第一夜
どろろんと煙が上がり、俺の目の前に現れたのはランプの精……ではなくカップホール、つまりのところは使い捨てオナホールの精だった。
しかも、男。
しかも、何やら猛烈に怒っている。
「ふざけんな! 濡らしもせずいきなり指入れるんじゃねえよ!」
振りかぶって投げつけられた紙箱が頭にぶつかり、ぺこんと間抜けな音を立てて床に落ちるのを俺はあ然と眺めた。それは金曜深夜――いや、土曜日の早朝のことだった。
そもそものきっかけを振り返れば、数時間前にさかのぼる。
――よし、チャンスだ。
ムーディな間接照明に照らされた横顔が「ちょっと飲みすぎちゃったかも」と舌足らずにつぶやくのを聞き、俺はバーカウンターの下で思わずガッツポーズを作った。
金曜の夜、「合コンキング」の異名を持つ営業の坂本がセッティングした五対五の合コンは、いかにも女子受けしそうな京風居酒屋で雰囲気良くはじまった。第一印象で気になったのは、モデルのような長身にきれいに巻いた栗色の髪をツヤツヤと輝かせた大きな目の千秋。しかし千秋はこちらには目もくれず橘の隣を陣取ってしまう。
有名私大ラグビー部出身で恵まれた体格に甘いマスク。ほとんどの女子はそれだけで橘を放っておかない。坂本も坂本で、場の公平を保つために黙っておけばいいところを「橘は経営企画課のエースって言われててさあ」などと余計な情報で場を盛り上げようとするから、俺のような平均・平凡な人間に勝ち目が生まれるはずもなかった。
それでも何度か果敢に千秋に話しかけようとしたものの、すべての言葉は「ああ、うん」「そうなんだあ」と振り向きもせず軽くかわされ、彼女の視線の先には常に橘。
さすがにこれ以上深追いするのも無意味だと敗北を認めたところで、端の席でちまちまと料理を取りわけている女の子と目が合った。
肩までの長さのまっすぐな黒髪に薄い化粧。すごく美人というわけではないが、改めて見るとそこそこかわいい。何より飲めや歌えや状態の面々をよそに空いたグラスをまとめたり小皿に分けた料理を配ったりと、いまどき珍しい気づかいのできる良い子ではないか。意識すれば一気に好感度が上がり、俺はいそいそと彼女の隣に移動した。
「飲んでる? ……ごめん、さっき自己紹介のときに名前がちゃんと聞き取れなくて」
ろくろく名前を聞いていなかったことを取り繕いながら話しかけると、彼女はにこりと笑って「咲」と名乗った。口元からちらりとのぞく八重歯がかわいらしい。
その後の首尾は上々。会話は盛り上がり雰囲気も悪くない。それどころか二次会のカラオケに行く途中、なんと咲の方からはにかみつつ俺の耳にささやいてきた。
「カラオケもいいけど、もうちょっと静かなところでゆっくりお話ししたいな」
で、まさかこんな展開もあろうかと事前にネットで探しておいた雰囲気の良いショットバーに誘っちゃったりして。そこで、かわいい色でソフトドリンクのように甘いわりに度数の高い酒を勧めちゃったりして。
そして、この上なくいい感じに夜は更けていったのである。
「さ、咲ちゃん。そ、そろそろ出ようか。ちょっと俺、ト、トイレに行ってくるから待ってて」
これは断じて緊張で声が上ずっているのではない。ただの武者震いだ。俺は咲を残して席を立つとスマートに会計をすませ、ついでにトイレに行く。便器の前でスラックスをくつろげてイチモツを出し、用を足していると、しみじみと感慨深い気持ちがわいてきた。
よしよし、ここまで長い日々だった。不遇な時代が続いたがようやくやってきた晴れの日だ、おまえも存分にがんばってくれたまえ。頭の中でかわいい我が息子にそんなことを話しかけてみる。
そして、気づく。
排尿にやたら時間がかかっている。
あ、やばいこれ飲みすぎたときの感じ。飲みすぎていつまで経ってもおしっこが止まらないときの感じ。そういえば咲に下心を悟られないよう彼女の倍のペースで俺も飲んだっけ。さっきの居酒屋ではビール、ハイボール、それから水割り。この店に来てからも水割りを三杯だか四杯だか。
あれ、もしかして俺けっこう酒が回っちゃってる?
そのことに気づくと同時にすっと血の気が引いた。
長い長い排尿が終わり手を洗う頃には、酔っ払い特有のハイテンションと上機嫌はすっかり消え去っていた。代わりにやってきたのは酔いが覚めかけたとき特有のローテンションとネガティブ思考。
ヒールの足元もおぼつかない咲を連れてバーから出る間も鼓動はどんどん早くなり、背中を滝のような冷や汗が伝う。
やばい、どうしよう。いっちゃうか? でも。
「山村くんって一人暮らしって言ってたよね。家はここから近いの?」
見上げてくる咲のトロンとした目が怖い。
正直に告げるなら、家は近い。タクシーで十分もかからない。突然のチャンスにも対応できるよう部屋は片付けてある。シーツも洗濯したばかりのものに変えルームフレグランスだってセットしてきた。コンドームの準備だって抜かりない。
だけど――。
「で、びびって女だけタクシーに放りこんで逃げてきたってわけ?」
「……うん」
「ばっっっっっかじゃねえの」
盛大に溜めを作っての罵声は傷ついた俺の心に容赦なく塩をすり込んでくる。
というわけで話は再び土曜早朝に戻る。
煙とともに現れたカップホールの妖精とやらに空き箱を投げつけられたあと、俺はなぜか冷たいフローリングの上に正座して昨晩のいきさつを説明する羽目になっていた。
やばい、俺まだ相当酔っ払ってるんだわ。これは夢、もしくは釣れそうな魚を逃がしたショックから見ている妄想。だってあいつ変な服着てるもん。裸の上半身に直接ビロードみたいなベストを羽織って、昔のヤンキーみたいな裾の膨らんだズボンを履いて、手首にじゃらじゃら輪っかつけて。髪の毛は金色でやけにふわふわして、そのくせやたらと流ちょうな日本語しゃべるし、きれいな顔して邪悪なまでに毒舌だ。
「うるさいな、変な服で悪いか! こっちだって望んでおまえなんかに呼び出されたわけじゃねえよ!」
また怒鳴られた。服装についての正直な感想は、頭の中で思っただけで決して口にしてはいないにも関わらず、なぜか目の前のこいつには筒抜けであるらしい。俺は気まずくうつむいた。
「それなあ、女がヤりたいって言ってんだよ。見え見えのやらしいバーで甘い酒飲んで、ガキじゃねえんだから、わかってやってる茶番だろ。だいたい黒髪清楚系っていうとこからして笑える。清楚な奴が『二次会抜けて飲み直そ』なんて自分から誘ってくるわけないだろうが。賭けてもいいけどおまえ今ごろ、女どものLINEで意気地なしって笑い者にされてるぜ」
ふわふわ金髪は、ずばずばと痛いところを突いてくる。
「だって、飲みすぎたんだよ。部屋に連れて来て勃たなかったり、途中で折れたりしたらって不安になったんだ……」
「だーかーらー、そもそも次の展開が期待できる合コンで勃たなくなるほど飲む馬鹿がどこにいるかって話だよ」
そして、奴は俺の額に指先を突きつけて、おもむろに言った。
「さてはおまえ、童貞だろ」
ピンポーン、大正解。
俺は床に崩れ落ちた。
「わ、わかる……? 見てわかる?」
「わかるわかる。もうバレバレ。女たちがLINEで『格好つけてバーなんか連れてっちゃって、童貞のくせに~』『あの歳で童貞? やばーい』って笑ってるのが手に取るように想像できるな」
俺の繊細な心はフローリングを突き抜けて、地底深くまでめりこんだ。
そうだ、俺は齢二十四にして童貞だ。
生まれてこのかた女の子と付き合った――ことくらいはあるが、キスより先に進んだ経験はない。それも唇で触れあうだけの小鳥のように軽いやつ。
大学卒業までずっと実家暮らしで、しかも自宅の一階で親がケーキ屋を営んでいたので常に誰かしらが家にいる状態だった。それどころか「バイトするくらいなら家を手伝え」と、外でアルバイトもさせてもらえず、学生カップルがキャッキャウフフするはずのクリスマスやバレンタインデーは目が回るほどの繁忙期ときた。
彼女はできても外で会う時間はなかなか取れず、家に連れ込みもできず、クリスマスが近づけば「イブにデートできないなんてひどいっ。私のこと好きじゃないのね」という言葉とともに振られるのが恒例行事。
そんな悲しみに満ちた青春時代を過ごし、とうとう就職と同時に家を出たのが昨年の春。しかし今度は「この歳で童貞」という事実が岩のように重くこの身にのしかかる。
同世代の童貞率や処女率をネットで調べては自分は決して異端ではないと言い聞かせるものの、出会う相手がお仲間なのかは見た目だけではわからない。経験者は誰しも内心では童貞を馬鹿にしているに違いないという不安から俺はすっかり卑屈になっていた。
同性とエッチな話になればネットや動画で見た知識で適当に話を合わせ、どうにかして自分が童貞であることを隠そうとする。女の子といい感じになれば「いよいよ俺も脱童貞か」と喜び勇むものの、いざとなると失敗が怖くてホテルや部屋に誘うことすらできない。完全な悪循環に陥っているのが。
「うっ」
遠慮のかけらもない叱責に改めて我が身の不幸を振り返ると、悔しさと情けなさで涙が出た。一粒こぼれると止まらなくなり、だらだらと目から生ぬるい液体があふれる。ついでに鼻水まで出てきた。
「どっ、どうせ俺は童貞だよ。経験者の振りして見え見えな童貞で、どうせ坂本も橘もわかって俺をからかってるだけなんだ。俺なんか一生エッチできずに朽ち果てていく運命なんだよ。これ以上追い詰めないで放っておいてくれ!」
床に突っ伏した俺がおいおいと泣き出すと、ふわふわ金髪が急に焦ったような声を出した。
「おい、待てよ。そんなことで泣くんじゃない、男だろ。大丈夫だ、童貞こじらせたくらいで人間まず死なない。おまえは顔だって悪くないしタッパもそれなりにある。あとはほんの一歩踏み出す勇気だけだ」
「その一歩が童貞には死ぬほど遠いんだよ! この辛さがおまえにわかるか!」
もはや逆ギレだと自覚しているが勢いは止まらない。俺は床を叩き、涙と鼻水を流しながらふわふわ金髪にわめき立てた。
ふわふわ金髪は面倒くさそうにひとつ大きなため息を吐いた。それから奴は非常識にも宙に浮かび、ベッドサイドまで漂って小洒落たレザーボックスに入ったティッシュを取って戻ってくると、俺の目の前にぽんと置く。さっきまでの流れだと「こういうインテリアセンスもいちいち童貞くさい」と嘲笑されそうなところだが、何も言わなかった。
「涙拭けよ。もちろん鼻水も」
「うん……」
ティッシュを取り、鼻をかみ、顔を拭く。
ああ、俺にもう少しの勇気があれば今ごろこのティッシュで拭いているのは涙でも鼻水でもなくザーメ……いやこれ以上はよそう。だがくだらない考えが筒抜けだったのか、ふわふわ金髪は引きつった笑いを浮かべたあとで、一度天を仰いだ。それからおもむろに俺の方を向き直り、一呼吸。
「呼ばれて飛び出て、じゃじゃじゃじゃ~ん」
いきなり高らかに言った奴は、至って真顔だった。
「ぶっ」
突然の間抜けなセリフに、俺は泣いていたことも忘れて思わず吹き出した。ふわふわ金髪は顔を真っ赤にする。
「笑うなよ。俺だってやりたくてやってるんじゃないんだから。さっきはあんまりにおまえが情けなくて馬鹿っぽかったから言えなかっただけで、これ、最初にやるのが決まりなんだよ!」
そう言いながら照れくさそうに柔らかい髪をかき混ぜる。
そうだ、いきなり罵声を浴びせられて、なんとなく話に付き合ってしまったが、一体こいつはなんなんだ。いぶかしげな俺の視線も気にせず、奴は床に転がったオナホを手に取る。
もちろんそれは俺のものだ。ヤれそうなのにヘタレて帰ってきてしまった自分が情けなくて、もやもやを晴らすために以前インターネット懸賞で当たったまま放置していたオナホセットのパッケージを開けて使おうとしたのだ。
本物のあそこそっくりの感触という謳い文句には大いなる魅力を感じ、しかし妙に潔癖なところがある俺は「初めてはやっぱり本物の女の子の中がいい。ていうかあんまりオナニーしすぎると中でイけなくなるっていうし」などとファンタジーと耳年増の悪魔合体的な思想を捨てきれず、今日の今日まで使う気になれずにいた。酒と傷心の勢いがなければこのオナホールは開封すらされずに朽ちてゆく運命だったのかもしれない。
一見スタイリッシュな雑貨のようなそれを手に取り、どういう仕組みになっているのか試しに穴に指を突っ込んでみたところ部屋中が煙に包まれて今に至る。
金髪は床に転がっているオナホのパッケージを拾い上げると、箱に書かれた説明文に目を落とした。
「えーっと、『初心者満足セット。お口の感触完全再現のフェラホールと、快感はあそこ以上のヒダヒダタイプ、タイトなホールに即昇天の締め付けタイプ。お得な三個セットにたっぷり使えるローション付き』」
「読み上げるな!」
耳を塞ぎたくなるような露骨な文句に思わず声を上げるが、意に介さない様子で奴はニヤリと笑った。
「おい。おまえは今日童貞喪失の機会を失った。実に運が悪い、というか愚かなことをした」
そして、続ける。
「ただ、おまえはそれ以上に運がいい」
「は?」
この惨めな状況で何が幸運なのかさっぱり理解できず、俺は怪訝な声を上げた。
「今日は満月。満月の晩にカップホールを使おうとした者のうち一億人につき一人にだけ特別な幸運が訪れるのだ。それはすなわち、愛と性を司るカップホールの精の召喚!」
奴が妙に力強く宣言したところで一気に涙も鼻水も引いた。ついでにわずかに残っていた酔いまでも引いていき、代わりに白けた気持ちがわきあがってくる。
「……おまえ、頭おかしいんじゃねえの?」
なんだ? 一体こいつは何を言っているんだ?
いまさらというにもほどがあるが、気味が悪くなって俺は座ったままズルズルと後ずさる。しかし、ふわふわ金髪もといカップホールの精は浮かび上がったまま、後退する俺にずいずいと迫り顔を寄せてきた。男のくせに奇妙に甘い、しかし不快ではない香りが全身から漂ってくる。
それから奴は不敵に唇を引き結んだあとで一転して破顔し、能天気な声を出した。
「おめでとう! おまえはこのカップホールの精から、童貞脱出のためのめくるめく手ほどきを受けることができる特権を授かりました。さあマスター、お名前を!」
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