STAY SAFE, STAY HOME


「心を埋める」未生×尚人です。「心を埋める」シリーズは現実世界の時間軸とリンクしていません(改元もBREXITもスルー)ので、外出自粛ネタのこちらは「IF」としてお楽しみください。


 日差しが窓越しにさんさんとリビングに注ぐ、美しい春の午後。本当ならば弁当でも買って和田堀公園にでも足を伸ばしたいところ――ではあるのだが、そうもいかないのがここのところの世相である。

「授業中は絶対に、ドアを開けちゃだめだからね!」

 尚人なおとはそう言って、珍しくも本人なりに精一杯の凛々しい顔を作って正面からこちらを見据えてくる。何度繰り返されたかわからない言葉に未生みおはすっかりうんざりして、おざなりに首を縦にふった。

「わかってるってば。っていうか尚人、それ何回言えば気が済むの? どんだけ俺、信用がないんだよ」

「えっ、そんなに何度も言ってるかな?」

 わざとらしい失望をにじませた未生に、ぱっと尚人の顔色が変わった。素直な彼はきっと、強い言葉を使い過ぎて年下の恋人を傷つけたのではないかと不安に駆られているのだ。

「……いや、未生くんのこと信用はしてるんだよ。でも、もしも。もしうっかり、ってこともあるから、念のため……」

 しどろもどろに言い訳を繰り返す尚人を眺め、未生は笑いを噛み殺しながら時計を指さした。

「ほら尚人、あと三分で開始。Zoomの接続大丈夫?」

「えっと、……うん、ちゃんとミーティングに入れたから大丈夫だと思う」

 テーブルに置いたラップトップの前に座り、尚人は緊張した面持ちでひとつ咳払いをした。

 未生は「じゃあ、俺も授業あるから。またな」とひらひら手を振って、リビングの隣にある寝室に入り引き戸を閉じた。

 未生が当面の生活に必要な大荷物を持って尚人のマンションにやってきたのは先週末のことだ。理由は言うまでもない、数ヶ月前から世界中で猛威をふるっている新型感染症。

 じわじわと数を増やしてきた日本国内での感染者や死亡者数が、ここのところうなぎのぼりで、世の中は不安と警戒の空気に満ちている。一部外国のように強制的な都市間移動封鎖が行われることはなさそうだが、テレビは緊急事態宣言が出るとか出ないとかの話題で持ちきりだし、世の中は完全なる「不要不急の外出は自粛」モードだ。

 未生の通う大学も原則立ち入り禁止となり、新年度の授業は当面のあいだすべてオンラインで行うこととされている。アルバイト先の居酒屋も、緊急事態宣言に伴う営業自粛に備えて、数人の正社員を除く全スタッフのシフトを白紙にした。

 自称苦学生の未生にとって、アルバイト収入が途絶えるのは痛い。とはいえ苦学生の前に「自称」が付くのは、未生が学費と生活費を自力で賄おうとしているのはあくまでプライドや父親への反抗心の問題に過ぎないからだ。事実、新型感染症の話題が広がりはじめてすぐに継母である真希絵まきえから「飲食業のアルバイトはやめた方が良いのでは」と心配する電話があった。もちろん、授業料や生活費に困ったらすぐに連絡するように、という一言も付け加えられた。

 本当の意味での経済的な不安とは縁遠い、という意味で自分は恵まれているのだろう。そう思う反面で、やはり真希絵にも――その背後にいる父親にも――頼りたくないのが本音だ。通帳の残高を気にしているときに尚人が手を差し伸べてきたのは、まさしく渡りに船だった。

「大学の授業が再開するまで、うちに来る? 少なくとも光熱費や食費はふたりでいたほうが節約になるし。それに……そろそろ県境をまたいだ移動への目も厳しくなってきているから」

 保菌者の移動を防ぐために都市部から地方への帰省はすべきではないと言われている。近県と都内の移動についても自粛の要請がなされる中で、生真面目な尚人が未生を呼び寄せることには躊躇もあったはずだ。それでも、このまま事態が好転しなければ会えない時間は長くなるばかりだ。

 移動するなら今が最後のタイミング。というわけで未生は尚人の部屋にやってきたのだった。

 まだヒヨッコとはいえ看護学生である未生は、衛生面にはそれなりに気を遣っているつもりだったが、尚人の生真面目さは感染症対策にもいかんなく発揮されていた。玄関にはアルコールジェル、洗面台には手洗い時間を計測するためのキッチンタイマー。やたらとキュートなキャラクターがプリントされた布製マスクは生徒の母親からもらったのだという。

「これ、着けて歩いてんの?」

「外ではさすがに控えてるけど、授業のときにはありがたく使わせていただいたよ」

「ふうん、ずいぶんんだな。しかも手作り」

 もちろん、そんなささやかな棘に気づくような相手ではない。尚人は自分で作ったわけでもないマスクを手に誇らしげに笑った。彼にとってはこのマスクは「生徒の保護者からの信頼の証」に他ならないのだろう。

「……田中さんのお母さん、これを機にミシンを買い換えて親戚やお友達の分もたくさん作ってるんだって。未生くんも欲しいなら、僕から頼んでみようか?」

 ――もちろん未生が言いたいのはそういうことではなかった。

 付き合いが長くなるにつれてわかってきたことだが、同世代から「面白みに欠ける真面目くん」扱いされる尚人は、穏やかで落ち着いた雰囲気や清潔感のせいか、母親世代や子どもからの評価は高い。

 家庭教師先で押し付けられたのだという手芸品や手作りお菓子を持ち帰ることは頻繁で、バレンタインに未生より多くのチョコレートをもらってきたのは記憶に新しいところだ。所詮相手は子持ちの主婦や小中学生なので、まともに嫉妬するのもばかばかしいと思いつつ、尚人の部屋に可愛らしいプレゼントを発見するたび未生の心は密かにざわめくのだった。

 状況が状況だけに不謹慎な感情だとわかっているが、それでも手作りマスクにはイラッとするし、降って湧いたプチ同棲生活には心躍る。実に複雑な状況だ。

 デートはできない。「お店を混雑させちゃいけないから」というもっともな理由で買い出しも交代制。しかし出会って以来こんなに長い時間を尚人と過ごすのは初めてのことだった。

 ちょうど今週から尚人も完全に在宅勤務になった。家庭教師や不登校サポートの業務は半月ほど前から徐々にウェブ経由に移行しつつあったが、これまでは試行段階ということもあり授業を行うたびに家庭教師事務所に出向いていたのだという。しかしいよいよ状況が切迫し、事務所代表の冨樫は全スタッフのテレワーク、遠隔授業を決定したのだという。

 自宅のパソコンからウェブ会議システムにつなぐのは初めてだと緊張していた尚人を手伝ってやると「未生くんがいてくれてよかった」といたく感謝された。T大の博士課程まで進んだ優秀な尚人だが、機械関係はあまり得意でないらしい。珍しく尚人に物を教える側に立ち、未生は誇らしかった。

 未生の授業にもインタラクティブな要素はあるし、尚人の仕事は生徒と一対一。同じ部屋にいるわけにもいかないので、日中は尚人がリビング、未生はキッチンか寝室を使うことに決めた。テーブルと椅子があるキッチンの方がパソコンを使った作業には適しているのだが、いかんせんこのマンションのキッチンは窓が小さく昼間でも薄暗く肌寒い。未生は、日当たりの良い寝室で大学の講義を受けることにした。

 小さな折りたたみテーブルを通販で頼んだが、到着までは十日ほどかかるらしい。しかしベッドにラップトップを置いて床に座れば、まあ我慢できなくもない。

 このような状況は誰も予想できていなかったのだから仕方ないのだが、大学側の体勢も急ごしらえ。講師側も自宅からの参加ということもあり、回線トラブルはもちろん、特に年配の教授の講義ではうまくビデオ通話が使えず予定通りの内容をこなせないことも多い。まだまだあらゆる面で手探りだ。

 午後の講義の開始に合わせてヘッドセットをかぶる直前に、未生は隣の部屋にそっと耳をすます。一足早く授業をはじめていた尚人の落ち着いた柔らかい声――子どもを相手にしているせいか、未生と話すときよりもずっと優しくて甘く響く。

 ラップトップに講師の顔が映り、続いて画面がスライドに切り替わる。わかっている。自分は学生で、本分は勉強で、今はスクリーンの中の授業に集中しなければいけないことを。しかし、隣の部屋から聞こえてくる、普段聞くことのできない「相良先生」の声はあまりに強烈な誘惑だった。

 ――どうせすぐに慣れて、これも日常になる。だから今日だけ。

 欲望の前に白旗を掲げた未生はヘッドセットを床に置き、画面録画のボタンを押した。

「うん、そうなんだ。しばらくおばあちゃんに会いに行けないの、寂しいね……あれ、膝にジョニーが座ってる? ふふ、なっちゃんがおうちにいるから嬉しくてたまらないんだ」

 授業前のスモールトークなのか、尚人の声の合間に少しくぐもった少女の声が聞こえてくる。聞いたことがある、「ジョニー」という名前のトラ猫を飼っている「なっちゃん」は中学一年生の少女。尚人の授業を受けるようになって二年目。

 未生は床に座り、ベッドに頭をもたげて、うっとりと尚人の声に耳を傾ける。普段聴くことのできない声色というだけではない、普段なら決して入り込むことのできない領域を少しだけ覗いているのだという背徳的な喜びと、小指の先ほどの醜い嫉妬。

 あんなふうに話を聞いて、寄り添ってもらって、優馬が尚人に懐いた気持ちも理解できる。多感な時期、家庭や学校で悩みを抱えるローティーンの頃に尚人みたいな先生に出会えた子どもたちがうらやましい。もし自分にそんな出会いがあれば――。

 日当たりの良い部屋でふわふわの布団に頭を預け、甘ったるさと寂しさを胸に、未生はいつの間にかうとうとしていた。

*  *  *

 はっと目を覚ましたのは、ドアが開く音がしたから。続いて響いてくるのは呆れた声。

「未生くん! なんか静かだと思ったら……何やってるんだよ」

 顔を上げると、そこには尚人。いつの間にか授業が終わっていたのだ。そして未生はといえば、すっかり画面が暗くなったラップトップの横に頭を投げ出して、完全に寝入っていた。

「いや、尚人。違うんだって。普段は俺、すっげえ真面目な学生だし授業もしっかり聞いてて……」

 慌てて言い訳を紡ぐが、尚人は疑わしげだ。

「本当に……? ヘッドセットもしてないようだけど」

 講義を聞く気もなかった証拠を押さえられ、未生は観念した。でも普段は真面目な学生だというのは嘘ではない。こんなことは今日だけで、それもこれも。

の声に聞き惚れちゃってさ」

 正直な気持ちを口にすると、尚人の顔がさっと真っ赤に染まった。どこまでもわかりやすい。

「ば、馬鹿なこと言わないで……そんな言い訳でごまかされないからな」

 真面目でお堅い「先生」の顔が一瞬で「恋人」に戻る、手を伸ばして抱き寄せて、キスしたいのが正直なところだが、未生も尚人もまだ授業が残っている。ワーキングタイムにいちゃいちゃするのはさすがにまずいだろう。

「今日は俺が買い物に行くよ。夜も何か作るから」

 さぼりの現場を抑えられた失点を回復しようと、未生は夕食当番を申し出る。まだ少し照れた表情を残した尚人は唇を尖らせて、未生の思惑などお見通しなのだと年上の顔に戻ろうとした。

「そんなところでがんばってくれるより、ちゃんと授業聞いて勉強して欲しいなあ」

「わかってるって、さっきの講義も録画してるから、あとでちゃんと自習するよ」

 禍福はあざなえる縄の如し。

 この不自由な世界でも、ちょっとした日々の幸せを探そうと思えるのは、尚人が一緒にいてくれるから。生真面目な恋人のことだからきっと「普段のペースを崩したくない」などと言って夜のお誘いにも渋い顔をすることだろう。もちろん毎晩寄り添って眠れるだけで幸せではあるが、まあ様子を見ながらウィークデイにも一度くらいは。

 そんな下心を心に育てつつ、未生はレシピサイトを見ながら夕食の献立を考える。買い出しのついでに、尚人の機嫌をとるために甘いものでも買ってこようか、なんてことを考えつつ。

 

(終)
2020.04.26


※未生の寝落ちを書くのは多分3度目? ワンパターンですが寝る子は育つ、ということで大目に見てください(笑)。

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