仕事を終えたトーマス・カニンガムが帰宅すると、最愛の恋人アリスは膝に抱いた飼い猫のリリィにブラシをかけながらテレビを眺めていた。市内の病院で看護師として忙しく働いているアリスだが、今日は夜勤明け。昼間にゆっくり休んだのか顔色も良くくつろいだ様子だ。
「ただいま」
アリスは手を止めて振り返り、ブラッシングの終了を察したのかリリィはひらりと床に降りてお気に入りのキャットタワーに駆け上った。キッチンからは煮込み料理のいい匂いが漂ってくる。どうやら夕食の準備まで済ませてくれているようだ。
こんなときトーマスは、自分は世界一運が良く幸せな男であると確信する。
友人のパーティで出会ったときには、こんな美女が自分に振り向いてくれるとは思わなかった。すらりと長身で美しいブロンドを背中に垂らしたアリスは、その場でも誰より目立っていた。
トーマスは名の知れた大学を出ているとはいえ専攻はマイナーな日本語。日本経済が世界中を席巻していた時代ならいざ知らず、今ではその影響力は往時ほどではない。英国の大学からも日本語学科が減少しつつある中「オタクカルチャー」に興味があるわけでもないのに熱心に日本語を学ぶトーマスは友人たちからは変わり者だと見なされていた。留学を経て在英日本大使館に職を得てからは少しは見直された気もするが、シティの金融マンや大手IT勤務の友人たちと比べれば地味な仕事には違いない。
だがアリスはなぜかトーマスに興味を持った。その場で連絡を交換してから何度かデートして、当たり前の流れで恋人として一緒に暮らすようになったのは一年半ほど前だ。そろそろ二人の間では結婚の話も出ている。
その愛しい恋人は、トーマスを見るなり期待に満ちた顔で言った。
「ねえ、例の話、サカエにした?」
トーマスは一気に現実に引き戻される。
大使館の同僚というか力関係的には上司に当たる谷口栄と、その「友人」である羽多野貴明。アリスが彼ら二人を誘って食事に行きたいと言い出したのは数日前のことだった。
「最近全然会ってないし。いつなら都合がいいか、タカに聞いてみようかな」
そう言ってメッセンジャーアプリを開く彼女を慌てて止めた。
「待ってアリス、彼を勝手に……いや、直接誘うのはまずいよ。僕が谷口さんに聞いてみるから」
「どうして? タカの電話番号は知ってるのに」
きょとんとした顔のアリスは、半年前にトーマスが話して聞かせた内容などすっかり忘れているのだろう。
行方不明騒動の後に再渡英してきた羽多野は、迷惑をかけたからとわざわざアリスの勤務先の病院を訪ねた。アリスはそのまま彼を食事に誘い、トーマスも含めて三人で楽しい時間を過ごした――そこまでは良かった。
問題は翌日だった。
トーマスとアリスと羽多野が「自分のいない場所で」顔を合わせたと知った栄は、表向きこそは柔和な笑顔と穏やかな態度を崩さなかった。だが、夕食の場で交わされた会話の内容を根掘り葉掘り聞き出そうとする姿には普段から想像できないような圧を感じた。
栄が羽多野との関係を隠したがっているのは確かだ。
偶然出くわして四人でパブに行ったとき、トーマスは酒の勢いもあって羽多野との仲を勘ぐるようなことを言ってしまった。あのときも栄は猛烈な勢いで否定した。
行方をくらませた羽多野をあれだけ心配して、仕事のスケジュールを急遽変更してまで日本に探しに――いや「迎えに」――行った。にもかかわらず「まだ恋人として認めてもらっていない」と羽多野が言っていたことからしても、栄は恋愛に関しては独特で複雑な思考の持ち主なのだろう。
とはいえ、栄のそんな性格を理解して配慮しようというのは、毎日彼と同じオフィスで過ごしているトーマスだからこその発想。無邪気なアリスは彼らのことを「トーマスと共通の友人カップル」くらいに考えている。そして社交的な彼女はまさか食事の誘いを断られるなどとは夢にも思っていないのだ。
「ええっと、ちょっと今は忙しいから、落ち着いた頃にまた声をかけるってさ」
日本人や日本語の機微をよく知るトーマスは、それが社交辞令であると知っている。栄は、アリスや羽多野を交えて四人で会うことを明らかに歓迎していない。だが正面きって断るのは失礼だと思っているからやんわりとした言葉でお茶を濁しているのだ。もちろん「落ち着いたらそのうち」の「そのうち」は永遠にやってこないだろう。
一方のアリスにとっては日本人の社交辞令など知った話ではない。
「ええーっ? 忙しいって、一晩食事するのも難しいくらい? 日本の総理ももう帰ったんでしょう? しばらく仕事は落ち着くって、あなた言ってたよね」
ちょうど数日前に繁忙期を抜けたと告げていたのが裏目に出たようだ。トーマスは口ごもりながらも本当のところを答えることにする。
「うん。谷口さんはそうでもないはずなんだけど、羽多野さん……タカがインターンの指導もあって忙しいみたいなんだ」
栄と話すときの習慣でつい「谷口さん」「羽多野さん」と口にしそうになるが、アリスに合わせて呼び名を変えた。
「信じられない。ザ・日本人で仕事大好きなサカエならともかく、タカもそんな働き方するの? 大体インターンの指導なんて夜遅くまでやるものじゃないでしょう」
アリスの指摘は鋭い。インターンを安い労働力とみなして酷使しようとする一部の劣悪企業とは違って、羽多野が勤めるシンクタンクのようなコンプライアンスのしっかりした組織ではインターンを業務時間外まで引き留めたりはしない。あの見るからに有能そうな男が夜遅くまで指導計画を練っている姿を想像するのも現実的とはいえなかった。
「やっぱり私、タカに聞いてみる。サカエは何か誤解してるのよ」
善は急げとばかりにアリスはテーブルに置いたスマートフォンを取り上げるが、勝手に話を進めて後で困るのは他ならぬトーマス自身だ。こうなっては穏便になどとは言っていられない。並んでソファに腰かけるとトーマスはアリスの肩を抱き寄せる。
「アリス、直接タカに聞くのはやめてくれ」
「どうしてよ」
「つまり、谷口さん……サカエは、四人で食事をするのに乗り気じゃないんだ」
アリスは不思議そうに首を傾げた。
すとんと納得しないのは当然だ。トーマスと栄の職場での関係は良好。アリスとも何度も会ったことがある。四人でパブに行ったときは栄も楽しそうにしていたし、羽多野の行方不明事件の際は親身になって協力した。なのに今になって四人で会うのが嫌だなんて。
「どうして? 私、サカエに失礼なことをしたかしら?」
「いや、そうじゃない。ここから先はあくまで僕の予想なんだけど、彼は――恥ずかしいんだと思うよ」
恥ずかしい? とアリスは口の中で小さく繰り返してから、吹き出した。
「そんな、いまさら」
そう、いまさら。だが、ここまで見え見えの状況証拠を握られていても羽多野との関係も、一緒に生活していることも頑なに隠そうとするのが谷口栄という男なのだ。何しろあんなにも慌てふためいて迎えに行った羽多野に対してすら「恋人として認めない」くらいなのだから。
「僕らは、彼らの関係をそういうものだって想像しているだろう? でもサカエは隠したいって思ってる。僕もいけないんだ。あのパブに行った夜、タカとの関係を勘ぐるようなことを言ってしまった。だから警戒されてるんだと思うよ」
少なくともトーマスの言い分を理解はしたのかアリスはスマートフォンを手から離す。それからまだスーツを着たままのトーマスの肩に頭をもたせかけながら、くすくすと笑った。
「サカエって、ティーンエイジャーみたいね。セカンダリー・スクールの頃は私もデートの場面を友達に見られるのが恥ずかしくて、わざわざ隣町まで映画を観に行ったことがあるけど……彼ってあなたより年上でしょう?」
「職場の人間にプライベートを知られたくないのもあるだろうし、日本人は保守的だから同性カップルもまだ一般的とは言えないんだ」
とはいえ「見る人が見れば」彼らの関係はあまりに明白だ。パブで飲んでいるときの羽多野と栄の距離感。さりげなく栄をエスコートする羽多野の振る舞い。そして羽多野が姿を消したときの栄の狼狽と動揺。恋人同士以外の関係性を想像することの方が難しい。
だが――さすがに一年近く同じ部屋で仕事をしているうちにトーマスも、谷口栄という人間がオフィスで見せる温厚で紳士的な面だけでできているわけではないことに気づいている。
「彼はいろんなことを気にするタイプなんだよ」
さらに言えば、頑固なくせにちょっと抜けている。トーマスやアリスに羽多野との関係を怪しまれていると感じている一方で、今はまだなんとかごまかせていると信じているのだ。だから決定的な確信を得られたくなくて四人で会する場所を拒む。
「だったらトムが言えばいいじゃない。心配しなくても誰にも口外しませんって。それに、恋人なのに誰にも紹介できないし紹介してもらえないなんてタカがちょっと可愛そう。私だったら、愛されてないんじゃないかって不安になっちゃう」
欧州各国の中では、慎み深く愛情を外に出すのが苦手だと言われる英国人。そりゃ、どこでもいちゃいちゃと抱き合いキスしてアムールを語るフランス人なんかと比べればそうだろう。だが日本人の恋愛や愛情表現は英国人と比べてももっと控えめだ。それに。
「いや、それは大丈夫なんじゃないか。だってタカの行方を探しているときのサカエの剣幕はすごかった」
トーマスがつぶやくと、ふふ、とアリスも思い出し笑いをする。
「それはそうね」
だから、きっと心配には及ばない。それにトーマスだって職場の安寧を保つためにも、決して羽多野に頼まれたわけでもないのに積極的に「悪い虫」を払う役すら買って出ているのだ。
「あーあ、じゃあ今はそっとしておいたほうがいいってことよね。つまんないけど、サカエがそんなんじゃ仕方ないわ」
まだ未練がましそうではあるものの、アリスが四人でのディナー計画をあきらめる気になったようだ。残念がる気持ちは理解できるだけに、トーマスはとっておきの代替案を出す。
「それはそれとして、金曜にはディナーに行こう。久保村さんから美味しいタイレストランができたって教えてもらったんだ」
「あら、ヒロのおすすめなら確実じゃない!」
ぱっと表情が明るくなったアリスの目の前に自分のスマートフォンを差し出して、寄り添ったまま店のホームページを検索する。昨年の休暇にタイ旅行に行って以来、タイ料理はすっかりアリスのお気に入りになっているのだ。
作戦成功、これで恋人のご機嫌は完全回復だ。ほっとしながらもトーマスは思う。
谷口一等書記官の任期はあと二年。できることならその間にアリスと結婚したいし、結婚するとなればウェディングパーティには同僚である栄だけでなく羽多野にも出席して欲しい――というのは贅沢な考えだろうか。
(終)
2020.08.30