栄がクッションに座ってラップトップに向かっていると、買い物から戻ってきた羽多野が物珍しそうに寄ってきた。
「リビングで仕事なんて珍しいな。資料の翻訳?」
業務で機密事項を扱う関係上、栄は普段持ち帰った仕事は自室ですることにしている。例外は、オープンになっている資料の翻訳やまとめといった作業で、しかも語学面で羽多野の助けを借りたい場合に限られる。だが大使館勤務が長くなるにつれて、少なくとも仕事関連の英語には慣れ、最近は栄が羽多野に翻訳を手伝ってもらう機会はほとんどなくなっていた。
久しぶりに出番がきたと勘違いしている様子の羽多野に、栄は首を左右に振る。
「今日はそういうんじゃないです。たまってるプライベートのメールを整理しようと思って」
仕事関係は大使館アドレス、家族や親しい友人――そんなものほとんどいないのだが――はスマホアプリでやり取りすることがほとんどで放置していたプライベートのメールアドレスをふと見たら、未読は軽く三桁を超えていた。万が一にも重要な用件が混じっていたらまずいと、重い腰をあげて整理をはじめた矢先に羽多野が帰宅した。
てっきり本屋やら酒屋やらに寄ってあと一時間くらいはかかるだろうと思っていたのに、想定外に戻りが早かったのは誤算だ。
羽多野の前でPCを開いて、ろくなことはないに決まっている。栄はすぐにでもラップトップごと自室に戻りたいと思うが、一方で露骨に避ければない腹を探られかねないから悩ましい。
メールボックスの中身は、どれもたいしたものではない。ショップのダイレクトメール。過去に参加したセミナーや勉強会の案内。そして友人や知人からのどうでもいいような近況報告がいくらか。
SNS全盛のご時世だが、国家公務員がプライベートをネット上に垂れ流せばろくなことにはならないので、栄はその手のサービスは一切利用していない。結果、まれな近況報告はメール経由となってしまうのだった。
案の定、DMの山に紛れてところどころに結婚のお知らせや、子ども誕生の連絡が混ざっている。
家庭に憧れる同性愛者も多いと聞くが、栄は結婚にも子どもにも関心は薄い。ゆえにこの手の連絡に心がざわめくことはないが、そもそも興味がないので特にめでたいとも思わない。だいたい赤ん坊なんて小さくてしわくちゃで、どれも同じに見える。
「……へえ、いまどき三人目か。がんばるな」
投げかけられた言葉で、羽多野が背後から画面をのぞき込んでいることに気づいた。
「ちょっと! 人のメール見ないでください」
「怒るような内容じゃないだろ」
人のメールを許可なしに見る方がよっぽど常識のない行為だが、隠すのは後ろめたいからだとでも言いたいのか、羽多野からは一片の罪の意識も感じられない。
「そういう問題じゃないでしょう。本当に羽多野さんって常識がないから嫌になる」
今さら言葉にするまでもなく、羽多野は栄にとっていつだって「常識のない男だ。同時に、彼の常識のなさはすべて抜け目ない計算のもとに成り立っているのもまた事実だ。
栄が許し、受け入れる範囲をギリギリ超えるか超えないかのラインをしたたかに狙ってくる。そうやって少しずつOKとNGの境界をずらし、自分に都合良いように仕向けるのだ。
羽多野のやり口などわかっているのに、まんまとやられてばかりなのは悔しい。だが一方で、羽多野の狡さゆえに強情で融通のきかない栄が多少なりとも譲歩し、二人の関係が進んできたのも事実なのだった。
これもまた、いつもの計算なのだろう。
リビングで見ているものは栄にとって本気で隠す必要のないものだとわかっている。だからわざとちょっかいを出して、コミュニケーションのきっかけを探っている。
だが、こちらとしては――。
「あれ、意外と怒らない?」
「羽多野さんの挑発に乗るのも馬鹿馬鹿しいですから」
赤ん坊の写真に羽多野が何を感じるのか、もしくは感じないのか。少なくとも栄は気にしてしまう。そして、そんな自分が嫌になって、気持ちごと捨て去ろうと栄は写真ごとメールを削除する。
大学の剣道部仲間で、最後に会ったのは彼の結婚披露宴に招かれたとき。あとは数年に一度、この手のメールが送られてくるだけだ。返事をおそろかにしたところで、どうせもう二度と会うこともない。
メールの削除が完了すると、栄はラップトップを持って立ち上がり、カウチからのぞけないようにダイニングのテーブルへ移動する。見られて困るものなどないが、羽多野のいたずらを許せばつけあがるだけ。一応は拒否の姿勢を見せておく必要がある。
「悪かったって、もう画面はのぞかない」
「信用できません」
遅すぎる謝罪の言葉に栄が冷淡な返事をすると、羽多野は小さなため息を吐いてカウチから立ち上がった。
「来るなって」
「お茶を入れようと思っただけだ」
「どうだか」
一瞬流れる険悪な空気。栄は黙り込んで画面を見つめながら、内心では言い方がきつすぎたかもしれないと後悔した。こんな感じで、週末ごとに一度か二度は小さな喧嘩をしてしまう。たまには、大きな衝突も。決して望んでいるわけではないのに――。
やがてコンロにかけたケトルの湯が沸き、羽多野が注意深くポットに茶葉と湯を注ぐ音が聞こえてくる。
大雑把なくせに妙なところで凝り性の羽多野は、最近になって職場の同僚から「英国式の正しい紅茶の入れ方」を習ってきた。専門店で値の張る茶葉を買いこんでは、湯の温度とか、ジャンピングとか、うるさいことを言いながら紅茶を入れて、栄にも感想を求めてくる。
確かに、正しい抽出方法で入れた紅茶は雑味がなく美味い気がするが、羽多野が誇らしげに差し出してきたものだと思うと素直に褒める気にはなれない。
ポットに湯を入れ終わると紅茶用の砂時計をひっくり返し、羽多野はカップの用意にかかる。紅茶を注ぐ前にお湯でしっかり温めておくのだ。
「君も飲むだろ?」
さりげなく掛けられる言葉に、お茶を入れるのは話題を変えるための言い訳だったのだと気づく。
「じゃあ、もらいます」
羽多野が自分の機嫌を取ろうとしているのならば、意地を張り続ける必要もない。栄も小さな衝突のことは忘れたふりで、うなずいた。
セールのお知らせを三通連続削除して、栄は手を止める。次のメールの差出人は友安。栄の元上司だ。
友安は気の良い男だが、NYに留学していた関係で米国時代の羽多野を知っている彼の名前を見ると栄は落ち着かない。
それに羽多野は一度は日本でワイドショーや週刊誌に取り上げられた男だ。世のほとんどはその話題を一時のエンタメとして消費し忘れているとはいえ、栄の仕事において羽多野との関係は同性の恋人というだけではない厄介を伴う。
仕事でのやり取りがほとんどなので普段友安とは業務用アドレスでやりとりしているのに、一体なぜ私用アドレスにメールを?
怪訝に思いながらメールをクリックして――。
「カップここに置くから、気をつけて」
「っ!!」
おそらくは、というか確実に悪意なしに羽多野が栄の右手側にマグカップを置こうとするのと、栄がラップトップを閉じるのは同時だった。
「……」
しまった、あまりに態度が露骨だった。これではメールの内容を怪しまれてしまう。だが、おそるおそる振り向くと羽多野は呆れた顔で立ち去るところだった。
「そんな警戒するなよ。さっきのは悪かったって言っただろう。軽い冗談のつもりだったんだ」
どうやら羽多野は、さっきのメールのぞき見を引きずっているせいで栄が激しい反応を示したと思い込んでいるらしい。
「ひ、日頃の行いが悪いから信用できないんですよ」
栄はこれ幸いと羽多野の勘違いに便乗するが、心臓はばくばくと激しく打っていた。
今見たのは……友安からのメールに添付されていた画像は、もしや。
いや、きっと。
羽多野がカウチに戻って雑誌をめくりはじめたのを横目で確かめてから、栄はそっと再びディスプレイを開く。メール画面を確かめると、そこには紛れもない「黒歴史」があった。
――こないだ久しぶりにアルバム整理してたら、懐かしい写真が出てきた。さすがに職場に送るのは気が引けるからこっちのアドレスに送っとくな。
いや、懐かしくないし、送らなくていい! 栄はそう叫びたい気分だった。第一、こんな写真を撮って残しているなんて知らなかった。
できることなら今すぐ東京に飛んでいって、友安のPCごと粉々に破壊してやりたい。いや、いまどきは写真はクラウド保存なのだろうか。だとすれば、万が一データ流出があれば、この写真も……想像するだけで背筋が冷たくなる。
問題の写真は、採用一年目に所属した課での忘年会でのもの。
今ならばなんたらハラスメントと言われかねないが、よく言えばおおらか、悪く言えばモラルのなかった時代のこと。その課の忘年会では「一年生」が仮装して出し物をすることが恒例行事だった。
プライドの高い栄にとって、おふざけだとわかっていても自分が道化を演じることは耐えがたい。一方で剣道で培った体育会系精神は、先輩の命令かつ伝統を拒否することを許さなかった。
結局栄は、同じ課の同期に促されるままに、ミニスカートのセーラー服風衣装を着て、その年ヒットしたアイドルソングを歌い踊るという思い出すのも忌まわしい真似をした。事実、記憶は封印してしまっていたから、このメールを見るまで完全にその出来事については忘れ去っていたのだ。
危なかった。本当に危なかった。先に友人の赤ん坊の写真を見られていてよかった。もし一発目に開いたのが友安からのメールだったなら、この写真を見た羽多野はどんな言葉で栄をからかったことだろう。
いや、からかわれるだけならばまだましで、下手すれば――いや、その先は考えるのもおぞましい。
栄は友安からのメールを削除してから、まだ目の開かない赤ん坊の写真が添付されたメールをゴミ箱から受信トレイに戻す。
この赤ん坊はどうやら、俺にとって救世主であるらしい。だとすれば返事もせずに削除するなどという無礼をはたらくわけにはいかない。
そんなことを思いながら、栄は心にもない誕生祝いの言葉をタイピングしはじめた。
(終)
2022.04.24