第46話

「土岐津くんも、風邪を引きそうだから」

 これまでぼくもずぶ濡れであることに気づかずにいた無神経さを恥じるように宇田は言った。だが、こちらは返答に詰まる。だって、いくらそういう雰囲気ではないと自分に言い聞かせても、実のところ宇田の手が断端から腿——つまり敏感な場所に近づいてくるにつれて、ぼくの中では良からぬ欲望が首をもたげつつあったからだ。

 ぼくが宇田に抱いている感情と、彼がぼくに抱いている感情は違う。わかっているが、狭い浴槽の中で密着すればきっと理性は儚い。

「いや、ぼくは後で……」

 思わず身を引くが、宇田は意外なほど強い力でぼくの袖を握りしめたままだ。その真意がわからないから、こちらとしてはうろたえるばかりだ。

「宇田くん、困る。ぼくはその、あんまり近づくと、また」

 仕方ないので、みっともないのは承知の上で正直に不安を打ち明ける。

 宇田が本心を隠していたことが原因の一端であるとはいえ、過去のぼくは結果的には彼の「脚に触れたい」という欲望の代償として性的なふれあいを求めていた。これから先どうやって新しい関係を作っていくかはわからないが、もう二度と宇田が望まないことを無理強いはしたくない。

 すると宇田ははにかむように目を伏せた。

「土岐津くんがひどいだなんて、一度も思ったことはないよ」

 これまでの彼が見せたどんな顔とも違う艶めいた表情に、ぼくはぎくりとする。

「でも……」

 かけられた言葉と態度の真意を図かねて戸惑っていると、宇田は指先を脚に滑らせる動きを止めることなしに、言葉を継ぐ。

「BIIDにもいくつか種類があるんだって。ぼくみたいな切断願望を持つ人間は、〈希望者wannnabe〉とか〈執着者need-to-be〉とか。で、自分の肉体を切断したいとは思ってないけど、四肢切断者に性的に惹かれる人は〈愛好者devotee〉。ぼくはずっと、〈希望者〉や〈執着者〉と〈愛好者〉はまったく別のものだと思っていたけど……」

 そして、ぼくの切断面を改めて見つめて、宇田はそっとそこに唇を押しつけた。

「土岐津くんを見ていると、たまによくわからなくなる。君の脚はあんまりにきれいで、おれもこんなふうになりたい、羨ましいって憧れて。でもそれだけじゃない。君に触ったり触られたりすると妙な気分になって」

 湯の中で立てた膝をくっつけるような姿勢で座っていた宇田が、おずおずと膝頭を左右に開いた。ぼくはその奥で、彼の性器が微かな欲情を示しているのを見た。

「だから、土岐津くんがおれを『切断フェチ』って言ったときも、否定できなかった」

 ぬるい湯に長く入っているためだけとは思えない、あからさまに頬を赤らめて宇田はそう告白した。

「宇田くん……」

 ぼくに宇田の本心はわからない。だが、こうして話していると感じるのだが、壁を取り払った彼の情操は思いのほか幼い。ぼくの脚に触れたいこと、ぼくに触れたり触れられたりして欲情すること、ぼくの苦しみに寄り添い共感すること——思春期以降の長い年月を強迫観念に取り憑かれて生きてきた宇田は、対人感情すら「身体完全同一性障害」の枠の中で捉えることしかできていない。もしかしたら言葉としては認識していても、彼の心の中に恋や愛という感情や概念はまだはっきりと確立していないのではないか。

 だったら——ぼくたちにはまだ、可能性があるのかもしれない。

 宇田の奇妙な欲望に向き合うことも、未成熟な感情をひとつひとつほどいて名前をつけていくことも、ふたりならばきっと、一人よりも辛くないはずだ。

 

 ぼくはボトムを脱いだとき同様に水を吸った重い衣類を苦労しながら脱いで裸になると、宇田の傷に触れないよう注意しながら浴槽に入った。狭い浴槽に男ふたりが入るとぎゅうぎゅうで、宇田の肩まで浸かるほどまで溜めていたお湯は大きな音を立てて洗い場に流れ出した。温かな湯と、温かな気持ちがぼくの体を包み込んでいく。

 ちょうどいい、と言うのも不謹慎かもしれないが、ぼくの左脚が半分しかないせいで向かい合っても宇田の傷にはあまり触れずにすむようだ。おそるおそる体の置き場所を探るぼくを宇田は興味深そうに眺める。

「大丈夫、触るだけならそんなに痛くないんだ。ただ、まだ体重を預けるのが難しいだけで」

 そう言われても、見た目が痛々しいだけに簡単に信じることはできない。ぼくは「本当に?」と疑いの声を漏らした。

「本当だよ。これでもしっかり準備したつもりだったんだけど、おれは意気地なしだから。恐怖を紛らわすためのお酒のせいで119番に電話してたなんて、馬鹿だよね」

 そして宇田は笑いながら、凍傷の跡が残る自身の左脛を撫でる。

「この脚を土岐津くんのものにできればいいのにね」

 冗談でも軽口でもないない、それは心の底からの叫び。だから、ぼくもうなずく。

「だったら、くれよ。それは偶然いま宇田くんの膝についてるけど、君のじゃない。ぼくの脚だってことにしよう」

 言っている自分ですら理解できない無茶苦茶な理屈。ただ「脚の足りない男」と「脚の過剰な男」が偶然出会ったならば、そういう考え方だってあるのではないか。だってぼくたちは二人合わせれば、ちょうどぴったりと望んだかたちになるのだから。

 奇妙この上ない言い分に宇田は声を出して笑って、ふと真面目な顔をする。

「じゃあ、ひとまずそうしよう。おれのこの脚は君にあげる。だから君のその脚……なくなった脚の〈欠落〉を、おれにちょうだい」

「うん、あげるよ」

 躊躇なく返事をするとぼくは自分のものになったばかりの宇田の脚をおそるおそる撫で、宇田は〈欠落〉につながるぼくの断端に触れながらつぶやく。

「これからは、左脚の違和感には『これは土岐津くんの脚だ、おれのじゃない』って思うことにしようかな。どこまで効果があるのかわからないけど、そう考えればちょっとは気が紛れるかもしれない」

「ぼくは幻肢痛がしたら、宇田くんがくれた脚が痛んでるって考えることにしようか」

 これから共有していく新しい秘密について語り合い、顔を見合わせて笑う。

「……人には言えないね。ふたりして頭がおかしくなったと思われる」

 ぼくたちはお互いの中に狂おしいほど欲しくて、決して手が届かないものを見出した。不完全な体を肯定して、心底欲しがってくれる相手との出会いで少しだけ楽になって、少しだけいまの自分を受け入れようという勇気を持つことができる。

 もたれ合うみたいな関係を正しくないと考える人もかもしれない。だが、他人の決める健全・不健全の基準に何の意味があるだろう。正論を受け入れるだけでは救われない苦しみがあることを、宇田もぼくも知っている。

 そしてぼくたちは、一緒にいればきっと——。

 

 艶めいた表情に誘われるように宇田に向けて腕を伸ばし、首ごと抱き寄せる。近い距離で見つめ合うと宇田がはにかむように笑った。すべての秘密を打ち明けた後のこれまで見たことのない無防備な表情に、もう堪えることなどできない。開いた両ひざの間に彼の体を引き寄せると唇にむしゃぶりついた。

「……ん」

 上下の唇をひとまとめについばんでから、合わせ目が緩んだところで角度を変える。何度もしてきたはずなのに、これまでの上の空なキスとはまったく違っている。ぼくが宇田の舌を誘えば、拙いながらも懸命に応じてくるのが愛おしい。舌と舌を絡めて、吸って、両手は忙しく互いの体をまさぐった。

 ぱしゃぱしゃと響く水音は気にならないし、湯船の狭さはむしろ興奮を高める。ぼくは宇田の肩を撫で、胸を摘み、早急すぎると思いながらも手をどんどん下へ向けた。

 さっき目にしたときよりもはっきりと宇田のペニスは勃起していた。手で柔らかく握り込むと大きく息を飲み、負けじとこちらに手を伸ばしてくる。右手はぼくの〈欠落〉に、そして左手は股間に。

「宇田くん、やっぱりぼくの脚に興奮する?」

「する……」

 耳に吹きかけられる吐息は熱く甘い。だが、それだけではない。宇田がぼくの断端に触れて昂るのと同じように、いつからかぼくも、そこの薄い皮膚に触れられることに快感を覚えるようになっていたのだ。

「もっと触って、両方とも」

 言葉で促すと宇田が手の動きを変える。右手は優しいまま、左手はより激しく勃起をしごく。

 キスをしながら互いの興奮に触れあい、それだけでは足りなくて、やがて宇田がぼくの膝に乗り上げるような体勢になる。傷ついた彼の脚が気になるが、痛そうな素振りを見せないから大丈夫だろうか、などと甘い考えに逃げてしまう。焦がれ続けた彼に触れることは、それほどまでにぼくの冷静さを奪っていくのだ。

 手だけではなく、二人分のペニスをまとめて一緒に擦る。その熱さと硬さはどうしようもなく愛おしくて、どうしようもなく興奮した。

「……っ」

 達するのはほぼ同時で、湯の中にぼんやりと白いものが広がっていく。そこではっと正気に戻った。

「脚、大丈夫?」

 抱き合う中で彼の傷に触れてしまったかもしれないという懸念はもちろん、精液で汚してしまった以上、もはやこの湯船のお湯は清潔とはいえない。

 射精直後の脱力感でぐったりと目を閉じた宇田はつぶやく。

「ちょっとだけ……痛いかも。あと」

 なんかふらふらする、と宇田はぼくに抱き着くように脱力した。いくらぬるい湯とはいえ長く浸かって激しく動いたのだから湯あたりするのも当然かもしれない。ぼくは慌てて宇田を助け起こし風呂から出ようとするが、いかんせんこちらも片脚。ことはそう簡単にはいかない。

 

 風呂から上がって宇田の傷の始末をし終えた頃には、すっかり夜も深まっていた。

 寝間着に着替え、左足を清潔な包帯でくるまれた宇田をベッドに寝かせる。簡素なシングルベッドでふたり一緒に眠ることは難しいから、ぼくはベッドサイドに置いた椅子で宇田を見守るだけだ。

「土岐津くん……」

 不自由な脚で久しぶりに外出して、雨に打たれ、風呂場では性的な接触をした。疲れ果てた宇田はうとうとと目を開けたり閉じたりしながら、ぼくの名を呼ぶ。

「何?」

「ごめん。ごめんね」

 何が「ごめん」なのだろうか。本心を偽ってぼくに近づいたことをまだ気にしているのか、それとも風呂を上がった後の始末をさせたこと、もしくはぼくの分の寝具がないこと。何もかも、いまとなっては小さなことだ。

「もう帰る?」

 その声があまりに寂しそうだから、ぼくは言った。

「帰らない。このままずっと、宇田くんが起きるまで待ってる」

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