夕暮れの目撃者


「Day after」で羽多野×栄がワインを買いに行くのを栄の妹が目撃していた話。


「でも先生、なけなしの老後資金だったんですよ。最初のうちはちゃんと毎月の配当も払われていたから、まさかこんなことになるなんて」

「ええ、ええ。お気持ちはよくわかります。ですから私どもも集団訴訟に向けて現在弁護団の立ち上げ準備をしております。窓口の連絡先をお伝えしますのでまずはそちらにご連絡いただけませんでしょうか……」

 壊れたオルゴールのように同じ用件ばかりを繰り返す相手をなだめてすかして、いつがようやく電話を切ったときには時計の針は四時をさしていた。予定では半時間ほど前には事務所を出発している予定だったのに。

 電話の主は六十代の主婦。「投資すれば毎月高額配当を得ることができる」という仮想通貨に老後資金をほぼ全額投入したところで配当が停止したという、平凡な投資詐欺の平凡な被害者だ。

 最初の一年間はきっちり配当を出して安心させるが既存会員が資産を出し尽くし、新規会員が伸び悩んだところで自転車操業は一気に倒れる。健康食品に和牛商法、モノがあるかないかを問わず過去にうんざりするほど繰り返されてきた手垢でベタベタの詐欺事案だが騙される人間は後を絶たない。今回の女性の場合さらに不幸なのが投資の件を配偶者に黙っていたことで、長年地道に会社勤めで貯めた金と退職金が詐欺商法に溶けたと知った夫は激怒しているのだという。怒りはわかるが、逸から見れば家計を妻に丸投げしていた側も同罪だ。

 超がつくほどの現実派、合理主義の逸はできればこういう泥くさい仕事は受けたくない。刑事弁護も詐欺事案も離婚も浮気もうんざりだ。もっとクールに事務的に済ますことができる企業事案が一番自分に向いているとわかっているのだが、司法修習生時代の同期から頼み込まれてつい被害者弁護団への参加を了承してしまった。まあ、弁護士の世界というのも持ちつ持たれつの人情で成り立っている部分は大きいのでたまにはこういうこともある。

 受話器を置くとすぐにバッグを取り上げ、コートを引っつかむ。その姿を見て事務員が聞いた。

「あら逸先生、お出かけですか?」

「ごめん今日は早退させて! その分明日から年末まではいくらでも働くから!」

「え、ええ……」

 あまりの剣幕にきょとんと目を丸くする彼女に目もくれず、逸は事務所を飛び出した。

 谷口逸、二十八歳。弁護士。

 司法試験には、とある有名私大の法学部在学中に合格した。今は父親が代表を務める日本橋の弁護士事務所で「跡取りの逸先生」として修行中の身だ。

 逸の祖父はそれなりに名の知れた法学者で、父は有名事件の弁護も担当した経済事件に強いと評判の有名弁護士。親類縁者にも法律関係を生業とする人間がうようよしている環境で育ったためか、子どもの頃から法曹には興味があった。

 谷口一族には妙に古風なところがあり、幼少時代から誰もが父の事務所を継ぐのは三つ違いの兄の栄だと考えていた。長男、世襲――黴だらけのご立派な考えには違いない。

 その兄はといえば三百六十度どこから見てもそつのない男で、幼い頃から家の期待に応え続けた。スポーツをやらせても頭ひとつ抜けていて、成績はもちろんずば抜けて良い。我が兄ながら容姿も良い方だし、外面の良さといったら抜群だ。一見すれば穏やかで品の良い兄をひと目見た友人から「お兄さんを紹介して欲しい」と懇願されたことも一度や二度ではない。

 だが、兄の遅い反抗期は突然、しかも意外なかたちで訪れた。

 父も卒業生である中高一貫有名男子校に合格し、趣味の剣道でも全国大会に出た。誰もが周囲の期待に応え続けると信じていた兄が奇妙なことを言い出したのは、国内最難関の国立大学の文科一類に合格したその年のことだった。すぐにでも司法試験予備校に入学手続きを取るように助言する父に、兄は言った。

「父さん、俺、弁護士にはならないから。四年になったら国家公務員の試験を受ける」

 当時女子高生だった逸は偶然その場にいなかったが、ちょうど台所でお茶を淹れていた母はあまりのショックに急須を落として割ってしまったのだという。

 振り返れば高等部にあがったころから家の中での口数は少なくなっていた。だが、男の子とはそういうものだと誰もが考えていた。栄が父の――家族の意に反することをはっきりと口にしたのは、それが初めてのことだった。

 もちろん家の中は荒れた。というか父と兄の関係が荒れた。そして昭和の女を体現したような母は夫への忠誠と息子への愛情の間で苦悩した。

 弁護士事務所を家業だと信じ息子に事務所を継がせたい父は、弁護士にならないのならば学費も小遣いも差し止めると兵糧攻めを宣言したが、兄は一歩も引かなかった。とはいえ兄も根本的には甘ったれたお坊ちゃんなので、大学の授業料も小遣いもこっそり母からせしめていたのだが。

 そして長い冷戦、ときおり口論の結果、父は兄のことをあきらめた。あきらめるもなにも当の本人が一切司法試験の対策をしないのだから、どうすることもできなかったのだ。

「逸は、弁護士になる気はあるのか」

 ある日の夕食後に父がおもむろに切り出したとき、逸は内心それみたことかと舌を出した。

「そうね、父さんがどうしてもっていうなら考えてもいいけど……」

 兄への過剰な期待とは裏腹に、父も母も逸がどれほど良い成績を取ろうとほとんど関心を示さなかった。それどころかいまどき流行らない成績よりも家柄を重視するタイプのお嬢様学校の受験を勧めて、逸がそれを断り難関の女子御三家に合格したときも「女が賢くなったところで嫁の貰い手がなくなる」などと時代錯誤の言葉を口にした。

 なのにここにきて、苦労して大きくした事務所を身内に継がせるには逸を頼る他になくなったのである。ざまあみろ。

 というわけで逸は弁護士になった。

 本音では昭和の遺物のような父と働きたくはない。父が気が済むまで働いて気力体力ともに衰えたところで事務所を丸ごといただくというのが理想のプランだった。しかし長年顧問を務めている企業や個人も多いため、年月をかけて少しずつ引き継いでいくことが必要だと説得されればうなずかざるを得ない。最初の二年間だけは武者修行の名目で別の事務所に勤めたが、結局半ば泣き落とされるかたちで父の事務所に移籍してきたのだった。

「いっちゃんは、お兄さんに恨みはないの」

 はじめて家族について語ったとき恋人はそう訊ねてきたが、逸には質問の意味がわからなかった。

「恨みって、なんで私が?」

「だって、お兄さんが長男の責任から逃げたから、いっちゃんがお父さんの後を継ぐことになったんだろう」

「言われてみれば、それはそうね」

 改めて考えてみると恋人の指摘はまっとうなものだ。客観的に見れば逸は不肖の兄の身代わりにあらゆる責任を負うことになった哀れな娘なのかもしれない。でも当の本人としては不思議と悲壮感を持ったことはない。

 ぎりぎりまで我慢して突如自らに課された責任から全力で逃走を図った兄のことを情けない男だとは思う。あんなに急に強引にやらなくたって、もっと早いうちから少しずつ根回しをするとか……。だが一方で、同じ両親の元で育ったからこそ兄がどれほど慎重に準備をしたところで父子の大バトルは避けられなかっただろうとも思うのだ。

「……子どもの頃から跡継ぎプレッシャーめいっぱいかけられてるところを見てるから。むしろ肝と器の小さい兄がよくあそこまで持ったなって」

「はは、クールだな。いっちゃんらしい」

「だって、うちのお父さんの名前、ほまれっていうんだけど、その子どもがさかえいつ。もうそういうセンスからしてやばいでしょ? いつの時代の選民思想だって感じで。だから兄の立場でなかなか逆らえなかった気持ちもわからなくもないし、風除けやってくれたおかげで少なくとも私はプレッシャーとは無縁に過ごせたなって」

 兄について唯一わからないことがあるとすれば、なぜその反抗の方法が「官僚になる」ことだったのかという点だ。弁護士などしょせん法に使われる立場だなどとわかったようなことを言っていたが、だったらいくら立法に携わるとはいえ結局は立法府の言いなりである役人でなく素直に政治家を目指せばいい。もしくは裁判官になって判例を作るという方法だってある。

 妹の立場からの勝手な想像ではあるが、兄はただ父親の跡を継がされる可能性を徹底的に潰したかったのだろうと思う。裁判官だろうが検事だろうが法曹であれば両親の中には「いつか弁護士になって事務所を継いでくれるのではないか」という期待がくすぶり続けただろう。だからそんな期待を完全に潰した上で――それでも幼少時から植えつけられたエリート意識や生真面目さは消えないから、公務員を選んだ。

 商社マンになった栄、広告業界で働く栄、外銀勤務の栄、想像するとどれもしっくりこない。頭の中はいまだに昭和真っ盛りの親のもとで化石的価値観を内面化させてしまった哀れな兄は、民間に就職するとしたらせいぜい手堅くインフラ系。いや、やはり公務員がお似合いだ。

 ちなみに兄の代わりに父の後継ぎとなった逸が窮屈な思いをしているかといえば、実はそうでもない。栄が公務員のまま三十路になりここから法曹に鞍替えすることは難しいとなれば、両親に残された希望はもはや逸しかいないのだ。つまり、谷口家本家の最後の希望を託された娘の機嫌を損ねるわけにいかない両親に対して逸の立場は圧倒的に強い。

「だから、父さんも私には何も言えないの。まあ人並みの説教くらいはするけど、あんなの念仏と同じよ」

 兄の変心は少なくとも谷口家の兄妹にとってはウィンウィンの結果になったと言える。

 ひとつだけ逸に課された使命があるとすれば、最近ようやく解消したものの三十路になるまで学生気分で友人とルームシェアなどして一切身を固める気配を見せない兄に剛を煮やした両親から向けられる結婚出産への期待くらいだ。

 別に兄がいずれ結婚して、その子どもが弁護士になりたいというならば逸としては父の事務所を渡すことに異論はない。もちろん顧客の一部くらいはいただくが、数十年先の自分ならば独立して新たな事務所を立ち上げてもそう困らないくらいの経験は積んでいるはずだ。

 だがもしも兄の子も弁護士業に興味を示さない、もしくは兄が未婚を貫くのであれば話は別だ。というか栄への信用を完全に喪失している父はそちらのシナリオを思い描いている。

「あなた、『谷口』になるのは嫌?」

 そう告げてから逸は、恋人の顔をじっと見た。

「親と同居しろなんて言わないし、あなたの仕事が忙しいのもわかってる。名字さえ谷口になってくれればあとは適当にやるだけなんだけど」

「俺は別に構わないよ、三男だし、親もそういうとこ気にしないだろうし。っていうかいっちゃんそこまで考えてくれてるんだ」

 思いつきの出任せに対してプロポーズを受けたかのように顔をほころばせる恋人は単純な男だが、そこが良いところだと思う。親に気を遣い人にいい顔をして結局自分をすり減らす、そんな面倒くさい男など身内にはひとりで十分だ。

 *

 ちなみに今日、逸が大急ぎで中抜けをするのは恋人とのディナーのためだ。明日の朝には海外出張に向かう彼はそのまま年末まで戻らない。

「クリスマス前のこの時期に海外出張なんて珍しいよね」

「キリスト教圏以外はあんまり気にしないところも多いよ」

 言われてみればそんなものなのかもしれない。そもそも正月の時期だって、地域や宗教によっては異なっている。そして、キリスト教国と違って日本ではクリスマスが恋人たちのイベントと化しているのもまた事実なのだ。

 逸はイベントにはこだわらない方だが、せっかく付き合っている恋人がいるならば適度に世の中の流れに乗ったほうが楽しいと感じる程度の協調性はある。なので彼が出張に出かける前に一足早いクリスマスディナーをの約束をした。もちろんプレゼントも準備してある。というかそれこそがこんなにも急いでいる理由だ。先日デパートで一緒に選んだジャケットは、ぴったりくるサイズが現品しか残っていなかった。恋人はそれでも良いと言ったが、いざ会計をしようという段階になって袖口にほつれを見つけてしまい結局他店舗から取り寄せてもらうことになったのだ。

 今日を逃せば恋人とも年明けまで会わないかもしれない。だからディナーの前に絶対にジャケットを受け取りたくて、逸は地下鉄に飛び乗った。

 取り寄せたジャケットを無事受け取ると時計は五時過ぎ。恋人は明日は早朝出発なので今日は早めに解散できるようディナーの予約は六時にしてある。レストランに直行するには早すぎるので本屋にでも寄ろうかと思いつつ、逸はメンズ衣料を扱う別館の地下に降り、連絡通路経由でデパートの本館に移動した。

 まるで別世界のような食品売り場の喧騒や、食品の見栄えを気にしての白っぽく明るい照明に目を細めたところで携帯電話がなった。相手は恋人だった。

「もしもしいっちゃん? 俺ちょっと早く着いたんだけど、もしもう新宿にいるなら待ち合わせていかない?」

「いいよ。今、伊勢丹の食品売り場。食事の前にちょっと本屋に寄ってもいい?」

「もちろん。俺は今地下鉄出たとこだから、連絡口……『とらや』のところの入り口でいい?」

「わかった」

 電話を切ると逸は洋菓子売り場を抜け、惣菜売り場から和菓子売り場へ向かう。そのとき――奇妙なものを見た。

 なにげなくすれ違った男の姿に見覚えがあるような気がした。クリスマス前のデパ地下は混み合っていてふり返るともう後頭部しか見えないが、あのチェスターコートにも覚えがある。正月に実家に呼び集められたときに、兄が着ていたものとよく似ているのだ。

 その隣には、いくらか背の高いもう一人の男。ダウンジャケットを着て仕事仲間というにはあまりにカジュアルな装いの男と「兄と似た誰か」は、親しさとよそよそしさが絶妙に入り混じった、例えるならば学生が初めてデートするような距離を保って洋菓子やワイン売り場の方角へ歩いていった。

「いっちゃん!」

 ぼんやりと人の波に消えゆくふたりを眺める逸にきづいたのか、恋人が名前を呼ぶ。はっとした逸は笑顔で声のする方向を振り返った。

「どうしたの、ぼんやりして」

「あ、ううん。ちょっと……兄に似た感じの人がいたから」

 笑いながら首を振って、それでも目にした光景をまだ気にしている。だってそれは、今ここにいるはずのない人間の姿だったから。

「でもお兄さん、今年は帰国しないって言ってなかった?」

「うん。そう。だから多分他人のそら似だと思う」

 なんだかんだと真面目で律儀で、日本にいれば正月にある親族の集まりを無視することができない栄。だから今年は海外赴任を言い訳に帰国しないことにしたのだ。その栄がこの時期に日本にいるわけはないし――しかも男と平日の夕方にこんなところを歩いているはずはない。

 逸は自分にそう言い聞かせて、さっき見た光景は忘れることにした。

 

(終)
2019.12.18-12.20