羽多野×栄の番外「尺には尺を?」の前日譚です。羽多野が栄へのお仕置きを決意するきっかけ。
夕食と風呂を終えてベッドに行くまでの短いリラックスタイム、羽多野は配信サービスでアメリカのドラマを観ている。個人的には政治ドラマなど興味がないのに――政治のアレコレなど現実だけでお腹いっぱいだ――「英語の勉強になるかも」と、この作品を観たがったのは栄だった。にもかかわらず隣に座る恋人はすでにテレビ画面への興味を失いスマートフォンで経済ニュースをチェックするのに夢中だ。
まったく、二人でいるとき限定とはいえ栄のわがままと気まぐれは徹底している。
こういうとき彼の元恋人である「おひなさま」こと相良尚人であればひと昔前の大和撫子のように三歩下がって、栄のやることなすことを尊重していたのかもしれない。だがあいにく、羽多野はそういうタイプではなかった。
ドラマも観ずにつまらないニュースを読むくらいならば、恋人同士の夜にはもっと適した過ごし方がある。もちろんそれは羽多野にとっては極めてつつましいものなのだが。
ひと月ほど前に羽多野はロンドンのシンクタンクでの勤務を開始した。担当は日本をメインに東アジアの政策情報を収集、分析することだ。十年近い議員秘書生活で、しかもその大半は政策秘書。腕に覚えがないとは言わないが、秘書業と研究員では勝手が違うのもまた事実だ。しかも韓国や中国の情勢についてはかじった程度の知識しかない。ここのところは仕事と勉強に忙殺される日々で、言葉に出さないながらも「落ち着くまでは平日のセックスは厳禁」を自らに課している。
とはいえストレスの溜まる新しい環境、一緒に暮らす恋人に多少なりともいたわりや癒しを与えて欲しいのも事実。セックスとまでは言わないものの、ちょっと体に触って、ちょっとキスして――あわよくばその肌のにおいと味を確かめるくらい。
羽多野に半分背を向ける体制でスマートフォンを覗きこんでいる栄ににじり寄って肩に手を回すと、あからさまに避けられる。この程度は織り込み済みだから、逃げる体を追いかけると肩でなく腰を抱いた。こちらに視線さえ向けることなく手を振り払らわれたので、今度はがっちりと腰に両腕を回すとスウェットの裾から手を忍ばせて腹を撫でながら首筋にキス――。
と、振り向いた恋人は憎々しげに言い放った。
「やめてください、こういうの」
いつものことだと冷静に受け止めようとしつつ、拒絶の言葉が心地よいはずもない。そもそも恋仲の二人が一緒に暮らしていて、カウチでくつろいでいる状況。ここでちょっと手を出したくらいで叱られるというのは理不尽ではないだろうか。
「……こういうのって?」
そう聞いたのは皮肉でも嫌味でもなく、本当に意味がわからなかったからだ。すると栄は身をよじって羽多野の抱擁を振りほどきながら言った。
「なんていうか、普通にテレビ観たり本読んだりしてるときにベタベタしてくるの」
――答えを聞いても意味がわからない。
「いや、普通のことだろ。別にセックスしようってつもりじゃなんだから、ちょっといちゃつくくらい……」
わざわざ「セックスするつもりはない」と明言してしまうことは我ながら情けないし、過去の羽多野ならば決してこんなことは言わない。しかし今ではこの気難しい王子にお仕えすると膝をついて誓った身である。理不尽でもなんでも、栄が気まぐれに与えてくれる恩寵を頼りに耐え忍ぶしかないのである。まあ、もちろんそれもベッドに雪崩れ込むまでの話だが。
食い下がる羽多野に、栄は気まずそうに視線を逸らして「そうかもしれないけど」とつぶやく。
「だったらどうして」
これがセックスできない平日の夜の、恋人同士の軽いスキンシップであることは栄も認めた。だったらどうして拒むのか。にじりよる羽多野に、栄はきっぱりと言った。
「……気持ち悪いです」
「は?」
思わず真顔になったし、硬直もした。折々に予想外の爆弾発言やら暴言を繰り出してくる栄だが「気持ち悪い」というのは少なくとも相思相愛を確かめて以来初めてではないだろうか。
栄の態度は妙で、この上なく残酷な言葉を吐いているのに、はにかむような表情があまりにもミスマッチに見える。しかしその意味を冷静に分析している場合ではない。いくらなんでも「気持ち悪い」はないだろう。
「正気のときにあなたにくっつかれたり押し倒されたり……その」
栄の好意を知らなかった頃よりも欲張りになっている自覚はある。昨秋までの羽多野だったら栄のこのような放言も適当にいなしていたのかもしれない。――だが、ごくまれに甘やかされる蜜の味を知った羽多野の導火線は明らかに以前よりも短くなっていた。
「舐められて咥えられて、あんあん喘いで、あまつさえ尻犯されて射精するのが?」
思わず口に出した言葉に栄の顔が真っ青になり、それから真っ赤に染まる。と同時にカウチの上にあったクッションを取り上げると羽多野の顔面、ピンポイントに鼻と口のあたりを狙って強く押し付けて来た。
「――死ね。死んで黙れ!」
一切の容赦のない動きは、本気で命を狙っていると言われれば信じてしまいそうなほどだった。クッションごときでも本気で酸素の出入り口を塞がれれば人が死ぬことは羽多野だって知っている。
「……そんなに怒るなよ、冗談だってば」
なんとかクッションを顔から引き離してから、羽多野は咳き込みながら謝罪に近い言葉を口にした。「ごめん」を言わなかったのは、この不毛なやりとりのきっかけを作ったのが栄だと思っているから。確かにお上品な栄に露骨で下品な言葉を投げつけたのは悪かったが、でも――。
栄も多少は自身の態度を反省してはいるのか、二度目のクッション攻撃は襲ってこなかった。疲れたようにカウチの背にもたれかかり、言う。
「正気のときにそういう状況になると発狂したくなるんですよね」
しみじみとつぶやかれた言葉に、どこから突っ込んでいいのかわからず羽多野はため息をついた。
要するに栄は「平常心のときに恋人っぽいアクションをとられると恥ずかしくて死にそうになる」と言いたいのだろう。出会って二年、半同棲歴通算半年で、そのくらいの「栄語」は理解できる。とはいえ、三十路のカップルのスキンシップにこの過剰反応はどうだろう。
「ったく、あきらめ悪いなあ」
ぼやきながら羽多野は栄の言葉を反芻する。少なくとも羽多野との関係においては、どう考えたって栄には「抱かれる適性」がある。いくら否定したってその事実は揺るがないのに、プライドが高く精神的マッチョの権化である彼はこだわらずにはいられない。そこに抜け道があるのだとすれば。
――少なくとも正気のときは
確かに栄はそう言った。つまり「正気でないとき」であれば発狂もしないし、それなりの対応をするということ……と受け止めて差し支えないだろうか。
酒を飲むと警戒が緩むことは知っている。そして、いったんベッドになだれこめば優位なのは羽多野だということも。――なにしろ賢く世馴れた谷口栄は、お上品すぎる出自と理性を重視しすぎる性格のせいでセックスについては驚くほど経験値が低いのだ。
羽多野は週末までの夜の数、三本の指を折って決意を固める。そこまで言うなら次の機会は存分に正気を奪って差しあげようではないか。
(終)
2020.03.04