蒔苗はちらりとアカリに目をやるが、タートルネックで首を隠している姿を見ても何も言わなかった。だからアカリも自分からは何も言えなくなる。
アカリとの真似事では蒔苗がもはや満足できずにいるなんて、考えたくはない。でも、昨日の夜もやたら「疲れているならやめとくか?」なんて、そんな人の体を気遣うようなこと一度も言ったことないくせに。
荷物を置くと蒔苗は自分の作業に集中しはじめる。もともと用事もないのに積極的に話しかけてくるタイプではないのに、アカリは何だか自分がよそよそしくされているような、避けられているような気がしてしまう。
ちらりと横目で蒔苗を見る。横顔がきれいだなと思う。特段美形ではないが、鼻から唇、顎から首にかけて蒔苗の骨格は整っている。能面のような変化のない表情が陰険で冷たく見えていたのははるか昔。今ではアカリは、乏しいながらも蒔苗の顔に出る感情をある程度は察知することができる。むしろ、他の誰も気づいていないささやかな機微を自分だけがわかってやれるのだと密かな優越感を抱いているくらいだ。
そのまま視線を落としていき、アカリは硬直した。蒔苗の手の甲にある傷が増えている。先週はちょっとした引っかき傷だけだったのが、強く爪を立てたような跡まであり今や傷だらけと言っていいほどだ。しかもほとんどの傷は生々しく新しい。
「蒔苗、それ……」
思わず口に出すと、蒔苗は顔を上げた。何のことを言われているかわからない様子で首を傾げる。
「え?」
「手の甲……傷だらけ」
口が乾いてうまく言葉が出てこない。今朝方殺されたという女性のことが頭に浮かぶ。頭の中の「まさか」が小さくなり、代わりに「やはり」が大きくなっていく。
蒔苗は体裁悪そうにアカリの視線の先にある右手の甲を隠そうとしたが、そのために伸ばされた左手の甲にも同じような傷がたくさんあった。
「どうしたの、それ?」
「えっと……あの、ああ、猫に引っ掻かれた」
「猫?」
「うん、近所に野良猫がいて。触ろうとしたら」
嘘だ、と直感的に思う。アカリはここ数ヶ月しょっちゅう蒔苗のマンションに通っているが一度だって野良猫なんて見たことがない。加えて蒔苗が猫が好きだという話も聞いたことがないし、道端で野良猫にかまう姿など想像もできない。
首のアザがまた、ずくんと痛んだような気がした。
蒔苗聡は無神経な男だ。無神経だが、それはイコール正直さの表れでもあり、アカリの反応など気にせず普段は何でもあるがまま、思ったままをあけすけに口にする。そのあけすけさに腹立たしい思いをすることは多いが、嘘をつかれることでこんなにも不安になるとは思ってもみなかった。
――嘘って、つかれると傷つくんだな。
先週も思ったことだけれど、こういうときに傷を隠そうとするなんて蒔苗らしくもない。何かひどく後ろめたいことがあるのだ。
蒔苗は、アカリとの関係では満足できない(から首を締めた)。
蒔苗は、アカリとの関係を清算したい(から「やめとくか?」などと聞いた)。
どちらもひどく真実らしく思えてくる。
そして、蒔苗は今は――本当の死体とセックスしている?
「ねえ蒔苗くんさ、『月曜日の絞殺魔』って知ってる?」
突然マークが呑気な声で蒔苗に話しかけ、アカリの心臓は口から飛び出しそうになる。よ、よりによってダメだ。その話題は蒔苗にはダメだ。マークを止めたいが、蒔苗の性癖も何も知らないマークに何をどう伝えればいいのかわからない。
「月曜日の絞殺魔? って、何ですか?」
「何だよ君も知らないの? 事件現場、近所なのに。毎週月曜日の早朝にさ……」
マークの話を、蒔苗はさして興味なさそうに聞いている。一見したところ特に動揺した様子もないが、アカリはほとんど確信しかかっている。
月曜日の絞殺魔は蒔苗だ。だってあまりに状況証拠が揃いすぎているし、世の中に死んだ人間とセックスしたがる性癖の持ち主がそこら中に転がっているとは思えない。
蒔苗はここ最近の月曜の朝、「偽物の死体」であるアカリを抱いた後の物足りなさを癒すために、デリヘル嬢を呼び出しているのではないか。そして、本当の欲望を満たしているのではないか。
だとしたら、そんな蒔苗に俺はどうする? あまりにも状況は重い。