愛や恋にはまだ遠い


羽多野×栄(ただし恋愛以前)のSSです。羽多野視点、時期的には「心を埋める」本編99話後の話です。栄は出てこず、(性描写はありませんが)羽多野はマッチングアプリで出会ったモブ青年と寝た後という設定ですのでご注意ください。


「あんたの顔、知ってるよ」

 手渡したボトルの水を一気に半分ほども飲み干したところで青年はそう言った。乱れたベッドのシーツにはまだ微かに体温が残っているような気がするが、唐突な言葉のせいで羽多野貴明の中の熱は完全に冷め切った。

 青年の脱色した髪は黄色っぽい間接照明の光を吸い込んでますます濃い金色に見える。うっすら潤んだ目元や紅潮した肌に先ほどまでの行為の名残がわずかに感じられるが、いたずらっぽい笑顔から艶かしさは消え去って年齢なりのクソガキっぷりが滲みだしている。

 ボトルを受け取りキャップを締めながら、羽多野はどう返事をしたものかと考える。

 自分が今現在、悪い意味で顔の知れた人間であるという自覚はあった。青年の言葉には含意があるようにも感じられるし、寝た相手のべつまくなしにこういうことをふかしては、あわよくば「お小遣い」の幾らかでもせしめようとするタイプだとしてもおかしくはない。

「ええと」

 彼の真意を正そうとして、どう呼ぶか迷った。出会い頭に名乗られたのは確かだが、覚える気がないからきれいさっぱり忘れた。カズヤだかヒデヤだか、そんな感じだったか。間違えても厄介なので、とりあえず名前を口にすることを断念する。

 ベッドの中では多少恥じらってくれた方が興奮する羽多野には、貪欲に快楽をむさぼりうるさいほど声を出す青年の反応はやや過剰にも思えたが、セックス自体は悪くなかった。ストレス解消の意図もあってひどい抱き方をした自覚はあるが、達した後の彼は「こういうちょっと乱暴なのも、たまにはいいよね」と満足そうだった。

 離婚問題で揉めて失意の中アメリカから帰国したのはもう十年近く前のことになる。原因が自分の身体的な問題であっただけに、手に入れかけた成功への道が閉ざされたことのみならず男としての尊厳すら否定されたような気がして一時期はひどく荒れた。適当な女と寝まくって、その後は男も抱いてみた。しかしアルバイトからはじめた議員秘書の仕事に真面目に取り組むようになってからは、忙しさもあって生活はすっかり清廉なものになっていた。

 だがつい先日、勤務先であった議員事務所の不正の責任を取って職を追われることになり――いわゆるトカゲのしっぽ切りというやつだ――大きな挫折は二度目だけに前ほどのショックはないが、それでも気分は優れない。人生こんなもんだとあきらめてはみても、心の隅には未練がましい自分がいる。

 暇があれば暗いことばかり考えてしまうのだが、なんせ無職というのはやたらめったらと時間だけはある。映画を観ても本を読んでも酒を飲んでも暇を持て余し、挙げ句の果てにセックスでもすれば気が晴れるかもと相手を探して会ってみたのがこの金髪くんというわけだ。

「ねえってば、テレビに出てただろ?」

 面倒な展開に羽多野は顔をしかめる。こういう展開が面倒だから、マッチングアプリのリストに出てきた中で「一番賢くなさそうな」相手を選んだ。決して政治なんかに興味なさそうで、報道番組がテレビに映った瞬間にチャンネルを変えるタイプ。頭の悪そうなプロフィールを見てメッセージを送り、待ち合わせ場所に立っている相手が金髪にいくつものピアス、センスのかけらも感じられない派手な色柄ものの上下を着ているのを見てこれなら大丈夫だとたかを括っていたのだ。

 名前と仕事を聞かれたから最近羽多野を失職に追いやった男の名前である「シロウ」と名乗って、区役所の職員だと出まかせを告げた。彼は「ふうん、公務員かあ」と感心したような嘆息を吐くだけだったからすっかり気を抜いていたが、まさか事後になってこんなことを言い出すとは。

「……歳の割に悪くはない方だと自惚れてはいるけど、かといってどこかの俳優と間違われるほどイケメンってわけでもないはずだけどな」

 この時点で羽多野は今日の相手選びが失敗だったことを認めていた。それでも往生際の悪いごまかしを試みたのは、もしかしたら目の前の彼が空気を読んでこれ以上の追及をやめるかもしれないかと思ったからだ。だが「一番賢くなさそうな」相手を選んだだけあって彼には羽多野の反応を読むような能力はなかった。

「しらばっくれるなよ。なんだっけ、悪徳議員秘書?」

 あまりにストレートな言葉に、これ以上隠し立てなどできようもない。

 とはいえもちろん、こうなる危険性はそれなりに覚悟していた。政治スキャンダルが新聞や報道番組だけのものであるならばともかく、今では政治経済から国際問題までも芸能情報やグルメリポートと一緒くたに取り扱う情報バラエティが大手を振っている。半月ほど前までそれら番組の格好のおもちゃにされていた「悪徳議員秘書」である羽多野の顔が、本来政治不正になど無関心であるはずの彼のような人間の記憶に刷り込まれてしまうのも仕方ないことなのだ。

「……いまさら脅そうたって賞味期限切れだぞ。もう世の中の話題は小畠大臣の駐禁問題に移ってる。テレビも週刊誌も俺の情報に金は出さない」

 不幸中の幸い、半月ほど前に笠井志郎代議士が開いた記者会見で、「悪徳議員秘書が暗躍しての政治資金疑惑」は何となく幕引きとなり、現在は現職大臣の駐禁問題がメディアの新たなおもちゃになっている。

 一ヶ月前ならばまだ「噂の悪徳議員秘書が出会い系アプリで男漁り」というニュースに多少の価値はあったかもしれないが、今やただの無職のアラフォー男である羽多野を攻撃したって与党や笠井代議士にダメージを与えることはできない。せいぜい週刊誌の記者が逆恨みからの新たな不祥事リークを狙って連絡してくるくらいだが、そんなことで小銭を稼ぐほど金に困っているわけではなかった。

 だが、金銭目的での強請を警戒しての言葉に青年は頬を膨らませる。

「ひどいなあ、別にそういうつもりじゃないよ。テレビに出るような人と寝るのはじめてだったから、珍しいなって思っただけ」

 動物園のパンダを見るような好奇心いっぱいの瞳で羽多野をのぞき込んでくる彼の言葉には嘘はないのかもしれない。

 どう反応するか迷っていると、床に散らばった服のポケットに入ったままのスマートフォンが振動する音が聞こえた。どうせろくな用件ではないと思いつつすぐに取り上げたのは、青年の相手をするのが面倒だからというのが大きな理由だった。

「あ……」

「どうしたの?」

 画面を開いた羽多野が驚いた声を上げたのに、青年が怪訝な声をあげる。

「いや、なんでもない」

 そう言いながら羽多野はSMSで送られてきたばかりの短い文面をじっと見つめる。

〈昨日は失礼しました。酒の席のことですので余計な話についてはご放念いただければ幸いです。谷口〉

 このそっけない文面を打ちながら昨晩の失態を思い出して耳まで赤くしている谷口栄の姿を思い浮かべると、憂鬱な気持ちが少しだけ浮き上がった。

 以前仕事で関わりがあった――というよりは、議員秘書の立場を利用してかつてとことん苛め抜いた相手である谷口栄から突然連絡があったのは、昨日の午後のことだった。

 三月に目の前で倒れた栄を病院に見舞って以来、様子が気にかかってはいたものの忙しさにかまけて連絡はせず、やがて週刊誌事件や政治資金疑惑でそれどころではなくなった。そうこうしているうちに公設秘書の職すら失ったので、もう二度と会う機会もないだろうと思っていたので、「入院時のお礼を言っていなかった」などと突然向こうから電話をしてきたのには驚いた。

 育ちの良さゆえの義理堅さなのか、報道を見て野次馬心がうずいたのかはわからない。ともかく羽多野は不思議と嫌な気持ちにはならなかった。いや、思わず強引に呼び出して酒に付き合わせてしまう程度には嬉しかったというべきか。久しぶりにあの真面目でお堅い男をからかってみればちょっと気が晴れるかと思った――という意地の悪い気持ちもあるが、多少は人恋しさもあったかもしれない。

「何、ニヤニヤして。もしかして本命からメールとか?」

 羽多野がスマートフォンの画面を見つめっぱなしであることが面白くないらしい。青年は使用済みのコンドームを指先で弄びながら話しかけてきて、羽多野が昨晩の記憶を反芻するのを邪魔した。

「そういう相手じゃない。ただの仕事相手だ」

「へえ。フリーなら俺と付き合わない? セックスの相性良かったし、悪徳議員秘書とかなんか格好いいじゃん」

不 機嫌な返事にも動じないどころか交際を申し込んでくる行動原理は完全に理解の埒外にある。一体何が格好良いのだかわからないが、とりあえず「テレビに出ていた人」で「セックスが上手い」というのが彼の中で高ポイントであるようだ。後者はともかく前者はまったく嬉しくないし、もちろん羽多野はこんな奇天烈な格好で街を歩く若者になど関心はない。

「冗談はよしてくれ。俺は頭の悪い奴は嫌いだ。それに議員秘書なら半月前にクビになったから、絶賛無職のおっさんだよ」

「え? 無職? それヤバくね?」

 急に手のひらを返されて、おまえの頭の方がよっぽどヤバいよと喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。一時の感情で自分の父親を週刊誌に売り渡したり、弟の家庭教師に言い寄って彼氏から寝取ったりと、羽多野の中で愚かな若者の代表格といえば未生だったが、この青年と比べればあれはまだまだましな部類だったのかもしれない。

 改めて、昨日の栄を思い出してみる。一度は断られたのを強引に誘った。まだ胃が悪いとか言って最初はウーロン茶を飲んでいた栄も結局はアルコールの魅力に負けて、酔えばなかなかかわいいところもある男だという印象を受けた。

 仕事の席では頑なに崩そうとしない外面を壊したのは最初ではないが、怒りや焦燥ばかりをぶつけられた病院の夜を思えば昨晩の会話は極めて友好的で、同時に興味深くもあった。酒に酔ってたいそうな秘密をぽろぽろと話す栄の無防備さは可笑しくもあったが、普段あれだけ「出来る男」を気取っていれば、プライベートでも弱みを見せる相手すらいないのかもしれない。

 久しぶりに会って、倒れた頃よりはずいぶん元気そうに見えた。元々は一番嫌いなタイプ――絵に描いたようなエリートで、爽やかな好青年を演じながらもその実は選民意識の塊。あまりに気にくわなかったからぶっ壊してやるつもりで苛め倒したのに、どんな無茶な要求も歯を食いしばって受け止め続け、最終的には羽多野の目の前で突如倒れた。青白い顔で床に崩れ落ちた彼に触れると、その体は驚くほど冷たかった。シャツの手首は余っていて、抱え起こそうとしたときの軽さに栄が言葉通り「身を削って」いたことを知った。

 馬鹿な奴だ、身の程を超えて格好をつけるから悪いんだ。そう思う一方で、ちっぽけなプライドを守り虚栄心を満たすために必死だったかつての自分の姿を栄に重ねて幾ばくかの同情心も湧いた。

「何だよじっと携帯ばっか見て。仕事探してんの?」

「うるさいな、ちょっとは黙ってろよ」

 入院した栄に病院で付き添っていたのは、おとなしく従順そうな男だった。彼らが寝る場合に上になるのはきっと栄だろう。あの負けず嫌いが他人に押し倒され体を好きなようにさせるところは想像困難だ。

 それにしても驚いたのは、あのクソガキ未生が、栄の恋人を口説き落として寝ていたということだ。ある種の人間から彼の危うさが魅力的に映ることは理解できるし、ワンチャンスをものにする手癖の悪さも備えている未生だが、あのとき病院にいた栄以上に真面目そうな青年との組み合わせはとてもイメージできない。だが、勃起不全やEDの問題、激務、そして何より栄自身のあの面倒くさそうな性格を見るに、恋人もいろいろと限界だったのかもしれない。

 別れるかやり直すかまだ迷っている、確かそう言っていた。そして羽多野は「焦らず気が済むまで考えればいい」などと良識ぶった返事をしたが、本心はどうだったろうか。

 分別のあるいい大人である羽多野は他人のものに手を出すような面倒なことはしない。そもそも恋愛感情とは縁遠い人生だ。若い頃は、野心をかなえるために家柄の良い一人娘ばかりを狙って口説いた。自分に妊娠能力がないことを知って妻と別れた後はやけっぱちになって遊び回り、その中で男と寝ることを覚えたが、決して愛やら恋やらではない。セックスで他人を組み敷くことで男としての自信を取り戻し、かつ性欲が解消できれば良かった。

 でも――腕の中でぐったりと目を閉じた栄を見たときに感じた暗い欲望のことは思えている。そして昨晩の、酔ってやけっぱちになって自身の弱みを口にする栄の姿はかなり「キた」のだ。

 普段が高慢であるだけに、ちょっとした隙を見せられれば付け込みたくなるのか、自分の歪んだ欲望にはうんざりするが、手出しせずに栄を帰した自分は正直多少は無理していたと思うし、その欲望が散らしきれないからこそアプリで男漁りしてまで気を紛らわせたくなったのかもしれない。

「なあ、君だったら浮気した恋人と復縁できる?」

 ふと気になって、聞いてみる。羽多野は恋愛感情には疎い。二十代までは逆玉でもなんででも成りあがることしか考えておらず、離婚後は自分の男性としての価値を否定された気持ちが拭えないままここまで来た。感情でつながっている恋人に浮気されたとき自分がどう感じるか、相手を許せるか否か。かつてだったら金と家柄が良く自分を成功に導いてくれる相手であれば浮気だろうがなんだろうが許せたに決まっているが、今はわからない。

「はあ? 急に何言ってんの?」

「ただのアンケートだって。知り合いが浮気問題で揉めてんだよ」

「ふうん。……どうだろ。すっげえ好きだったら許しちゃうかなあ。いやでもやっぱ傷つくし、我慢できないかも。こう見えて結構俺ってプライド高いんだよね」

「プライドが高いと、か。なるほどな」

 確かに栄のような自分こそ世界一魅力的な男だと信じているようなタイプが、そう簡単に恋人の裏切りを許せるとも思えない。ということは――。

「どうしたんだよ変なことばっか言って。ていうか俺、別に脅すつもりとかじゃないから、せっかくだからもう一回……」

 青年は脈絡のない話ばかりを続ける羽多野に不満げだが、セックスに未練はあるのかもう一回戦をせがんでくる。だが栄の冷たく整った顔や触れた背中の感触を思い出してしまった今、羽多野は目の前で媚びを売る青年に触れる気にはなれない。

「いや、悪いけど用事思い出したから俺は行くよ。これ、ホテル代と小遣い。色つけてやってるんだから妙なこと考えるなよ」

 羽多野は財布から一万円札を五枚取り出し青年の目の前に置くと、ベッドから立ち上がった。何やら文句を言い続ける声は完全に無視をして服を整えドアに向かう。

 理想の自分を演じることで忙しい栄は自覚していないだろうが、恋人相手に亭主関白振りかざすなど彼にはまったく似合っていない。それより強引な力で組み敷かれて、恥辱と屈辱に歯を食いしばる方がよっぽど彼にはぴったりくるはずだ。

 部屋を出ると羽多野は短い返信を打ちながらホテルの出口へ向かう。

〈また機会があればぜひ。羽多野〉

 せっかく聞き出した弱みを「ご放念」などしてやるつもりはさらさらない。きっとこのメッセージに返信は来ないだろうし、みっともなく男の尻を追いかけるような趣味もないが、あわよくばという気持ちくらいは持ち続けたって罪にはなるまい。

「あーあ、別れりゃいいのに」

 らしくもないことをつぶやいてみる。何かの偶然でチャンスが降ってくるようなことがあれば――そのときは、もしかしたら。

 

(終)
2019.11.06

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