第39話

 驚き、戸惑い——それから恐怖。幸乃の目の中にそれらの感情を見つけた瞬間、一気に興奮が冷めた。性行為への本能的な昂りだけではなく、それ以外の浮ついた感情もまとめてすうっと引いてゆく。

「あ……」

 察しの良い幸乃もまた、ぼくがを知ったのだろう。半裸で向き合うぼくと彼女のあいだに、さっきまでの熱っぽい展開が嘘のように白々しい空気が流れた。

「ごめんなさい」

 目をそむけ、それ以外何も言えなかった気持ちは理解できる。謝るようなことではないし、責めるようなことでもない。彼女は嫌悪しているわけではない。ただ、見慣れないものを突然目にして、思った以上に生々しい形状にひるんだのだ。わかっているのに、ぼくもまたその場を取り成すための言葉を見つけられない。

「いや……」

 からからに乾いた喉からなんとか否定の意味を込めたつもりの返事を絞り出し、脱いだばかりのTシャツを引き寄せて左脚の断端を隠すような姿勢をとった。

 恥ずかしくて惨めだった。また同じ過ちを繰り返した。勝手に期待して勝手に失望する。幸乃が優しいから、ぼくのコンプレックスを前向きに受け止めようと努力してくれようとしているから、前置きなしにこの脚を見せたって何とかなるだろうと高をくくっていたのだ。彼女はこれまでむきだしの断端どころか、ぼくがボトムを脱いで義足姿になったところすら見たことなかったというのに。

 しばしの放心のあと、ようやく顔に浮かんできたのは情けないほど卑屈な笑みだった。

「はは……びっくりするよね、急に。こんなの、あんまり気持ちのいいもんじゃないし」

 ぼくは笑うが、幸乃は笑わない。哀れなほど動揺した顔色は真っ白い。

「土岐津さん、本当にあの、私、そういうんじゃなくて」

「うん、わかってる」

 気持ちを聞けば聞くほど溝が深くなりそうな気がして、ぼくは早口で彼女の言葉をさえぎった。だが、こちらの思いとは裏腹に幸乃は言葉を続けようとする。これまでと同じように、言葉を尽くすことでぼくの脚の問題を乗り越えられると信じているかのように。

「……ちょっと、ちょっとだけ驚いたのは否定しません。でも、本当にあの、目を開けたら急に……だったから。それだけで、別に何か特別なことを思ったわけでもないし、土岐津さんを傷つけるつもりもなかったんです」

「だから、わかってる!」

 思わず語気を強めて、脱がせたブラウスを拾って彼女に突きつけた。「何か特別なこと」ってなんだ? 怖いとか、気持ち悪いとか、可哀想とか。きっとそういう何か。だってぼくが逆の立場だったらそう感じるに決まっているから。

 耐えがたい気持ちで幸乃に背を向けて、ぼくは震える指でシリコンライナーを断端に装着する。一刻も早く自分の体の醜い部分を隠したかった。できる限りの速さで義足を装着して、その上から再びボトムを履く。そしてようやくまた、幸乃が「義足だなんて全然わかんない」と言ったぼくに戻った。

 Tシャツを着て振り向くと、ブラウスを身に着けた幸乃が泣きそうな顔でベッドに座っていた。あれだけ表現巧みにぼくの不安を和らげてくれていた彼女はもはやすべての言葉を失ったかのように黙り込んでいた。こちらも申し訳なくて泣きそうになる。

「わかってる。幸乃ちゃんは悪くない。ぼくが焦ったのがいけなかったんだ」

 気の毒なほど落ち込んだ彼女をどうにか慰めてやりたくて、ぼくは必死に貧弱な語彙を探す。

「わたし、土岐津さんのことが好きなんです」

 それだけが唯一の免罪符であるかのように、幸乃は何度も繰り返した。ぼくも「焦らないで、少しずつ慣れていこう」と、つぶやくように繰り返すことしかできなかった。

 

 帰り道、ぽかんと心に穴が空いた気持ちだった。どちらも勝手に相手に期待をして勝手に裏切られたのは同じとはいえ、宇田とのときとはまた別の種類の、どす黒い感情が湧き上がる。

 ——やっぱりぼくの脚は醜い。

 そんなことは考えるまでもなく最初からわかっていた。

 脚を切って、包帯でぐるぐる巻きにされている間はまだ冷静だった。現実を見ることなしに「火葬された膝下の骨が見たいから持ってきてくれ」などと言って両親を困らせた。あれは事故から何週間目、もしかしたら一ヶ月以上も経っていたかもしれない。そして、はじめて切断した患部を見たときのショックは——実はよく覚えていない。頭が真っ白だった。

 本当に膝から下がなくなったということ。

 残った脚の形状がそれまでとはまったく異なっていること。

 ぼく自身もそれまでの人生で、四肢を切断した人間の患部など見たことがなかった。自分の体がこんなふうになるだなんて、想像もしていなかった。両親だって、驚愕の表情を浮かべてから「可哀想に」「代わってあげたい」と涙を流した。

 自分自身ですら、家族ですらそうなのだから、出会って間もない女の子に見せて良いものではなかった。間違ったのが幸乃ではなくぼくであることは間違いない。

 歩いているうちにちょうど坂道にさしかかる。宇田と初めて出会ったあの場所。ひどい雨じゃなければ、義足に慣れていないあの頃じゃなければ、転倒なんてしなかった。そんなことをふと考える。

 歩くスピードはすっかり早くなって、そこから五分もすれば自宅だ。マンションにたどり着いて、玄関のドアを閉めると同時に涙があふれた。

 どうしたって失った体は戻ってこない。いくら性能のいい義足をつけたって、いくら訓練して自然に歩けるようになったって、ぼくの体は欠落しているし、醜い。そのことをみじんも悪気のない幸乃の反応によって改めて突きつけられたような気がした。

「少しずつ慣れていこう」などと当たり障りのないことを言ったが、本当はわかっている。これから幸乃がぼくの脚に慣れ、その姿を自然なものとして受け入れる日がきたとしても、ぼくはきっとさっき目にした彼女の姿を忘れることができないだろう。それどころか、彼女との関係を修復しようと努めたところで、二度目に義足を外す勇気などとても持てそうにない。

 ズボンのすそをまくり上げて乱暴に義足を外し、キッチンの床に投げる。シリコンライナーも外せば、見慣れた「はずだった」断端が再び顔を出す。これが自分の体だと言い聞かせ、向き合って、もはやなんとも思わないはずだったのに、改めてこうして眺めると、切り株のような芋虫のような、なんとも不気味で異様な姿に見えた。

「くそっ、なんでだよ! なんでぼくだけがこんな目に遭わなきゃいけないんだ! なんで……」

 感情をこらえきれず、声をあげて床を叩く。

 こんな思いばかりするなら、やはりあのとき交通事故で死ねばよかった。こんな体で生き延びたくなかった。そんなことを思って床を叩いていると、部屋の外の共用廊下を誰かが歩いてくる音がして部屋のインターフォンが激しく鳴らされた。

「すいません、ドンドンうるさいんですけど! ちょっと静かにしてもらえません?」

 返事をする気にはなれず、床に額をつけてうずくまったままでぼくは息を止めた。しばらく苦情を申し立てていた階下の住人は、騒音が止んだことに満足したのかやがて去っていった。

「ほんと、もう、要らないよ……こんな役立たずの、醜い脚」

 涙交じりにつぶやいたとき、小さな声が聞こえたような気がした。

 はにかむようで、でも艶を含んだ声。それはぼくの脚、この上なく醜い脚の切断面をさも愛おしそうに撫でながら、言った。

 ——土岐津くんの脚は、すごくきれいだよ。

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