悪い夢 -another-


悪い羽多野が書きたくなったので、夢オチということで……。Privetterに掲載したものと同じ内容です。


 これからレクがあるから、と告げると事務員の女性は軽く眉をひそめて「え、時間外じゃないですか」と言った。

 最近では建前上、働き方の適正化が叫ばれている。国会質問のためのいわゆる「問取り」すら直前にならないよう党からお達しが来ているくらいだから、緊急性ではそれに劣る単なる「勉レク」で時間外に役所の人間を呼び寄せるのが褒められた行為でないということくらい羽多野だって百も承知だった。

「どうしても時間が合わなくて、今日だけですよ。お茶とかはいらないから帰ってくれて構いませんから」

「そうですか。だったら助かりますけど」

 目の前の女性が一番気にしているのは、お茶出しのために残業を求められるのではないかという点。羽多野がそれを断ると安堵の笑顔を浮かべるが、ホワイトボードの予定表に目をやって、ちくりと皮肉を付け加えるのを忘れない。

「そういえばこのあいだ、野党の先生のところの秘書がレクに来た役所の女性を怒鳴りつけて泣かせたって週刊誌沙汰になってましたね。羽多野さんもちょっと当たりの強いところあるから気をつけたほうがいいですよ」

「冗談はよしてください。俺は怒鳴ったりしませんよ」

 もちろん、ときに自分が怒鳴るよりも悪質なことをしている自覚はある。

 事務所のドアがノックされたのは、約束の時間ちょうど。

「産業開発省の谷口です。レクに伺いました」

 いかにも好人物といったはきはきとした声色。だが、その奥に微かな緊張と嫌悪が滲んでいる……というのはうがち過ぎだろうか。

 十分近く前には到着した谷口栄が、入り口近くの壁の脇に立って「待て」を命じられた犬のようにじっと待っていたことは知っている。声をかけて招き入れたって不都合はなかったが、羽多野はそんなことはしない。

「勉レク」というのは国会議員や秘書が政策の勉強や国会質問のネタ作りのために象徴の役人を呼び出して説明を受けることだ。羽多野はそのために、ここのところ税制の特例措置について頻繁にやりとりしている谷口栄を呼び出したのだった。

 さっき事務員の女性も言ったとおり、官庁や事務所の定時は過ぎている。レクもできるだけ時間内にやった方がいいというのは正論だが、議員秘書だって日中は国会や来客対応など対外的な仕事に忙殺される。羽多野にとっても少し落ち着いて自分の仕事ができるのは夕方以降になる。

 役人が忙しいのは知っている。だがこちらだって面倒な議員先生のお世話から、わがままな支援者の対応に日々神経をすり減らしているのだ。選挙で選ばれた民意をもとに仕事をしている。その印籠があれば大抵のことは正当化されると思っている。

 ――たとえ羽多野が個人的にキャリア官僚というものを嫌っていて、中でも谷口栄という男をことさらに目障りだと感じているのだとしても。

「ああ、そういえば君を呼んでいたんだったな」

 わざとらしく、いかにも軽んじていますといわんばかりの言葉を口にして羽多野は椅子から立ち上がる。

「悪いけど今日は応接室が荷物で埋まっているから会議室を取ったんだった。そっちへ行きましょう」

 ちらりと横目で様子をうかがうと、栄はいつもの取り繕うような笑顔を浮かべたままで「お忙しいところお時間とっていただき、申し訳ありません」と社交辞令とも嫌味ともつかないことを言った。

 きっと羽多野ほど観察眼に優れ――というよりは、意地の悪い目でこの男を値踏みしているのでなければ、栄の口の端が微かに引きつっていることには気づかないだろう。柔らかい物腰で、無茶を言っても穏やかに受け止め誠実な対応をする、優秀な官僚。彼に相対した人間のほとんどがそう判断するに違いない。

 激務を感じさせない、きっちりと整えられた髪や眉。忙しい中でも散髪の時間だけはどうにか捻出しているのだろうか。シャツやスーツもきっちりプレスされていて、靴だっていつもぴかぴかに磨き上げてある。これだけ身なりに気をつかう男にしてはシャツの首回りやスーツの身頃にわずかなゆとりがあるが、その一点を除けば疲労の影すらほとんど完全に覆い隠している。

 つまり、そういうところが気に障るのだ。

 議員会館の地下の一角にはずらりと会議室が並んでいる。タイミングによっては勉強会や陳情で埋まっているが、時間が遅いせいもあって廊下には人影がない。ここまで降りてくるエレベーターも二人きりで、栄は居心地悪そうに周囲を見回すと、あとは黙り込んでしまった。

 彼が自分を警戒していることは、承知している。外面を気にする栄はある種「劇場型」の人間なのかもしれない。人の目があればあるほど、彼の設定した自己イメージを容易に演じきる。それはつまり、羽多野のようにはなから彼の本性に懐疑的な人間とふたりきりになるのは好ましくないのだろう。

「谷口くんとこは、今日は国会質問被弾してるの?」

「いいえ、明日は委員会もありませんし、今のところ答弁対応はなさそうです。……まあ、それ以外にもいろいろと……」

 末尾に付け加えた余計なひと言はつまり「答弁作業がないからといって暇ではないので、さっさとレクを終わらせて欲しい」という意味だ。こんな言葉、議員同席の場や集団陳情の場では聞いたことがない。日々、面倒ごとを押しつけてくる羽多野に、それだけ栄も腹に据えかねているということなのか。

「いろいろと、か。そんな中時間外に呼び出して申し訳ないな」

「いえ、そういうわけでは」

「他にどういう意味が?」

 人前でいびって、彼が必死にポーズを取り続ける姿を見るのも面白いが、二人きりの場で直接的な攻撃を加えていびつな本性をむき出しにするのも悪くない。

 

・・・

 

「……説明は以上になります」

 二十人ほどの会議が開けるような部屋の隅でふたり向かい合う状況で、栄は普段よりも早口に説明を終えた。一分一秒でもこの場所から、羽多野の前から早く立ち去りたいという気持ちが上品ぶった仮面の隅からこぼれ落ちていた。

 羽多野は内心でほくそ笑みながら、思わせぶりにぱらぱらと資料をめくる。主導権を握っているのは自分で、居心地悪そうに座っている目の前の男を解放するも、この場に留め置くも羽多野のさじ加減ひとつにかかっている。改めてそのことを思うと、優越感と嗜虐心で胸の奥がくすぐったくなった。

 しばらく思案するふりをしてから、羽多野はパワーポイント資料の中頃にある図表をとんとんと指先で叩いた。

「ちなみにこのアンケート調査だけど、ちゃんと設計されてる?」

「え?」

 顔を上げた栄の表情に不安が走る。

「母数の設定やサンプルの取り方、あと設問が恣意的になってないかとか気になって。ほら、役所って自分たちが都合いいようにデータ作ったり拾ったりするだろ」

「そんなことしません」

 即答するのは、真面目な役人としてはほとんど反射的な行動なのだろう。

 だが羽多野は知っている。政府統計や一部の正確性を期すもの以外にも大量に実施される調査やアンケートのすべてにいちいち統計学裏付けを担保する余裕など、この国の役所にはない。

「だったら統計学的にちゃんとノイズを排除できてるって考えていいんだよな。まさか職員が適当に考えた項目を、適当に決めた母集団に投げてるなんてことないって言い切れるのか」

 もちろん調査の内容によっては、対象者の状況や受け止めを一定程度把握できればいいだけのもの、定量的な分析までは要せず定性的な状況やエピソードを収集することを目的としたものもある。羽多野が指摘している調査自体、そこまで正確性を必要とするものではない。

 それでも、建前上は常に公正で正確であることを求められる役人にとって、この手の正論はいつだって弱みだ。さらに言えば、谷口栄が法学部出身の、法律職キャリアであることだって羽多野は知っているのだ。つまり、いくら賢くても栄は統計学への理解は乏しい。

「……我々としては、できるだけ適切に……」

 お決まりの文句に、羽多野は「あのさあ」と呆れといらだちを滲ませたため息を吐く。

「国会じゃないんだから、すれ違い答弁で逃げないで『はい』か『いいえ』で答えてくれる? この調査のデザインって統計学的な裏付けはあるの? ないの?」

 追い詰められて、栄はとうとうこれ以上の言い逃れをあきらめた。

「……専門家の目を通しているかといえば、そこまではできていません」

「要するにノーってことだな」

「はい」

 蚊の鳴くような返事は微かに震えている。

 職務上の責任感と彼自身の矜持ゆえにギリギリまで粘って、それでも絶えきれずにポキンと折れる瞬間――それを目の当たりにするときの陰湿な喜び。

 わかっているのだ。真摯に職務を果たそうとしているだけのこの男に、羽多野の嫌がらせに甘んずる理由など本来はないのだと。先ほどの事務員女性の話ではないが、議員秘書からのハラスメントとして出るところに出れば、きっと羽多野のほうが痛手を負う。

 だからこそ羽多野は谷口栄のような、極端にプライドが高く世間体を気にするタイプをターゲットにしてしまう。こういう男は、自身が嫌がらせの対象とされていることを第三者に打ち明けることを苦手とする。誰かに弱みをさらして助けを求めること自体を恥だと思っている。

 以前、似たようなタイプの官僚に会ったことがある。あれは数ヶ月は持ちこたえただろうか? 表情を強ばらせながらも懸命に事務所に通ってきていたが、ある日、そんな時期でもないのに突然異動してしまった。体調不良が理由だった。羽多野の見立てでは、栄はあの男よりずっと芯が強そうだ。

「君らは本当に保守的だからな。谷口くんが反射的に組織防衛的なことを口にするのはわかるけど、それじゃ国民に対してあまりに不誠実じゃないか?」

 官僚というのは総じて、彼らにとって面倒だったり権益が失われる可能性を察したりすると、明確な反発はしてこないものの、言葉やデータを尽くして自らの正当性を訴えてくる。それらは一見して筋が通って国益に叶っているように見えるからこそ、たちが悪い。政治家側も党や個人での人脈は持っているが、実際に行政を運営する役所に対してはどうしたって情報面で劣る。

 どうやって彼らが見せたくない情報を吐き出させるか。「難しい」「国民の反発が」「経済に悪影響が」といったネガティブな言葉を封じ込めて、こちらの言い分をきかせるか。確かに最初は、それが目的だったのだ。

 だが、いかにも正義は自分にあるといった顔をして、こちらが無知なクレーマーであるかのようにあしらってくる一部の官僚に羽多野は強く反感を抱くようになり――その反感には、幼少時から長い時間をかけて培っていたコンプレックスが多分に含まれていることは否定しない――私情で彼らにきつくあたっていることくらい、羽多野だって十分すぎるほど自覚しているのだ。

 とりわけ、この男のことは初対面から気に食わなかったから、つい態度も辛辣になる。しかも、この状況にあっても完全に心が折れるどころか、妙にふてぶてしい。

 現に、青い顔でうつむき資料を眺めながら、栄はぽつりとつぶやいた。

「羽多野さんは……どの案件にもこんなにしっかり目を通されるんですか?」

 天然でこんな質問をするほど馬鹿でも無神経でもないはずだから、つまりこれは彼なりの意趣返しだ。

「どういう意味?」

「お忙しいだろうに詳細までご覧いただいて、こちらも勉強になります」

 つまり、忙しいのに役人いびりのためだけに手間暇かけて嫌な奴だと言いたいのだ。ただでさえひんやりと冷たい会議室の空気が張り詰める。だが、手応えがないよりはずっと面白いではないか。

 いまさら、過去に手に入れられなかったものや、失ったものがどうなるわけでもない。どうしたいわけでもない。割り切っているはずなのに「お育ちの良さそうなエリートを妬み憎む気持ちは消えないし、彼らを貶めて少しでもボロを出させると、こいつらも大したことのない人間なのだと一瞬だけ爽快感を味わうことができた。

 谷口栄のプライドを完全にへし折ったら、きっと気持ちが良いだろう。これ以上笠井事務所の開いてはできないと上司に泣きを入れるのでもいい、胃に穴があいて戦線離脱するのでもいい。そうすればほんの一瞬でも、羽多野にまとわりつくもやもやとした気持ちは晴れる。

 それでも彼が踏みとどまるというなら――。

「谷口くん、今日はずいぶん感じの悪いことを言うな。ご機嫌斜めか?」

 直球の問いかけに、はっとしたように栄は顔を上げる。

「あ、いえ。決してそんなつもりは……。失礼に聞こえたならすみません」

 あっさりと前言撤回する、その態度がなおさら癪に障った。

 こちらが「どういう意味か」とわざわざ聞き返してやる親切さを見せたのに、思いとどまることなしにさらなる皮肉を口にしたのは栄だ。そのくせ、羽多野があからさまな攻撃性をにじませれた途端、保身に走る。どこまでの反撃ならば許すのかを試されていたようで気分が悪い。

「ほら、そういうとこ」

 羽多野は人差し指を栄の鼻先に突きつける。

「失言が謝罪しますって、また官僚答弁。自分では一切問題があるとは思っていないけど、俺が勝手に悪意を感じ取っているなら寛容な君は一応謝ってくれるって、そういう意味だよな」

 くだらない。言葉尻をとらえてはネチネチと責め立てて、それで少しくらいは気分が晴れるにしたって、同じ時間を使うなら事務所に戻って少しでも仕事を進めた方がよっぽど意味はある。そんなことは羽多野だって百も承知なのだが――。

 谷口栄という男の何かが、羽多野をひどく狂わせる。

「……もういい、結構だ。君の態度はよくわかった」

 あえて突き放すように言うと、栄のこぎれいな顔が不安に染まる。

 調査手法についての話は終わっていない。その後の「失言」についても終わっていない。宿題を与えられることも、謝罪を求められることもなしに中途半端に話を打ち切られた役人が動揺するのは当然だ。

「もういいって、あの」

「だから、レクは終わりだって言ってる。キャリア官僚様はそりゃあご多忙だろうが、俺の時間だって有限だ。いつまでも生産性のない話を続けてたってお互い無駄だろう。ほら、さっさと片付けろよ」

 会議室の鍵をカチャカチャと鳴らしながら有無を言わせぬ調子の羽多野に、食い下がっても無駄だと思ったのか、栄はぐっと唇を噛んでテーブルのペーパー類に手を伸ばした。資料の一切をかばんに戻すと気まずそうに立ち上がる。狙うのはその瞬間だ。

「……え?」

 前触れもなしに腕をねじり上げると、何の警戒もしていなかった栄の手から離れたかばんが床に落ちる。驚きで反撃姿勢をとれないでいるうちに、そのまま体ごと壁に押しつけた。

「俺にも暇はないんだが、それはそれとして、やっぱりムカつくんだよな。君の顔も態度も、何もかも」

 銀座あたりのテーラーかデパートでフルオーダーしているのだろう、良質の生地で仕立てられたスーツ越しの腕は見た目より頼りない。しっかりした肩幅や身のこなしから運動の覚えがあるのは間違いないが、激務に追われて鍛える暇もないといったところだろうか。

 突然の暴力に一瞬ぎゅっと目を閉じて身構えた栄だが、予想した衝撃が訪れないことを不審に思ったのかゆっくりと両目を開けた。

「殴られると思ったか?」

「離してください」

 返事はイエスでもノーでもない。小さな声で解放を訴えて、ただ身をよじるだけ。きっと、何を言ったところで羽多野を悪い意味で刺激しそうで警戒しているのだろう。触れている場所から伝わってくる小刻みな震えにサディスティックな興奮が湧き上がった。

「確かに、このきれいな顔をぶん殴ったら少しはスッとするかもしれないな」

 左腕で壁に押しつけるだけでは心許ないので、下半身を使って腰から下もがっちりと押さえ込む。空いた右手でぐいと顎を持ち上げると、これまでにないほど近い位置から栄の顔をのぞき込むことになった。

 美醜の基準は人それぞれとはいえ、ほとんどの人間が間違いなく「整っている」と認識する顔立ち。その顔が不安と怯えに強ばって――しかし瞳の奥底には怒りと軽蔑が萌えている。

 栄は、心を落ち着けるかのようにひとつ息を吐いてから、口を開く。

「……それで羽多野さんの気が済むなら、殴っていただいてかまいません」

 ある意味潔い申し出だが、彼が自分から口にした時点で羽多野の中で「殴る」という選択肢は消える。

「許可をもらって殴るってのも、なんだかなあ。それに顔を殴れば俺が暴力秘書ってことになる」

「私の態度が原因なのだから、訴えたりしません」

「自分に原因があるって認めるんだな。でも、君が良くたって顔を殴れば目立つ。同僚や上司に気づかれたら面倒だ」

「だったら腹でも殴りますか?」

 羽多野は大きなため息をつく。なぜ栄はこの状況でまだ自分が主導権を握れるなどと思っているのだろう。本人としては妥協点を探っているつもりなのかもしれないが、これではまるで羽多野に「殴らせてやる」と許可を与えようとしているみたいではないか。

「……本当に君って奴はさ。殴れって言われて殴って、気が晴れるはずないだろう」

「は?」

 ある種の天然。恵まれて育って、自分は正しくて、否定されるはずがないと思い込んでいるゆえの傲慢さ。そんな男のプライドをへし折る方法。殴りつけるよりもずっと簡単で、効果的な方法は――そういえば、この男には同性の恋人がいるのではなかったか。しかもセックスレスで悩んでいるという。

 悪趣味この上ない発想が頭に浮かぶ。普段だったらとても実行に移さないような行動。だがなぜか今この瞬間、羽多野の理性はかつてないほどに揺らいでいた。

 こんなことをしてはいけないはずだ。出るところに訴え出られたら身の破滅だ。当たり前すぎることなのに、まっとうな判断力は嗜虐的な欲望の前に霞む。

 右膝に力を入れて栄の両脚を開かせると、体を押し込んだ。そのまま身を寄せて、彼の股間のあたりをぐっと腿で押さえつける。

 急所を強く圧迫されて栄の顔に苦痛の色が浮かんだ。

「っ……何を……?」

 今度こそ完全に身動きが取れなくなったのをいいことに、羽多野は栄の顔に顔を近づけて耳にふうっと息を吹き込んだ。と同時に滑らかな頬をべろりと舐める。

「ちょっと! やめてください!」

 殴ってもいい、と言ったときの威勢が嘘のように栄は狼狽した。一発殴られるより、欲望の対象として触れられる方がよっぽど気持ち悪いというのは、たいがいの男にとってそうだろう。

 だからこそ、今の羽多野はそれを選ぶ。

「殴るのは俺の手も痛むからな。それにどうせ時間を使うなら、こっちの方がお互い〈スッキリ〉できるだろう」

「……は?」

 顎をつかんでいた手を離して、そのまま栄の股間に持って行く。

「離せ、何をする!」

「うるさいな、握りつぶされたいか」

 脅しでない証拠に手のひらに力を込めると、ぴたりと抵抗は止んだ。

「それとも、俺をぶん殴って出て行き、上司に泣きつくか? レクに行った先で秘書に金玉握られたって。事情を聞かれたら俺はこう言おうかな? 谷口くんから同性の恋人と夜の生活がないって相談を受けたから、良かれと思って、とでも」

「……この、人間のクズ」

 人間のクズ、その通りだ。だが、それで何が悪い。俺はおまえたちみたいな高慢なエリートが大嫌いで、ぶっ潰してやりたくなるんだ。普通に勝負すれば逆立ちしたって敵わないのに、国会議員の秘書ってだけで堂々と嫌がらせできるんだから、この仕事に巡り会ったのは幸運だった。

 そんなことを思いながらスーツ越しに縮こまった性器を揉み擦る。さっきの痛めつけるような動きとは違う、優しく性感を高める動きだが、急所が羽多野の手の中にあることは変わらない。少し気が変われば失神するほど強く握ることも、膝蹴りでつぶすことだって可能であるのだから、栄は強く抵抗できずに声を震わせる。

「やめてください。本当にこういうのは……殴るよりずっと……」

 手のひらですりすりと撫で回して、ときおり少し強めに茎をなぞってやる。手の中のものはすぐに硬さと質量を増した。

 反射的に体を丸めようとする栄を抱きかかえるようにして、羽多野はささやく。

「どうした? 谷口くん、勃起不全って言ってなかったか? その割には元気がいいな」

 劣等感、嫉妬、嗜虐心。栄が羽多野の意地の悪さに抵抗しようすればするほど、自覚していたよりはるかに奥深い場所にまで沈殿した、どろどろと醜い感情を引きずり出されるようだった。

 栄のきれいな外向けの仮面を剥がしてやりたいなどと思っているつもりで、暴かれているのは一体どっちだろう?

「脱げよ。それとも汚れたスーツで帰りたいか?」

 唇をきつく噛みしめた栄は沈黙したままだったが、やがてあきらめたように小さく頭を左右に振った。

そのままベルトを外す仕草を見せるものの、動きはあまりにのろく羽多野をいらだたせる。

「さっさとしろよ。それともまさか、俺の気が変わることに期待しているとか?」

「違います、指が……」

 言われて視線を落とすと、震えのせいで指先がすべってバックルを外せずにいるようだ。

 決して羽多野に言われるがままに脱ぎたいわけではないだろうに、栄はひどくもどかしそうでに悔しそうにすら見える。どこまでも負けず嫌いの男は、自らが生娘のように怯えていることが許せないのだろう。

 羽多野としても、あまり時間をかけるつもりはない。無言のままで、驚くほど冷たい栄の手を払いのけると、さっさとベルトを外し、スラックスと下着をまとめて腿まで引きずり下ろした。

「……っ」

 覚悟はしていても、羞恥と屈辱は生半可なものではないのだろう。さっき触れたときには確かな反応があったはずなのに、姿を現した性器はくったりと萎えている。

 それはいかにも〈谷口栄の持ち物らしい〉代物だ。陰毛はそれなりの長さにトリミングされていて清潔感があるし、ぶら下がる陰嚢も陰茎も色かたちともに整っている。サイズは並よりは立派に見えるが、下品に感じるほど大きくないのもこの男のイメージにぴったりだと思った。

持ってて相手もいるのに使わないなんて、とんだ宝の持ち腐れだな」

 シャツの裾を持ち上げてじろじろと眺めるうちに、そこはぴくりと震えてかすかに膨らむ。本人は自覚していない――もし意識したとしても頑として否定するだろうが、谷口栄の本質的な欲望は、お上品な恋人とお行儀良くベッドで抱き合うこととは別の場所にあるのかもしれない。

 まっとうすぎる世界で清潔な人間に囲まれていると、不安や怒りや恥辱といった負の感情にあおり立てられる欲が存在すること自体、気づかないものなのかもしれない。きっとそういった感覚には一生気づかないままでいたほうが、平穏で幸せに過ごせる。

 もしも今日をきっかけに栄の中に新たな歪みが生じるのであれば可哀想な話ではあるが、偶然羽多野のような男と出会ってしまった不運を嘆いてもらうしかない。

 今度は直接握り、ゆっくりと擦る。栄は性器というよりは、むき出しの心臓を握られているかのように苦しげだ。

「羽多野さん、あなたこういう趣味があるなんて……」

「男が駄目だって言った記憶はないし。君に対する態度に一貫性はあるつもりだけどな」

 いくら澄ました顔で取り繕うのが得意でも、悲しいことに若い男などほとんど機械的に擦れば勃つ。強く噛みしめすぎて血の気を失っていた唇はいつしか紅潮し、その隙間からは荒い吐息がこぼれる。羽多野の手の中のものは熱く怒張して湿り気を帯びて、やがて栄はせつなげに腰をゆらめかせる。

 こぎれいな顔が汗ばんで、瞳が欲情で潤んでいる。いくら潔癖ぶったって、一皮剥けば誰だって同じ。こんな物。――そう思う一方で、内心では理解している。

 標本のように壁に縫いつけた男のことを、羽多野はどうしようもなく美しいと感じているのだと。

 もう少し擦ってやれば、栄は射精するだろう。だが、それでは足りない。羽多野だっていつしかスラックスの前に苦しさを感じているのだった。

「……え!?」

 突然体をひっくり返されて、栄は小さく叫ぶ。

 羽多野は、栄の性器を弄っていた右手を離すとそのまま指先を尻に向けた。指に絡みつくぬめりは、きゅっと縮こまった場所をほぐすのに役に立ってくれる。

「待ってください、何考えてるんですか!? 俺はそっちじゃない! やめろ! うっ!」

 尻の中で羽多野の指が動きはじめると、さすがの栄も恥も外聞もなく騒ぎはじめる。耳に唇をつけて羽多野は声を低くした。

「うるさいぞ。いいのか? 君の声を守衛が来てドアを開けても」

「それは……」

 異常なシチュエーションだ。内鍵のない会議室。遅い時間でフロア自体が閑散としているが、もしも二十四時間警備の守衛が巡回してきたら。もしもドアを開けて、この場面を見たら。羽多野だって身の破滅に決まっている。それでも今この瞬間湧き上がる衝動からは逃れがたい。

「黙ってれば、すぐ終わる」

 羽多野はスラックスの前をくつろげ、硬く勃起したものの先端を栄の後孔に押し当て、ぐっと腰を進めた――。

 

・・・

 

「……羽多野さん?」

 肩を揺さぶられて、はっと目を開ける。ほんの数秒前まで身を置いていた生々しい夢と目の前の現実との区別がつかず、恐怖と罪悪感に背筋が冷たくなった。だが、それもほんの一瞬のことだ。視界に入ってくるのは心配する気持ちを隠して呆れた声を出す栄の顔。

「起こしてすみません。珍しくうなされているみたいだったから」

「あ……」

 間違いなくあれは夢だった、とようやく確信し安堵する。

 ほとんど八つ当たりの感情で栄をひどく追い詰めていた頃はまだ、彼が同性の恋人を持つことすら知らなかった。加えて、いくら自分がろくでもない男でも、議員会館でレクに来た官僚を襲うほど見境ない行為には及ばない。目を覚ましてしまえば時系列も場面設定もめちゃくちゃなのだが、突拍子もないシチュエーションでも受け入れてしまうのが夢というものだ。

「水でも持ってきましょうか?」

 大きなため息を吐きながら上半身を起こす羽多野に、栄は珍しく優しい声をかける。塩対応が基本な彼がこんな反応を見せるなんて、一体どれほどひどくうなされていたのだろう。

 夢の内容が内容だけに、栄の気遣いに後ろめたさを抱いてしまう。

「いや、いい。もう起きる」

 一刻も早く気持ちを切り替えたくて、羽多野はベッドを降りた。

 昨晩の行為の後は、栄が風呂で体を清めているあいだにベッドリネンを替えておいた。つまり今シーツが湿っているのは寝汗のせいだ。思いのほか朝方の気温が高かったから、寝苦しくて悪夢を見たのか。それとも悪夢が先で、ひどい汗をかいたのか。

 もうあれからは数年が経つ。栄との関係性は変わった。なのにどうしていまさらこんな夢を見てしまったのだろう。醜い感情も、彼を傷つける行動をとっていたのも事実だが、ああいうことをしようとまで思っていたわけではない。

 現実でなくて良かったと心から思う。もし修復不能なほどに栄の尊厳を傷つけていたら、羽多野はどうなっていただろう。スキャンダルに巻き込まれて仕事を失ったときも、突然の元妻からの連絡で、忘れたはずの暗い過去にとらわれたときも、誰に愚痴をこぼすことも、誰に縋り甘えることもできなかったはずだ。

「谷口くん」

 名前を呼んで、頭に顔を寄せる。早起きした彼は身支度を終えており、髪からはほのかな整髪料の香り。鼻先を擦りつけてそのにおいをいっぱいに吸い込んだ。

「……まだ寝ぼけてます?」

 子どもや動物が甘えるような、少なくともベッドの外の羽多野として〈らしくない〉仕草に栄は不審そうな表情を向けてくる。

 こんな夢を見るのは、罪悪感のせい? それとも、心の奥底に今も残酷な衝動を隠しているから? いや、違う。傷つけたかったわけではない。今は、本当にやりたかったのはあんなことではないと羽多野は知っている。

 自分が踏みとどまっていたとは思っていない。倒れるまで追い込んだのだから確実に一線は越えていた。偶然にも、同時期に栄の身にあまりに多くのことが降りかかり、相対的に羽多野の所業の悪印象が薄れたのは、ある種の幸運だったのだろう。その上で、栄の弱みと寂しさにつけこんだ。

 後ろめたさならいつだって胸の奥でくすぶっているが、だからといっていまさら手を離すことは正解ではない。きっと、二人のどちらにとっても。

「寝ぼけてない。ちょっと嫌な夢を見てただけだ」

 髪へのしつこいキスを振り払うことはせず、栄は「ふふ」と小さく笑う。

「何が楽しいんだ」

「夢の中とはいえ、怖い思いしたんでしょう? いいザマだなと思って。日頃の行いが悪いからですよ」

 普段ならば猛烈に反論するところだが、今の羽多野は絶賛過去の自分を反省中である。仕返しの代わりに、率直な弱音が口をついた。

「谷口くんも、ひどい奴だなあ」

「羽多野さんだけには言われたくないです」

 そのまま腕を首に回して、珍しく栄からの短いキス。しかしロマンティックなのはそこまでで、潔癖な男は首筋に触れた指をまじまじと見つめて顔をしかめた。

「うわ、ベトベトして気持ち悪い。何これ寝汗? さっさとシャワー浴びてください」

 俺も手を洗わなきゃ、とバスルームに走る背中を捕まえて、抱きしめる。

「ちょっと、俺もう着替えてるのに服に汗がつくでしょう!」

「人を汚いもの扱いするからだ。君も汗まみれにしてやる」

 せっかく着替えたところ可哀想だが、さすがにこれは自業自得。服は洗濯のため脱いでもらって、なんならシャワーも一緒に。そうすれば、悪い夢だって洗い流してしまえるだろう。

 

(終)
2024.02.10 – 2024.03.03