梅雨の晴れ間に


「心を埋める」栄×尚人の初々しい出会いです。仕事で挫折を知る前の栄は王子様だったんだよという話でもあります。


「もしもし尚人、電話もしてこんしメールの返事もないし。元気にやっとる?」

 まるで数か月ぶりの会話のように仰々しいが、相良尚人が母親と電話越しに話をするのはちょうど一週間ぶりのことだ。

「大丈夫だって。特に用事がないから連絡しなかっただけで大げさだな」

 家族からは変な子だと笑われたが、T大学の合格発表の日以来尚人は例え家族相手であっても方言は使わないと決めている。東京の大学を出たという教師から、入学当初に方言のせいでからかわれたり、アルバイト先の塾の生徒に「先生の言ってること、わかりません」と言われたという話を聞いたからだ。

 その教師は方言のおかげでキャラが立ったと笑っていたが、生真面目でお世辞にもコミュニケーション能力が高いとはいえない尚人だったら、自分の言葉をからかわれた時点でそれ以上何も話せなくなってしまう。幸い事前の予行練習の甲斐あって今のところ大学でボロは出ていない。

特段の用事もなさそうなのに母はしつこく尚人を心配し続けた。

「でも一人暮らしだと病気したとき頼る人もおらんやろ。あんたはぼーっとしてる方やけん、ごはんもちゃんと食べてないんやないかってお父さんも心配しとるよ?」

「食べてるって。何かあったらこっちから連絡するし、そんなに心配しないで」

 同じような言葉に同じような言葉を返し続け、ようやく電話を切るとほっとした気持ちと同時に寂しさが湧き上がった。

 生まれ育った九州を離れて三ヶ月近く、というのはつまり東京の大学に入学して慣れない一人暮らしをはじめて三ヶ月近くが経ったということなのだが、尚人はホームシック気味だった。実家や故郷を恋しく思う一方で、特に親兄弟に対しては見栄を張りたい気持ちもあり連絡を控えてしまう。

 尚人の出身高校は地方都市の公立校で、地元ではそれなりの進学校と評価されているが、成績上位の生徒のほとんどが西日本の国立大学に進む。少ないながらも東京の大学に出てきた同級生もいるものの、同じ文系でも私立文系コースの生徒とはあまり交流がなかったし、同じ大学に唯一現役合格した理系クラスの男子生徒など会話を交わしたこともない。

 つまり四月の尚人は、見知らぬ土地で完全に見知らぬ人ばかりの世界に投げ込まれたといっていい状態だった

 もともと引っ込み思案な性格で友達作りも得意ではなかったから、初日からしてまず出遅れた。声を掛けるのを戸惑っているうちに周囲ではどんどんグループができていき、ただぼんやりとそれを眺めた。尚人にとっては「テレビ越しに聞く言葉」だった標準語が当たり前のように耳元を流れていき、まるで自分もテレビの世界に入ったのではないかと思うほどだった。

 やがて尚人は、自分が大きな誤解をしていたことに気づいた。入学したのは日本最難関と呼ばれる大学なので全国からまんべんなく人が集まっているのだとばかり思っていたが、実際話をしてみると東京近郊出身者や、地方でも大都市出身者が多い。そして同じ高校出身者、同じ予備校出身者などが固まった既存のコミュニティすらすでに存在しているのだ。

 勉強は尚人にとって唯一得意なことで、子どもの頃から漠然と学者や大学教授という響きにあこがれを抱いてもいた。成績は常に良かったので大学というものには行くのだろうと思っていたし、高校時代に進路指導担当から「この成績ならT大を目指せる」と言われたときには嬉しくなって、より勉強に打ち込んだ。

 尚人自身は市役所職員の父親と銀行パートの母親の次男という典型的な地方の中流家庭で育った。目立って裕福でもなかったが周囲に引け目を感じることもない。兄弟ともに奨学金を借りるのが前提であるものの兄は実家から通える私立大学に通い、尚人は国立ならばということで東京に出してもらうことになった。

 自分がT大生のごく平均的な姿だと信じて疑わなかった世間知らずの尚人にとって、現実はあまりに残酷だった。高校三年生まで部活に打ち込んでその後のスパートで一気に合格したとか、試験前以外は渋谷で遊び歩いていたとか、そんな頭の作りからして違うとしか思えない新入生も珍しくはない。親の仕事の都合でずっと海外にいたという帰国子女に至っては、修学旅行以外で九州を出たこともない尚人にとっては異星人のように思えた。

 経済的にも恵まれた家庭の子女が多いのか当たり前のように高校時代に参加した海外のサマースクールの話が交わされ、東京の地理に詳しいことが当たり前であるかのように店や遊び場所の情報交換がなされる。自分と似た雰囲気のおとなしそうな学生の輪に入ってみれば、尚人が聞いたこともない高尚な映画監督や外国人作家についての議論が交わされていた。

 別に誰も尚人を馬鹿にしているわけではないのだが、ふとした会話でぼろが出そうでただでさえ少ない口数がもっと少なくなる。一方でがりがりと勉強ばかりしてきた自分と似た人間と固まるのもなんとなく惨めな気がして、くだらないプライドに自己嫌悪に陥りもする。

 ちょうど十日ほど前に関東甲信越地方は梅雨入りをした。尚人の心も絶賛梅雨前線到来中、というのが現状だ。

 そんな尚人にとって、水曜日の四限は一週間で最も待ち遠しい日だ。一般教養の「倫理学基礎」の講義を受ける新入生の中に、人目を引く学生がいるのだ。尚人からすれば大抵の学生が自分より垢抜けて見えるが、中でも彼は際立っていた。

 整った顔立ちにセンスの良い洋服を嫌味なく着こなしている。尚人はブランドに疎いが彼の持ち物が高級品であることはわかったし、彼が現れると女子学生の視線が一斉にそちらへ向く。いや、女子だけではなく男子学生も羨望や嫉妬まじりの目で彼に注目する。スポーツでもやっているのか均整の取れた体格も見栄えがする。

「ねえ、あの人かっこよくない?」

「文一の人だって。文一の友達に聞いたら、A高出身らしいからもしかしたらまだ彼女いないかもって」

「マジで? でもなんかちょっと王子っぽいっていうか、高嶺の花っぽい」

 尚人は教科書を読むふりをしながら女子学生の会話に耳を傾ける。

 A高というのは地方出身の尚人でも名前だけは知っているほど有名な中高一貫の男子校だ。彼はときおり親しそうに数人の男子学生と話していることがあるが、もしかしたら高校時代からの友人なのかもしれない。学費も高く、卒業生には政財界で名の知れた人物も多くいる。詰め込み勉強とは程遠い自由な校風にも関わらず多くの生徒が有名大学に進学するのだという話を聞いても、尚人にはピンとこなかった。ただわかるのは、注目を浴びる彼に尚人もまた目を奪われてしまうということだけだ。

 やがて尚人は講義中に当てられ発言するときのやりとりから、彼が谷口栄という名前であることを知った。

 まるで銀の匙を咥えて生まれてきたようにも思える栄だが、驚くことに傍目には奢ったところはまったくなく常に物腰は柔らかい。話しかけてくる女子学生への対応もそつがなく、共学出身の尚人よりよっぽど女子の扱いにも長けているように見えた。

 一方で容姿や頭脳に恵まれた男としては珍しいほど浮ついたところがなく、決して講義をさぼることなく毎週真面目に教授の話を聞きノートを取っている。周囲にコピーを頼まれても嫌な顔ひとつしない。嫉妬も覚えないほど完璧な男に尚人は目を奪われ、いつしか毎週彼を眺めることが楽しみになっていた。

 ささやかな憧れ――けれどそれが同じ男としてああいう風になりたいと願う類のものでないということはわかっていた。いわば同世代の男子学生が女優やアイドルに抱くような気持ち、憧れの奥底に潜む劣情。それが、尚人が未だ会話を交わしたことすらない谷口栄に対して抱いた感情だった。

「相良、今夜暇なら合コン行かない?」

「合コン?」

 偶然出くわした同じ専攻の男子学生に突然話しかけられて、尚人は思わず訊き返す。もちろんその単語を知らないわけではない。ただ、尚人にとってはあまりに遠い場所にある言葉だった。

「そう。S女子大の一年生と五対五で。ほら、夏風邪流行ってるじゃん、一人欠員出ちゃって」

 大抵の男子学生ならば喜んで飛びつきそうな有名女子大との合コンは、そもそも尚人のような地味な男を呼ぶようなものではない。病欠が出たため急遽数合わせをしようとして、偶然居合わせた無害そうな同級生に声をかけたという訳だ。

「いや、ちょっと今日は」

 だが尚人は反射的に断りを入れる。女子大生との合コンというのが自分とかけ離れたイベントだということは理解していたからだ。

「マジで? むちゃくちゃ美味しい合コンなんだけど」

 まるで断られることを一切想定していなかったかのように目の前の男子学生は眉をひそめる。そして尚人に再考の余地を与えようとする。

「大学入って解放感に浸ってる女子多いし、彼女作るなら今だって。『やらはた』になりたくなくて焦ってるタイプだとかなり確実だしさ。せっかくのT大ブランドだし、相良も元は悪くないんだからそんな地味な髪と服じゃなくてちょっとイメチェンすれば……」

 何気なく伸ばされた手が前髪に触れ、尚人は思わずそれを振り払った。一瞬遅れて相手の目が驚きに見開かれていることに気づく。

「あ、ごめんびっくりして」

 あわてて取り繕った言葉に、「いや……別に」と彼は手を引いた。違和感を口にはしないものの、尚人の過剰な反応を不審に思っていることは確かだろう。

「誘ってくれてありがとう。でも今日は、どうしても外せない用事があるから。」

 断りの理由はもちろん嘘だった。

 急だったので驚いて振り払ってしまったが、あれが同性に触れられた場合の反応として適切でないことは理解している。

 尚人は思春期以降一度も女子に惹かれた経験がない。いつだって心がざわめく相手は同性だった。

 いくら奥手でも高校生になる頃にはさすがに自分が同性愛者であることは察する。女性アイドルが肌を見せているグラビア写真を見ても犬猫の写真を見ているときと同様の「可愛い」以外の感想は持てず、一方で偶然男性俳優が脱いでいる場面をテレビで見れば頭から離れなくなる。男の裸の夢で下着を濡らせば自分の性志向を認めないわけにはいかなかった。

 だから、自分がT大合格圏にいると知ったときには正直「これで堂々と東京に行く大義名分ができた」と思った。

 内気で世間体を気にする尚人が同性愛者であることを家族や友人にカミングアウトできるはずはない。それはつまり、いつどこで知り合いと出くわすかわからない地元で恋人を見つける可能性はほぼ閉ざされているということだ。疎いながらもLGBTと呼ばれる人々が都会に多いと知っていたし、とりわけ大都会である東京であれば知り合いに会うことなく仲間を探すことが出来るかもしれない。尚人は上京に際していくばくかの期待を抱いていた。

 とはいえ現実は厳しく、よく言われる「同類を見分けるセンサー」はどうやら尚人には搭載されていないようだった。少なくとも大学に入って出会った人々の中にそれっぽい人物は見当たらず、よっぽど真面目一辺倒で性愛そのものに興味なさそうなタイプを除いて周囲の男子学生は大学デビューや女子学生の話でもちきりだ。

 新宿二丁目という名前は知っていて、一度近くまで行ってみたことがある。だがそこはバーや飲み屋が並んでいる通りで、未成年で酒も飲めない尚人は気圧されすぐさま撤退した。テレビで見るようないわゆるトランスジェンダーらしき人間は何人か見かけたが、自分のような普通の男はやはり外見だけでは性向まで推し量れない。

 その日アパートの部屋に戻ってから尚人は、やはり一度は合コンなるものに行ってみるべきだっただろうかと考えた。

 自分のような男が女子に好感を抱かれるはずはないと思いつつ、万が一話が弾んで親しくなれば意外と普通に女子を好きになることもあるのかもしれないという期待も捨てきれない。同世代の女の子と普通に交際し将来を考えることができれば、それはどれほど素敵なことだろう。でも本心では、それがただの空しい妄想だとわかっている。

 机に向かってその日の講義の復習をし、締め切りまでずいぶん時間のあるレポート課題にも手を付けるが尚人は集中できない。

 周囲の多くは自由な大学生活を楽しんでいるのに、自分だけが相変わらず受験勉強の続きをしているかのようだった。もちろん学者を目指すからには真面目に学業に打ち込むことこそ正義なのだと信じてはいる。だが、親しい友人も恋人もできず朽ちていく人生を思えば気持ちは暗くなる。

 夜半過ぎた頃に尚人は疲れた頭をやすめようとベッドに横たわる。目を閉じてふと浮かんでくるのはなぜだか、谷口栄の爽やかな笑顔だった。

 都会で生まれ育ち、賢くコミュニケーション能力も高い彼のような男は、尚人みたいなくだらない悩みとは縁遠いのだろう。羨ましく思うと同時に、妙な気持ちが湧き上がる。

 ――A高出身らしいからもしかしたらまだ彼女いないかもって

 いつかの女子学生の噂話を思い出してなぜだか胸の奥が疼いた。

 谷口に恋人はいるのだろうか。いるとすればきっと彼に釣り合うような美しく賢い女性なのだろう。人目を引くカップルは洗練された町並みでデートをして、どんな話をするのだろう。そしてその先は?

 やらはた、という俗語については大学に入って初めて知った。セックスを知らずに二十歳になることが恥ずかしいという感覚自体をかつての尚人は持ち合わせていなかったが、今は自分がきっとそうなるだろうという自信がある。三十歳まで童貞だと、魔法使い? きっとそれも射程距離だ。

 地方の保守的な家庭で育った尚人は、キスやセックスについてはテレビや映画、雑誌記事程度の知識しか有していない。それはもしかして東京ではすでに同世代の多くが経験しているのだろうか。ということはきっと谷口栄も。

 彼はどんなふうに恋人を抱き寄せ、キスをして、その先は。

 そこでふと昂っている自分に気づいた。概して尚人の性欲は薄く、朝勃ちのついでにほとんど排泄に近い感覚で自慰をすることはあるが、身近な――もちろん会話を交わしたこともないが――相手を思い浮かべて勃起したのははじめてだ。

 疲れているから、最近してなかったから。そんな言い訳をしながら尚人はおずおずとスウェットの中に手を伸ばす。よく知らない男の顔を思い浮かべて、妙にいやらしい気分に襲われた。

 そして翌朝、尚人は起き上がることが出来なかった。

 全身を苛む痛みと悪寒に震えながら、罰が当たったのだと思った。面識がないとはいえ同級生相手にあんな邪なことを考えたから、天罰が下ったのだ。上京の際に持たされた救急箱から体温計を取り出し脇に挟んでみると、目盛りは三十八度九分を示した。そういえば大学では夏風邪が流行っていると聞いている。

 朦朧とする意識の中、一人暮らしの病気を心配する母の言葉を思い出す。

 尚人は今一人きりだった。見知らぬ土地で恋人どころか親しい友達もいない。苦しくて苦しくて、これはただの風邪などではなくもしかしたらすごく悪い病気なのかもしれない。だとすれば一人ここで孤独死して、いつ誰が見つけてくれるのだろうか――。そんなことを考えてはやがて眠る。

 結局尚人は一人きりの部屋で、まる一週間寝込んだ。

「ノート、いる?」

「え?」

 生協で突然話しかけられて振り返ると、そこには爽やかな笑顔を浮かべた谷口栄が立っていた。もちろん今まで一度も話したことはないし、栄が尚人のことを認識しているとも思ったことはない。

 まだ微熱はあるものの夏風邪の症状はあらかた治まったので、尚人は今日からようやく大学に復帰したところだった。声を掛けてくる知り合いはいたが、正直彼らのうちどれだけが尚人が数日間大学に姿を現さなかったことに気づいているのかは疑わしいくらいだ。

 同じ専攻の学生にとってすらその程度の存在感しかない尚人に、しかし栄は昔馴染みの友人であるかのように親しげな言葉をかける。

「倫理学基礎、いなかっただろ。何だっけ、名前。文三の奴らとよく一緒にいるから君も文三?」

 尚人はあわてて首を縦に振った。一体自分の身に何が起きているのかわからないまま、ただ憧れた相手に声を掛けられた事実に舞い上がった。

「さ、相良、相良尚人、です」

 どもりながら尚人が名乗ると、栄も薄く形の良い唇を開く。

「俺は谷口栄っていうんだ。文一なんだけど」

 そんなこと、言われなくたって知っている。しかしそれに気づかれていないなら幸いだ。だって、毎週水曜にそっと栄の姿を眺めることを楽しみにしていて、話しかけられただけでこんなにどきどきしているなんて知られたらきっと気持ち悪いと思われる。

 尚人は突然の出来事に混乱した。自分が恋をするならば、あらかじめ同類とわかっている場合のみにすると決めていた。でも見分け方など知らないから東京に出て同類の集まる場所に行くことに一縷の望みをかけた。それすら失敗して、もう一生このままなのかと半ばあきらめて――。

 でもこんな風に優しくされたら、勘違いしそうになる。

「他に誰かあてがあるならいいけど、もし困ってるならと思って」

「いえ、あり、ありがたいです。でもどうして僕が休んだことを……」

 これはただの、博愛主義の人格者の気まぐれだ。尚人は必死に自分にそう言い聞かせる。だが、周囲の女学生もチラチラ横目で見やってくる男が自分の方を見て話しかけてくる現状に、熱をぶり返したように体温は上がった。

 一方の栄は落ち着いた様子でノートを差し出してくる。

「毎週前の方で真剣に講義を聞いてるのが気になってたから。昨日は見かけなかったけど、その様子じゃきっと酷い風邪ひいて寝込んでたんだろう? 俺、高校の友達が結構この大学にいるし、他の科目でもノートで困ってたら聞いてみるけど」

「……ありがとう」

 本当は泣きそうな気分だ。見た目のみならず人格までも絵物語の王子様のような栄に感動しているのも理由のひとつ。でも一番大きいのは――。

「体調はもう大丈夫? って、あんまり大丈夫そうには見えないけど……飯は食えてるの?」

「えっと、実はまだ一人暮らしに慣れなくて、たまに抜くことも」

 ここに来て以来、誰かが尚人を気にかけてくれたことは初めてだった。偶然隣に座った同学部生でもなく、とりあえず顔見知りになっておけばノートを融通してくれるであろう真面目な便利屋でもなく、合コンの穴埋めでもなく。谷口栄は大講義室の前方の席に座っている退屈な自分のことを見つけてくれたのだ。

「相良は、地方出身なんだな」

 名を呼ばれれば胸の奥がくすぐったくて、尚人は顔を歪めて不器用に笑う。

「一目でわかるよね。田舎っぽいってよく言われるんだ」

 だが栄は尚人の自虐気味の言葉を真顔で否定した。

「それの何が悪いんだよ。大学受かったくらいで浮かれて遊びまわってる奴らの言うことなんて気にしないほうがいい」

「そうかな。僕は自分が退屈な人間みたいに思えて」

 そううつむいて手を伸ばせないままでいる尚人に、栄は今度こそ半ば無理やりにノートを押し込んだ。そして思いも寄らない近さから見つめてくる。

「相良は全然退屈じゃないよ。遊び場所とか見た目とか食い物とかそんなの知ってるか知らないかだけの話でくだらない。……そうだ、今週末は暇?」

「え?」

 問いかけの意味がわからない。だって、上京して以来誰かに週末の予定を聞かれたことなどなかった。尚人はただ面食らって、何も言えずに栄の整った顔を見返した。

「遊びに行こうか。行ってみたいとこがあればそこでいいし、やってみたいことがあれば案内してやるよ。俺、生まれも育ちも都内だから」

 まるで夢のような言葉。別世界の人間だと思っていた栄がなぜか今尚人に話しかけている。個人として認識してノートを差し出してくれて――それどころか、東京を案内すると言っているのだ。尚人の頭は真っ白になる。

「いや、でも今週はちょっと用事が……」

 思わず断って、すぐに後悔する。常に周囲に人が途切れない男の気まぐれ、今断ればきっと二度と声はかけてもらえない。もったいないことをしたと思う反面、栄と二人きりになっても退屈な自分はろくな話題も提供できず失望させることになるだろう。

 親しくなりたいけど嫌われたくない。完全に相反した気持ちに引き裂かれながら尚人はまだその気持ちが恋のはじまりであることには気づいていなかった。

「ああ、そっか。ごめん急に誘っても迷惑だよな。俺、考えもなしに」

 あっさり誘いを拒まれたことに、栄は照れくさそうに笑った。せっかくの厚意を断られたことを気にもかけていないかのような爽やかな仕草を見たその瞬間に、尚人は完全に落ちたのだと思う。

 ありがとう、嬉しい。是非次の週末に。言いたいことは山ほどあるのに緊張と同様のあまり口がカラカラで何も口にできずにいると誰かが遠くから栄を呼んだ。

「谷口! 次、憲法行くだろ?」

「ああ、行く!」

 振り返って返事をする栄に向かって尚人はようやく一言だけ声を出す。

「あ、あの。ノート」

 手の中には栄に手渡されたノート。まだコピーは取っていないが、次の授業まで時間はない。親切に感謝しつつ返そうとするが、栄は首を振って断った。

「持ってていいよ。来週の講義のときに返してくれれば、それで」

「え、本当に?」

「で、遊びに行く約束もそのうち」

 そう言った栄の手が一瞬、かすめるように尚人の腕に触れた。しかしそれすら勘違いだったのかもしれない――次の瞬間、谷口栄は彼にお似合いの友人たちと肩を並べて尚人に完全に背を向けていた。

 彼の姿が完全に視界から消えるのを待って、尚人はそっと手の中にあるノートのページをめくる。栄のノートは達筆ではないが几帳面な字体で、周囲の学生が写しを欲しがるのも当然のように思えるほど綺麗にまとめられていた。

 尚人は皺や折り目をつけないよう注意してコピーを取ったそれを万が一にも濡らさないようビニールで宝物のように包む。だがどうやらそれは不要な気遣いだったようだ。

 生協の建物の外に出ると、さっきまで降っていた雨が上がり空は抜けるように青かった。

「急に晴れたね」

「本当だ、梅雨の晴れ間だ」

 空を見上げる学生たちのそんな声を聞きながら、尚人は湧き上がる笑みを堪える。

 来週の講義でノートを返すときにまた栄と話すことができる。そう考えるだけで尚人の心は躍った。もちろん彼は自分とは釣り合わない男で、そもそも栄きっと同性なんかに興味はない。下手に期待して近づけば苦しくなるだろうと警戒しながらも、甘い誘いを完全に拒むには尚人はあまりにも弱っていて、あまりに孤独だった。

 勘違いでも気まぐれでも、憧れの男と――せめて友人になれるかもしれないと思えば、まるで天井から一筋の糸を垂らされた気分だった。

 梅雨の晴れ間が出たその日、尚人は初めて東京に出てきて良かったと思った。

 

(終)
2019.07.02-07.04

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