第41話

「脚を……」

 覚悟していた。むしろ確信していた。なのに現実として突きつけられると、全身にぞわりと鳥肌が立つ。

「それで、怪我の具合は?」

 巻から聞いた話からも、宮脇の落ち着きぶりからも、切断するほどの重症ではないのだろうと予想している。それでもいざ聞くとなれば緊張した。

「前回よりは学習したんでしょうね。今回は氷じゃなくてドライアイスで冷やしたらしいです」

 宮脇は皮肉っぽく笑った。

 極端に冷やすのは、BIID患者にとっては自己切断を成就させるための常套手段なのだという。メリットは痛みを鈍らせるだけではない。自分で切断しきれなかったとしても、長時間極度の低温下におけば肉体組織は壊死する。要するに、そこから運ばれた病院でも「切断するしかない」という判断を下される可能性が高くなるのだ。そういえば冬山登山で遭難した結果凍傷で手足を切断したという話は聞いた覚えがある。

 痛みを紛らわすために多量の飲酒をしていた宇田は、どこかのタイミングで恐怖を感じたのか、朦朧とした状態で119番に電話を掛けてきた——そして偶然にも運び込まれたのが宮脇の勤務する病院だった。

「家族に連絡されるのを拒んで、ぎりぎりの選択で俺の名前を出したんでしょう」

 かつて自らの脚を傷つけたことで両親がどれほど動揺したか、それを覚えているから宇田はどうしても家族に自傷のことを知られたくなかった。「普通ではない」身体感覚ゆえに他人との密接な関わりを避けていたから、唯一頼れる相手が宮脇だったのだろう。

 納得はできるが、胸の奥にはちりちりと焼けるような嫉妬を感じる。

 

 ひどい言葉と態度で宇田を切り捨てたのはこちらだ。宇田がいまさらぼくを頼るはずなんてないのに、それでも悔しさを感じずにはいられなかった。

「真輔が臆病なのは、不幸中の幸いですよ。あれだけ脚を失うことを強く願っていても、やはり自分で自分を傷つけるのは怖いようです」

 中毒のように自傷行為を繰り返す類の障害とは違う。あくまで身体完全同一性障害の患者が求めるのは「本来のあるべき自分の姿」なので、体を傷つけることや痛みそのものには人並みに恐怖心を抱くことも多いようだ。

 膝下の傷は前回の自傷よりは深いが、重要な血管や神経、筋肉を損傷するほどではなく、すぐに縫合された。ドライアイスで冷やした脚は真っ赤に腫れて火傷のような水泡を生じていたが、幸い治療による回復が期待できる程度だった。

 怪我自体は命に関わるようなものではないが、宇田の行為は尋常ではない。外科医の他に精神科医が呼ばれ、そのまま精神科に入院させるか議論されたが宇田本人の激しい拒否に遭い自宅療養となった。

「代わりに、精神を落ち着かせるための薬は出しています。真輔の病気にどこまで効くかは怪しいようですが」

 膝下の切り傷も凍傷も回復過程にあり、宇田はまだうまく歩くことができない。外出がままならない彼のために宮脇は数日おきに部屋に通い、様子を確認すると同時に食糧などを差し入れているのだという。誰も招いたことがない、ぼくが唯一の客人だったはずの部屋にいまでは宮脇の存在が刻まれているのだと思うとますます胸が疼いた。

「それで、本人は怪我についてはなんて?」

「もう切らないって約束しました。でも、前にも聞いた言葉だから信用できません。念のためあいつの部屋から刃物類は全部排除しましたよ。いまのところは、病室より殺風景な部屋でおとなしく寝てます」

 とはいえ、通信販売などを介して医療者の目を盗んで刃物を手に入れることなど難しくない。いまも宇田が自傷を繰り返すかもしれない恐怖と戦っているのか、宮脇は疲れた顔でうつむいた。

「宇田くんはどうしてそんなことを。全然そんな素振り見せたことなかったのに」

「土岐津さんのおかげで、真輔の状態が安定していたとでも言いたいんですか?」

 うまく言葉にできなかったにもかかわらず、まるでこちらの心を読んだかのような辛辣な返事。理不尽な嫉妬に身を焦がすぼくは思わず食ってかかった。

「そんなつもりはありません! でも本当に、ぼくと一緒にいるときの宇田くんは……」

 感情的な言葉に宮脇が顔を上げた。さっきまでの彼の顔に浮かんでいたのは呆れと冷淡さ。そしていまは——怒り。

「自分がどれほど傲慢なことを言ってるか、わかってます? あなたと会う前だって、真輔はもう何年も自傷なんてしていなかった。むしろ『理想の脚を持つ』土岐津さんとの出会いがトリガーになったとは思わないんですか?」

「トリガー……?」

 ぼくの存在がきっかけとなって宇田が再び脚を切っただと? 考えてもみなかった叱責に混乱する。

 一緒に過ごした時期、ただ彼はうっとりとぼくの脚を見つめ、触れて、きれいだと褒めた。それだけだ。宇田が自分自身の脚を邪険にするところなど見たことがない。もちろん本心を隠していたからだと言われれば反論はできないが。

 ぼくの反応に苛立ったように宮脇はこちらをにらみつける。

「いずれにせよ責任を持つ覚悟もなしに、土岐津さんみたいな人が真輔の目の前をうそうろするのはやっぱり、危険なんです。もっと早く気づいて、止めておくべきだった」

「じゃあ、責任を取ればいいんですか!」

 売り言葉に買い言葉で、思わずそう叫んでいた。宮脇に対する対抗心に突き動かされてのセリフだろうか。いや、それだけではない——それだけではない気持ちが自分の中に芽生えはじめていた。

「どうやって?」

 宮脇はもう、ぼくへの軽蔑と嘲笑を隠しもしない。

「せっかく五体満足なのに脚を切るなんてもったいないって諭すんですか? 片脚になると不便で不憫で日々辛いと訴えるんですか? そんなこと、こっちはもう何年も前に通った道ですがね」

 方法なんて知らない。宮脇が知っているなら、土下座してでも教えて欲しいくらいだ。ただ、ぼくは——。

「宇田くんは、ぼくの脚をきれいだと言ってくれた。それが彼の病気のせいだろうがなんだろうが、ぼくにとってこの脚を心から美しいと言ってくれたのは彼だけだし……その言葉には救われました」

「土岐津さんは都合のいいことばかり言う。前は真輔が脚目当てで近づいてきたと知って惨めだったって怒ってたじゃないですか」

「そう思ったこともありました。でも……」

 それでも宇田は、宇田なりにぼくのことを知ろうとしてくれていた。事故のことや脚のない苦しみにも耳を傾けてくれた。一方的に救われることばかり考えて、知りたくないことから目を背け耳を塞いでいたのはぼくだ。

「都合がいいって、許せないって言われるならそれまでです。でもぼくは……宇田くんが何を考えてどんな気持ちでいたのか、彼が何者なのかすら知ろうとしなかった。だから……もし手遅れでないならば、いまからでも」

「あなた傲慢ですよ。自分が真輔を救えるとでも思っているんですか?」

 ぼくは首を左右に振る。

「思いません。でも、こういう脚を持つぼくだからこそできることもあるでしょう。ああいう宇田くんだからこそ、ぼくを救ってくれたのと同じように」

 宮脇の目からあざわらうような意地の悪さが消えた。代わりに浮かぶのは——あきらめ、もしくは深い悲しみ。

「ずるいですね。土岐津さんはこれまでさんざん自分勝手に振る舞ってきたのに、それでも真輔に対しては何にも勝る武器を持ってるんですから。脚がない男なんて、羨んだって真似できるはずがない」

 これまで何度となく感じてきた疑念が事実だったことをぼくは知る。宮脇は彼なりにずっと宇田を思ってきたのだ。いつか治療のときに彼が言った「正直、自分のイメージする肉体と実際の肉体が一致しないってどういう気持ちなのか……一度経験してみたい気はしますね」という言葉。あのとき宮脇は宇田のことを考えていたのだろう。