眠れない。〈少年王〉は天蓋のついた大きな寝台の中で何度も寝返りばかりを繰り返した。午後の祈りのせいで体も心もくたくたに疲れているのに睡魔はちっとも訪れず、不眠は日々ひどくなるばかりだ。
「はあ」
祈りの時間に〈あれ〉に蹂躙された後はいつも意識を失ってしまう。そして目を覚ますと不思議なことに、乱れた衣服も汚れた体も嘘のように元どおりになっているのだ。まるで〈あれ〉が現れたことなどただの夢だったかのように。
窓の外、月は高く昇っている。眠れないのは辛いが、夜は〈少年王〉にとっては祈りのため北の塔にこもっている間を除いてはほとんど唯一ひとりきりになれる時間だ。美しい満月に誘われるように体を起こすと寝台を降り、ふらふらと窓の方へ向かう。雲ひとつない夜空に月と星が輝いているのを見ていると、その美しさに打ちのめされる。空がこんなに美しいということは雨が降る気配がないことの証左でもある。今日も雨は降らなかった。そして、この様子だと明日も雨は降らないだろう。
明日も午後になればバルコニーに立たなければいけない。そしてすがるような、失望したような民衆の目に晒されなければいけない。針のむしろのような「王の挨拶」の時間が終わればまた筆頭賢者に連れられて北の塔へ行き、煎じ薬を飲んだらやがて〈あれ〉が現れて――こんなとこがあと何日続くのだろう。そしてあと何日待てば雨が降るのか。
もしくはこのまま雨は降らず、自分はやがて〈旧い王〉のように焼かれてしまうのか。
「僕の心が汚れているのかな」
ぽつりと独りごちて再び寝台に戻ろうとしたそのときだった。〈少年王〉は窓の外に不思議な光景を見た。
天から黄金色の粒が降っていた。流星とも違う、雨のように降り注ぐ金色の粒は一筋になって〈少年王〉の寝室からそう遠くない窓に注ぎ込まれる。
「何だ……? あれは」
驚き、何度か瞬きを繰り返すうちにあっという間に黄金の雨は消え、夜は元どおりの色を取り戻した。
何かの見間違い、もしくは夢を見ているのだろうか。〈少年王〉はしばらくその場に立ちすくんでいた。雨を降らせなければいけないというプレッシャーでおかしくなっているのかもしれない。祈りの時間の〈あれ〉といい、今しがた目にした黄金の雨といい、おかしなことが続きすぎる。
いったんは寝台に体を横たえるが、どうしても気になって仕方ない。結局〈少年王〉は再び起き出すと、そっと部屋の扉を開けひんやりと冷たい廊下に裸足のまま一歩踏み出した。ちょうど見張りの交代時間なのか、部屋の周囲には誰もいない。
無断で部屋を出たのが衛兵やお付きの者たちに見つかればひどく叱られるのはわかっている。しかし好奇心を抑えきれない〈少年王〉はひたひたと足音を忍ばせて、さっき黄金の雨が降り注いでいたあたりを目指して歩く。
ちょうど廊下が曲がり角に突き当たるところで奇妙な音を聞いた。ピタピタと静かに歩み寄ってくる足音。そして息を殺しているのだろうが殺しきれていない「ハァハァ」という荒い息づかい。
それはまるで、獣のような――。
その瞬間〈少年王〉の心に噂話が蘇る。西の果てから王都へやってきているという〈王殺し〉。大きな体に怪力を持ち王の命を狙っているという謎の男。そういえば、身の回りに注意するよう口を酸っぱくして忠告されていた。
「だ、誰かいるのか……?」
思わず小さな声を上げ、数歩後ずさる。暗い影と荒い息遣いが近づいてきて、いよいよ角を曲がって姿を現す。
「うわあっ」
それは獣だった。犬よりは大きく、顔は熊にも似ているようだが大きくふさふさとした尻尾は熊にはついているはずがないものだ。灰色の目はどんよりと暗く、鋭い牙をむき出しにした口元からは小さなうなり声だけでなくよだれがぽたぽたと垂れている。
ひどく凶暴そうで、ひどく醜い姿の獣を前にして〈少年王〉は立ちすくんだ。これは噂の〈王殺し〉ではない。しかしそれと同じくらい、いや――もしかしたら〈王殺し〉よりもよっぽど危険かもしれない。
「あ、あの……」
一歩一歩後ずさる〈少年王〉を獣は一歩一歩追い詰める。そのどう猛な声はまるで地獄の底から響くようだ。廊下の隅まで後ずさったところで〈少年王〉恐怖のあまり床にへたり込んでしまう。だめだ、もうおしまいだ。迫りくるうなり声にぎゅっと目を閉じた。