「あー、長かった。やっとあの忌々しいギプスともお別れできた。せいせいするな」
心底ほっとしたように安堵の息を吐き、軽さを確かめるように左脚をぶらぶらと動かす羽多野は、まるで小学生男子のようにはしゃいで見えた。
とはいえ三週間のギプス生活からの解放にほっとしているのは羽多野だけではない。なんだかんだと動きの制限される彼のサポートやその他もろもろで莫大な迷惑を被っていた栄も、ようやく肩の荷が下りた気分だった。
「長かったって、それはこっちの台詞ですよ。そもそも羽多野さんは好きでジムに行って怪我して来たんだから自業自得ですけど……」
ちょうど土曜日だからと、ギプスを外すための通院に付き添うことまで求めてくる羽多野の図々しさには心底あきれる。待合室で並んで座って、こんなのどこからどう見ても同性カップルだ。まあ、そんな葛藤を抱きつつも結局一緒に来てしまった自分も大概なのだが。
「そうだな、確かに迷惑はかけた。その分、もし今後谷口くんが怪我したら下の世話まで至れり尽くせりやってやるよ」
「ちょっと! 変なこと言わないでください! 日本語わかる人がいたらどうするんですか」
嫌味への意趣返しとしても、やりすぎだ。会計待ちで周囲に人がいるにも関わらず、とんでもないことを言い出す羽多野の口を、栄は思わず手を出して塞いだ。羽多野の「下の世話」――想像するだにおそろしい。
マーケットで多少の買い物をしてから帰宅すると、羽多野は改めてまじまじと自身の脚を見つめる。
「……たった三週間でも、痩せ細るもんだな」
言われてのぞきこむと、確かに左右のふくらはぎの太さが目に見えて異なっていた。ランニングを趣味にする羽多野の脚はもともとトレーニーにしては細めだが、左ふくらはぎは筋肉が落ちてほっそり……というよりは痛ましいほどだった。
帰りの道すがら歩いたり、駅の階段を上ったりするのがいくらか不自然に見えたのも、数週間まったく使っていなかった左脚が弱っているせいなのだろう。
自分が逆の立場だったら、やはり見栄えが悪いと落ち込むに違いない。栄は思わず、なぐさめの言葉を口にする。
「服着てたらわかんないし、普通に使えるようになればすぐに戻りますよ」
「……優しいんだな。君のことだから、みっともないって眉をしかめるのだとばかり」
「俺のこと、どんな冷血漢だと思ってるんですか」
もちろん栄の優しい言葉のすべてが同情から出たわけでもない。羽多野が脚を気にして前以上にトレーニングに熱を入れるようになったら、また怪我でもしそうで怖い。とりあえず口先で甘やかすことで、羽多野の無理を防ごうとする意図もあった。
本人なりにストレスはあったのだろうが、はっきりいってここ数週間の苦労は栄の方がよっぽど大きかった。特に、羽多野が風呂場で転倒して背中を痛めてからは――そこであの夜のことが頭をよぎり、瞬時に栄の体温があがる。
自分から「今日は主導権を取る」などと言って羽多野の上に乗っていった夜。どうにかしていた。思い出したくもない。まさか自分があんな恥ずかしい、みっともないことをするなんて。
たった数週間触れあわなかっただけで飢えて渇いて、羽多野の裸体を見ただけで抑制がきかなくなった。動けない羽多野の上にまたがって、自ら硬いものを体の中に導いて、感じる場所にこすりつけて。
自分が上になる体勢だとあんなにも奥まで入るなんて、知らなかった。羽多野だって異様な状況に興奮していたのは間違いない。彼の昂ぶりは信じられないほど硬く大きく熱くて、串刺しにされた栄はとてもではないが自分で動くどころではなかったのだ。
耐えきれなくなった羽多野は手首の拘束も目隠しも取り去って、そこからは――。
ひとつ、栄の心に引っかかっていることがある。
興奮しきっていた羽多野は、おそらく気づいていないのが不幸中の幸いだ。自分でも信じられなくて、信じたくなくて、忘れたくて、できるだけ考えないようにしていること。
「……っ」
すっと脇腹を撫でられて、栄は思わず息をのんだ。
キッチンカウンターでショッピングバッグの中身をあけている栄の背後にいつのまにか羽多野がにじり寄り、服の上から腰を抱こうとしていた。
「ちょっと、やめてください」
いくらギプスが外れて気が大きくなっているからって、こんな昼間から盛るなんて動物でもあるまいし。栄は羽多野をにらみつける。もちろん過剰な反応の半分は、自分が不埒なことを考えていた後ろめたさを隠すためでもあった。
だが羽多野はひるむことなく、シャツの裾から内側に手を差し入れ、直接栄の肌を撫でてくる。
「なんだよ冷たいな。こないだは、あんなにがっついてたのに」
栄と同様、羽多野もあの夜のことを考えていたのだ。恥ずかしさを隠すように栄はことさらに冷淡な態度を崩さない。
「もう十分ですよ」
「そう言うなよ。君があんなにがんばってくれたんだから、脚も背中も治ったらしっかりお礼しなきゃって思ってたんだ」
「遠慮します。お礼する気があるなら、これから三週間家事はぜんぶ羽多野さんがするとか……あ」
弱いへそに指を入れられて力が抜ける。よろめきかけた栄の腰を抱いて羽多野は背後から耳に口を寄せた。
「それに俺、もう一度確認したいことがあるんだよな」
「……確認?」
嫌な予感とともに聞き返す栄に、羽多野は甘く意地悪くささやく。
「谷口くん、このあいだ中だけでいったよな」
頭の中が真っ白になった。
ついさっきまで考えていた――信じたくないと思い、なかったことにしようと決めていたこと――羽多野は何も言わないから気づいていないとばかり思っていたが、しっかり見ていたのだ。
「な、な、な……何言ってるんですか」
声が震えて、動揺はあまりにあからさまだ。
あのとき、羽多野は栄の両手首を握ったまま下から激しく突き上げた。結果として栄のペニスは触れられることも、自ら触れることもかなわない状態で、もちろん抱き合っているときのように羽多野の硬い腹に擦られることもなく、ただ切なくたらたらと甘い先走りを垂れ流して――最終的には。
体の奥に熱いほとばしりを感じて、ぎゅっとつぶった目の奥で星が爆ぜた。そして気づくと栄の腹部にも白濁が飛び散っていたのだ。
尻に男のものを受け入れて快楽を得る。嫌々ながらそんな自分を認めはした。だが、まさか性器への刺激なしに中を突かれて、熱い精液を出されて、それだけで自分が達してしまうなんて。
栄にとってはそれは受け入れがたいことで、今も心の整理がつかない。だから羽多野にも決して知られたくなかったのに。
「羽多野さん、気づいて……」
「もちろん。いくら我を忘れるほど興奮してたって、君のことはしっかり見てる。ていうか谷口くんも自覚してたんだな」
「いや、してません! そんな、俺……。あなたの気のせいでしょ」
今になってしらを切ろうとしても、すでに手遅れだ。栄の必死の否定はむなしく宙にさまようだけ。羽多野は心底楽しそうに、うろたえる栄の肌をまさぐる。
「気のせいなもんか。指一本触れずに、俺ので中突かれて、気持ちよくていっちゃったんだろ」
「違います。変なこと言わないでください!」
「だから、ほら、もう一回試してみよう。それとも今度はドライでイけるかやってみようか」
とんでもないことを言い出す羽多野の腕から身をよじって逃げだそうとするが、耳たぶに噛みつかれるとそれ以上動けなくなる。
「……俺、ますます筋トレ嫌いになりそうです」
栄は力なくつぶやいて――目を閉じると無駄な抵抗をやめて、後は甘い疼きに身を任せることにする。
休日の午後は、まだ長い。
(終)
2022.03.05
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