら椅子に座り直し、アカリは言う。

 そんなに真剣な顔で訴えなくたってセックスがしたいくらい健全な青少年誰しも考えていることだ。そうそう蒔苗も普通に性欲のある大学生ってことで――。

 普通に性欲? はっとした顔をするアカリに、蒔苗はようやく気づいたかとでも言いたげにウンウンとうなずいて見せた。

「さっき言ったように、俺は死体にしか欲情しない。一方でこの世でセックスできる相手というのは基本生きた人間に限られている。これはなかなか困難な問題で、とりあえずは映画や写真でなんとかしのいでいるわけだが、やはりいつでも自分の右手ばかりが相手というのは寂しい」

「ええ、まあ、そりゃね」

 まあ気持ちはわからなくもない。アカリだって出会い系サイトを使いはじめるまではゲイ同士がどうやって出会えばいいのか知らず、あふれる性欲を日々持て余していた。雑誌や動画などゲイ向けポルノはこっそり手に入れていたものの、写真や映像を見ながら自家発電に勤しむ日々はなかなか寂しいものだったりする。

 だからといって、おまえの場合は……と口を開こうとしたところで、意外にも蒔苗がガバッと頭を下げた。今まで常に偉そうだった蒔苗が自分に向かって頭を下げるとは一体何事だ。アカリは動揺した。

 そして、続く蒔苗の言葉に、さらに動揺した。

「明里、俺のために死体になってくれ!」

 一瞬、というか少しの間考えてみたが、さっぱり意味がわからない。

「……は?」

「だから、俺のために死体になってセックスをさせてくれ」

 聞き返したがやはりわからない。

 もしかしてこいつは、死体愛好の性癖を満たすために、アカリに死ねと言っているのか? そして、アカリの死体と交わろうと……。

 よく考えれば今は真夜中。他に誰もいない映写室。防音設備はばっちりで、叫んだって外部には聞こえない。とはいえ突如として湧き上がった身の危険に、もしかして誰かの耳に届かないかとアカリはみっともなく大声を上げた。

「だ、誰か! 誰か助けて! こ、殺される!」

 瞬間、むぎゅっと柔らかいものが口に押し当てられる。蒔苗の手のひらだ。

 ほら、やっぱりこいつは俺を殺そうとしている。なんだ、窒息か? 首でも締める気か? それともほら、実は凶器を隠し持っていて、さっきの映画みたいに俺の体をサクッと刻むのか。

「んーっ、んーっ」

 片手で体を抑えられ、もう片手で口を押さえられながら、アカリは必死で自由になろうともがいた。しかし、見たところ蒔苗はそう鍛えた体格ではないものの頭半分の身長差は意外と大きい。結局逃げられず、押さえ込まれたアカリは力尽きた。

「た、頼むから痛くしないで。あと最後に田舎の家族に遺言を……」

 死を覚悟してつぶやくと、呆れた顔で蒔苗が見下ろしてくる。

「バカかおまえは。誰が本当に死ねと言った」

「えっ? 俺を殺して死体とセックスする気なんじゃ?」

「違う。だいたい本当に死なれたら面倒だろうが」

 それはそうだが、蒔苗はさっき確かに「俺のために死体になってくれ」と言ったのだ。きょとんとするアカリを再び椅子に座らせて、蒔苗は今度は少し丁寧に説明してきた

「おまえにやって欲しいのは『死体のふり』だ」

「ふり?」

「そう。一切動かず反応せず、死体のふりをして、俺とセックスをして欲しい」

 いや、死ねと言われるよりは多少マシだが、それだって十分無理難題だろう。

「百戦錬磨の俺を見くびるなよ。マグロどころか俺と寝た男は大抵が敏感ボディに感動するんだ。いくらてめえが下手くそだろうが一切反応しないなんて無理。それに、そもそもおまえゲイじゃないんだろ?」

 だが、後者の懸念はあっさり覆される。

「は? さっき言っただろう。俺は『生きてる人間と死んでる人間』の後者が欲情の対象だって」

「……あ、そういうこと……?」

 要するに、死体であれば男であれ女であれ問題ないというわけだ。こういうのも両刀の一種と言うのだろうか――考えるだけ虚しくてアカリはとりあえず蒔苗の言うことにうなずいた。

「俺も色々と考えたんだ。さすがに本物の死体を入手するのは難しい。盗むにしたって作るにしたって重大犯罪だからな」

「そりゃそうだろうな」

「で、自分の中で死体に対して絶対に譲れない要素を考えた。そして、死んでいるんだから動かない、反応しない、この二点が一番大事だという結論に達したんだ。体温はまあ、死んだばかりだと思えば体が温かいこともあるだろうし、死因は色々とあるから体に傷が必要というわけでもない。心臓が動いているのは多少気になるが、まあ胸のあたりに触れなければ大丈夫だろう」

 おとなしく地味なはずの蒔苗が、よくもまあこんなに喋るものだ。しかも常軌を逸した内容ばかり。心が麻痺してきたアカリは気づけば蒔苗の熱弁に普通に聞き入っていた。

「で、本題はなんだっけ?」

 ふと思い出して聞く。蒔苗の擬似死体とのセックスへの情熱は十分よくわかった。うっかり本当に殺してしまわないよう安全に気をつけて頑張って欲しいと応援すらしたい気持ちだ。だが、そもそもの問題は――。

「だから、おまえとセックスさせろと言ってるんだ」

 結局話はそこに戻るのだった。