Massospora hominis


Massospora cicadinaは、セミ(主に周期ゼミ)に感染することが知られている真菌性の病原体である。感染したセミは生きながら腹部を失い、代わりに病原体の胞子を詰めたプラグが現れる。感染後は不妊となるが、雌雄を問わず盛んに交尾に誘っては病原体をまき散らし感染を広げ、やがて死に至る。

(このお話は「Massospora cicadina」がもしも人間に感染するならば? の軽くホラーっぽいSSです)


「繁忙期だってわかってるのに呼び出しちゃって、ごめん」

 そう言う瀬尾の右手の指先はすでに白っぽい石灰質に代わり、かつて爪のあった部分からはすでにほろほろと白い粉がこぼれている、左手はもっとひどくて、もう手首のあたりまで白変が進んでいた。

 どこからどう見たってこれは「Massospora hominis」通称〈M〉の症状だ。

 一度発症したら助かることはないという、ここ最近世界を騒がせ――もしかしたら人を絶滅に追いやるのではないかと噂されている病気。

 動画や写真では嫌というほど目にしているが、実際に俺が〈M〉にかかった人間の姿を目にするのは初めてだった。それが誰よりも仲の良い親友だなんて、地獄でしかない。

「おい瀬尾、それ風邪ってレベルじゃないよな」

 できるだけ平常心を保とうと努めてはいるが、声はみっともなく震える。

 瀬尾から「体調を崩して仕事を休んでいる」というメッセージが送られてきたのは数日前のこと。たちの悪い夏風邪みたいにやられたみたいだけど、寝てれば治るよ、電話で話す限り確かに具合は悪そうだが大きな病気をしているようには思えなかった。

 なのに今朝になって急にどうしても会いたいだなんて……。体調が急変したのかとあわてて駆けつけてみれば、そこにいたのは変わり果てた姿の親友だった。

「あのさ、とりあえず病院に……不安なら俺、付き添うから」

 恐怖で逃げ出したい気持ちをこらえて俺は言う。だが当の本人は肉体が崩壊する痛みすら感じていない様子で、黒い瞳を蠱惑的にうるませる。

「大丈夫だってば。そんなことより……」

 そう言って瀬尾は俺に手を伸ばす。頬に触れた瞬間、指先が崩れて白い粉がはらはらと床に舞う。

 ――患者の体から剥離する石灰状の胞子には強い感染力があるため、接触してはならない

 いまや街中でうるさいほどに繰り返されている「〈M〉から身を守る方法」のアナウンス。俺はその一節を思い出していた。

 

 いまでは〈M〉と呼ばれるようになった奇病について最初に耳にしたのはいつだっただろうか。去年、あるいは一昨年。家飲みもぐだぐだになった真夜中に噂好きの仲間がおおげさな様子で話しはじめたのだ。

「なあ、南半球で新しい種類の伝染病が流行ってるって知ってる? セックスを通じてすごい勢いで広まってるんだって」

 治療法はなく、伝染性は極めて強い新型感染症。人々がパニックになるのを恐れて各国の政府も研究者もひた隠しにしているのだという。

「すげえの、ゾンビみたいに体がぼろぼろになるのに性欲だけはやばいくらい激しくなるんだってさ」

 それはまるきり怪談や都市伝説の語り口だったからその場にいた誰もが笑い飛ばした。俺も、もちろん瀬尾だって。

 セックスで伝染する致死性の病というだけなら他にも聞いたことがある。だが感染すればゾンビのように末端から体がボロボロになり、そんな状態にもかかわらず男女問わずセックスに誘いまくる病気があるなどと聞かされたところで、一体誰が信じるというのか。

「なんだよ、それ。新しいアメドラの筋書き?」

「あーありそう。ゾンビでエロネタっていかにもだよな。っていうか欧米ってなんであんなゾンビネタ好きなんだろ」

 だが、俺たちが酔っ払って軽口を叩いているその間にも、〈M〉はひそやかに拡散を続けていたのだ。

 

 世界の裏側で、ごくわずかな患者からはじまった〈M〉は国連も関与して各国が必死の封じ込め施策をとったにもかかわらず拡散を続けた。俺たちの住む極東の島国で最初の感染者が見つかったのはほんの数ヶ月前のことだ。

 第一号患者は港湾で働くひとりの男だった。そして見る見る間に広がっていった。感染初期の無症状の人間をうっかり入国させたからだという噂もあるし、ヒト以外の――生物や食品が媒介したのではないかという噂もある。誰もまだ真実を知らない。

 何しろ感染が爆発してずいぶん経つけれども、いまだに〈M〉については詳しいことがわかっていないのだ。

 真菌性の病原体でヒトに寄生する。ヒトからヒトへの極めて強い感染力を持ち、致死率は現在のところ100パーセント。感染経路は主に接触だが、患者の体から飛散した胞子に触れることで罹患したケースもあるようだ。もともとはどこからやってきた菌なのか、人間以外の中間宿主はいるのか。そういったことも何ひとつ定かではない。

 潜伏期間も短くて、異変は見た目にわかりやすい。体の一部、主に指先や足先といった末端部分から肉体組織が崩壊してゆき、失われた部分が石灰に似た白っぽい胞子嚢に置き換わるのだ。胞子嚢はちょっとした刺激で崩れて白い粉状の胞子を放出し、それに触れた人間に乗り移っていく。

「見た目でわかるんだから、患者や濃厚接触者を全部隔離すればいいじゃないか。確かに人道上の問題はあるだろうけど、そんなこと言ってられる場合か?」

 部屋で〈M〉について伝えるニュースを観ながら俺がこぼすのを聞いて、遊びに来ていた瀬尾は新聞を手に眉をひそめたっけ。あれはちょうど、国内第一号患者が発生したばかりの頃。

「人権無視だって批判されるレベルで隔離政策を取ってる国も多いけど、なかなかうまくいかないみたいだな。封じ込めも難しいらしい」

「難しいって、何が?」

「ほら、患者の行動面の特徴に〈性的にアクティブになる〉っていうのがあるから」

 真面目な瀬尾らしい控えめな表現だが、〈M〉が口の悪い若者のあいだでは「淫乱ゾンビ病」と呼ばれていることは周知だ。そしてその特徴こそが病原体の封じ込めを困難にする最大の要因らしい。

 性交可能年齢の人間が〈M〉に感染すると、男女問わずアピールをしてセックスに持ち込もうとする。それはもう、元々の人格からは考えられないほどあからさまで強烈な方法で。それは、より近い距離で胞子を付着させ感染を広げようとする〈M〉の生物としての生存戦略なのだろう。

 だが、それがどうした。感染者など閉じ込めて、なんなら拘束してしまえばいい。第一いくら生々しいやり方で誘われたからって、自分の命を危険にさらしてまで感染者とのセックスに応じるなどにわかには信じられない。

 ぶつぶつと疑問を口にする俺に、瀬尾は新聞を差し出した。

「感染者は性的に極めて魅力的に映る、って書いてある。それこそ隔離施設の職員がうっかり誘惑されてしまうくらいに」

 記事の該当箇所を指で示されて、俺はため息で答えた。

「だからなんだよ。いくら魅力的だって、ゾンビ化して体ボロボロ崩れてる重病人なんか抱けるかよ」

 そのときは、話はそれだけで終わったのだった。まさかたったの数ヶ月後に「俺」と「瀬尾」が当事者になるなどとは夢にも思わずに。

 

 今、服を脱いで崩壊途上にある肉体をさらす親友の体は奇妙にも艶かしい。

「おい、やめろよ。何やってるんだ? 体がやばいのはわかったから、とにかく病院行くぞ」

 シャツが床に落ちる。もちろん服を脱ぎ捨てるたびに少しずつ彼の指先は失われていく。

 つい半月前に友人たちと海にバーベキューに行ったときに、日焼け止めを塗り忘れた瀬尾はきれいに日焼けしてしまった。水着で覆われていた下腹部と腿を除けば全身が小麦色に焼けているから、なおさら〈M〉のせいで石灰状に白変した部分とのコントラストが際立った。ボトムと靴下まで取り去ると、彼の足先もすでに真っ白に変わっていた。

 全裸になった彼は、少しでも自らの崩壊を遅らせようとしているかのようにゆっくりと動き、話す。そして俺を誘う。

「ねえ、すごくしたいんだ。おかしくなりそう」

 潤んだ目に赤く濡れた唇。

 末端部分から病変が進むという〈M〉だが、性行為を介した感染を重視する病原菌の戦略のせいか性器には異変が見られない。真っ赤に色づいてすでに勃ちあがって、たらたらと透明な先走りに濡れるそれはむしろ、普通の男のものよりよっぽどみずみずしく、同性の目からも扇状的に映るくらいだった。

 長い付き合いだから瀬尾の肌を見たことは何度もある。同じ場所で着替えたり、友人グループで温泉旅行に行ったことだってある。だが、こんな姿は――。同性の親友が性的に昂って、しかも迫ってくるという異常事態に俺の頭は混乱した。

「お願い、抱いて欲しい。一回だけでいいから」

 瀬尾が一歩踏み出すと、俺は一歩後ずさる。これが噂に聞く「〈M〉の感染者が持つ不思議な魅力」なのだろうか。だとすればこの艶かしさも熱っぽい視線も、何もかもは〈M〉がさせていること。病原菌が瀬尾を利用しようとして彼の脳を操っているだけなのだ。

 これはもう、俺の親友なんかじゃない。

 すでに脳を乗っ取られて肉体は崩壊をはじめたゾンビ――だから甘い言葉に惑わされるんじゃない。自分に言い聞かせながら俺は必死に言葉を紡ぐ、

「駄目だ瀬尾、正気を取り戻せ。まだ白くなってるところも少ないし、もしかしたら病院にかかれば治療方法もあるかもしれない。おまえもやけにならずに……」

 出まかせの半分は時間稼ぎのため。でも半分は、俺自身が信じたがっている言葉だった。だって〈M〉の致死率は100パーセント。発症した人間の余命はほんの数日。そしてそのわずかな時間をただ相手を探してセックスすることに費やす。

 悲しい運命をわかってはいるけれど、瀬尾だけは、俺の親友だけは違うのだと信じたかった。虚ろな黒い瞳の奥にはまだ彼の心が残されているのだと――。

 俺を追い詰める足がふと止まり、瀬尾はふと悲しそうな様子を見せた。

「気休めを言うなよ。わかってるだろう、やけでもなんでもない。〈M〉に感染したらもうおしまいだって、子どもだって知ってるよ」

 絶望に満ちた表情と声色はまるで普段の彼が戻ってきたかのようで、俺を惑わせる。その指先は再び俺の頬に触れ、崩れ、それでもあきらめることなしに今度は首をかき抱こうとするのだ。

 逃げなければ。

 瀬尾に触れれば俺も〈M〉に感染する。

 頭ではわかっているのに、なぜ身動きできないんだろう。

 

「お願い、どうせ死ぬんだから一度だけ。こんなことにでもならなきゃ絶対に、抱いて欲しいだなんて言えなかった。ずっと苦しかったけど、他の人じゃどうしても嫌で」

 絞り出すような言葉に理性は飛んで、生死すら小さな問題だと思えてくる。瀬尾は〈M〉のせいでこんなことを口にしているのだろうか。俺が、何を犠牲にしたって目の前にいる男を抱きたいと思いはじめているのは、すでに〈M〉に感染しているからなのだろうか。

 狂おしいほどの肉体の渇きを抱えて、他の誰でもなく俺を呼んだ瀬尾。もっと手近な誰かではなく、俺がここに来てドアを開けるまで待ったのはせめてもの〈M〉への抵抗。

 何もかも、どうだっていい。

 瀬尾を抱き寄せ白い胞子にまみれながらその唇に口付けると、朽ちる直前の果実のような甘い香りにむせ返る。

 

(終)
2020.07.30

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