未生×尚人のほのぼのSSです。付き合いはじめて半年後くらい。タイトルは「ミミカキグサ」の花言葉より。
「……疲れた」
風呂から出てきた未生の声には言葉通り、濃い疲労がにじみ出していた。栄ほど神経質ではないが、今どきの若者らしく外見に気を遣う彼は普段ならきっちり髪を乾かしてから出てくるのに、珍しくまだ襟足のあたりが湿っている。つまり尚人の気を引くために大袈裟に振る舞っているというわけでもない。
「何か冷たいものでも飲む?」
「じゃあ、水くれる?」
床に置かれたクッションの上に、糸が切れたように座り込む未生を横目で見ながら尚人は立ち上がった。
うなぎの寝床のように細長い部屋からドア一枚隔てて、やはり細長いキッチン。典型的な学生向けアパートの小さな冷蔵庫から浄水機能付きのポットを取り出す。月に一度ほどのフィルター交換は必要だがミネラルウォーターを買うよりは安上がりだと思い尚人が買ってきたものだ。
日曜の夜、尚人は未生の暮らす千葉のアパートにいる。
朝まで居酒屋でのアルバイトに精を出した未生が土曜昼前に都内の尚人のマンションにやってきて、そのまま日曜の夕方まで一緒に過ごすのが二人の通常の週末なので、尚人が未生の部屋にいるのは珍しい。
大学の後期試験を終えた未生は、春休みが始まったばかりのこの一週間、房総にある介護施設に泊まりがけでボランティアに出かけていた。
「俺、試験が終わったら一週間ボランティアで留守にするから」
電話で報告を受けたときは正直驚いた――と同時に、いくらか落胆した。というのも尚人は未生の試験が終わって久しぶりに一緒に過ごすことができるのを待ち望んでいたからだ。
今年の年始、尚人は九州に里帰りした。二年連続正月を実家で過ごすなんて、大学進学のため東京に出てきて以来はじめてのことだった。
上京して最初のうちこそホームシックに悩まされ尚人だが、新しい生活に慣れるにつれて実家に戻る機会は減った。とりわけ交通費も高い上に親類が集まる盆正月は、あえて帰省を避けていたといっていい。子どもの頃から人見知りで大人数が集まる場所は好きではなかったが、大学に合格してから尚人は前にもまして親戚の集まりを苦手だと感じるようになった。
親類たちにとって国内最難関大学に現役合格した尚人というのは「子どもの頃からよく知っている尚人くん」であると同時に手の届かない場所に行ってしまった遠い存在でもあったに違いない。おだてられつつ気を遣われるのは気疲れするばかりだから、何かと理由をつけて冠婚葬祭すら可能な限り欠席した。そのくせ博士論文を提出しないままに大学を去ることを決めた後は一転、挫折を知られることへの気まずさも感じていた。
栄と別れて手持ち無沙汰になった昨年の正月、尚人は久しぶりに実家に顔を出した。そして、ただの一度も寂しいそぶりは見せなかったのは両親の強がりに過ぎなかったことに気づいた。だから未生をひとりにすることに罪悪感を覚えつつ、今年も両親の期待を裏切ることができなかった。
正月が終われば大学はすぐに後期試験モードに入るから、未生を勉強に集中させるための「禁欲期間」を設ける必要があった。つまり尚人と未生は一ヶ月近くも顔を合わせることなく過ごしていたのだ。
「……本当に来てるって思わなかった」
グラスを受け取りながら未生は言う。
「どうして? 着いたってメッセージも送ったのに」
「でも明日仕事だろ? ここから行くの大変じゃん。総武線の東京方面、けっこうラッシュきついみたいだし」
そう、研修を終えて未生が戻ってくるのは日曜夕方。さすがに居酒屋のアルバイトは休むことにしているが、明日からはすぐに春休み限定での昼間バイトが始まる。もちろん尚人だって仕事だ。ほんの半日に満たない時間のためだけに尚人がここに来ることを、未生は疑っていたことは寂しくもあり、微笑ましくもある。
「来るに決まってるじゃない、僕だって未生くんに会いたかったんだから」
「まじで? 嬉しい」
ストレートな喜びの言葉に、尚人の顔もほころんだ。
ずるずると姿勢を崩しほとんどクッションに肘をついて寝そべるような姿勢になった未生の頬に触れると、見上げてくる目の周囲にうっすら隈ができていることに気づく。
「すごく疲れたんだね。きつい仕事だった?」
「慣れないことばかりだったし、夜中もけっこう起きてたからな。せっかくだから夜の巡回とか、どんな感じか気になって連れて行ってもらったり。まあ資格も何にもないボランティアだから、役には立たないんだけどさ」
尚人が未生のボランティア参加を聞いて驚いたのは寂しさだけが理由ではない。あれだけアルバイトに血道を上げる苦学生の未生が一週間もシフトを離れて一銭にもならないボランティア――それどころか現地までの交通費は実費負担だ――というのが何より意外だった。ボランティア実績が単位に加算されるにしたって、そもそも今の大学に再入学して以来ずっと真面目に講義に出ている未生の単位は十分に足りている。
だが未生は言った。自分は二年間回り道をしているし、世の中を知らない。将来看護師を目指すのならば思うように体が動かない相手の介助をするだろうし、もしかしたら介護施設で働くこともあるかもしれない。看護実習はどうしても病院中心になるだろうから、今のうちに少しでも広い世界を見ておきたいのだと。
「あれ聞いたとき、僕、感動してちょっと泣きそうになったんだよ。あの未生くんがこんなに立派なことを考えるようになるなんて……」
思い出しただけで目頭を熱くする尚人に、しかし未生は不服そうだ。
「は? なんかそれ馬鹿にされてる気がするんだけど」
もちろんそんなつもりは毛頭ないのだが、どうやら尚人はたまに意図せず未生の機嫌を損ねるようなことを口にしてしまうことがあるらしい。あわてて否定した。
「で、どうだった? 介護の仕事は大変だっていうじゃない」
「そうだな。給料も高くないし、人も足りてなかった。かといって人の命が絡むこともあるから緊張感はなくせないし。俺はたった一週間だったけど、あの環境でずっと働いてる人たちはすごいよ。年取ると、まじでちょっとしたことも自分じゃできなくて介助が必要なんだよな」
話しはじめると未生は勢いづく。そういえば彼は母親と暮らしているときは他の親族とは没交渉で、父親に引き取られてからは感情的なしこりから帰省に付き合うこともなかったようだ。祖父母と触れ合った経験がないということはつまり、高齢者自体に馴染みがないのかもしれない。
「立ち上がるのが大変だとか、風呂にひとりで入れないとかはわかってたけど、年寄りって水飲むのもやばいって知ってた?」
「気管に入りやすいんだっけ?」
「そう。だから水もお茶も、とろみの素っていうの? 混ぜ物してどろどろにするんだよ。あれじゃ飲んだ気がしないよな。それにちょっとした……爪とか耳かきとか」
「ああ、確かに自分じゃできないよね。未生くんも手伝ったの?」
何気なく問いかけると、未生はとんでもないという顔で首を左右に振る。
「まさか、他人の爪とか耳とか絶対無理。俺、怪我させる自信あるもん」
尚人は思わず苦笑した。看護師を目指そうと言うのに、爪切りも耳かきも「絶対無理」だなんて。それでは仕事にならないではないか。
「だったら、患者さんの注射とかもっと怖いだろ」
「いや、まあそれは将来練習するとして……。それにしても耳とかよく他人に任せられるよな。鼓膜突き破られたらどうしようとかって思わないのかな」
痛みを伴う想像に顔をしかめる未生をみて尚人は笑った。かつては憎らしいほどふてぶてしくて、今は年齢以上にしっかりして頼れる未生。こんな臆病な一面があるだなんて。
「……信頼してる人なら大丈夫なんじゃない?」
その言葉は未生を安心させるためのものだったが、もしかしたら正しい選択ではなかったかもしれない。尚人は幼い頃、母親に耳かきをしてもらっていた。一度も怖いと思わなかったのは母に全幅の信頼を寄せていたからだし、何より尚人は母の温かい膝が好きだった。でも未生にはそういう経験すらないのかもしれない。だから尚人は、言った。
「ねえ未生くん、お互いに耳かきしない?」
「は?」
未生は驚いた声をあげるが、尚人はそれを無視して物入れの中に入っている竹製の耳かきを取りに立ち上がる。
「一回経験してみれば怖くなくなるかもしれないし。先に僕が君の耳かきするから、次に未生くんが僕にやってよ。ね!」
「えー……」
渋りつつ、耳かきを手に尚人が床に座り自分の膝を指で示すと、未生は満更でもなさそうにずるずると近づいてきた。
尚人の膝に頭を預けて、未生は照れ隠しのように口を開く。
「なんかこういう風俗みたいなのあったよな」
「変なこと言わないで」
膝を撫でる手をぴしゃりと跳ねのけて、尚人はぎゅっと竹製の細い棒を握り締めた。実は尚人も他人の耳かきをするはじめてだ。だが未生を不安がらせたくないので黙って平静を装う。
「強すぎたり、痛かったりしたら言って」
「うん」
横たわる未生の体に力が入っているのが微笑ましい。普段のスキンシップといえば未生が主導する側だから、受け身で緊張している未生というのは貴重に思える。尚人は左手で未生の耳たぶを引っ張って中がよく見えるようにしてから、右手に持った耳かきをそっと小さな穴に差し込んだ。もちろん普段自分の耳掃除をするときよりもずっと弱い力で。
ゆっくりと丁寧に内耳を内側をなぞるうちにに未生の緊張もほぐれてきた。思っていた以上に他人の手による耳かきは気持ちよかったらしい。
「やべ、なんか勃起しそう」
「馬鹿なこと言わない! ほら、反対」
右耳をきれいにしたところで反対を向かせて、今度は左耳。未生の表情が見えなくなる。軽口を叱ったせいか、後半の未生は極めて大人しくしていた。いや――それどころか。
「未生くん、終わったよ。次は交代で君が……」
と言ったところで、尚人は未生がすやすやと寝息を立てていることに気づく。疲れているところに心地よい体温と刺激。いつのまにか眠りに落ちてしまっていたのだ。
「ねえ、寝るならベッドに行ったほうが」
呆れながら肩を揺さぶりかけるが、やはりやめておく。未生に膝を貸した状態のまま身動きできないのは困るが、まあ三十分や一時間くらいは我慢しよう。
あんなに怖がっていたくせに、耳の中を触らせながら眠ってしまうなんて。でも、これも「信頼関係」だと思えば悪い気はしない。何より尚人の膝で眠る未生なんて、貴重すぎる。これもほんの半日足らずの逢瀬のために駆けつけたことへのご褒美なのかもしれない。
尚人は笑いをこらえながら手を伸ばし、ベッドの上の毛布を手繰り寄せると未生の体にかけてやった。
(終)
2020.02.11