「お客様、何かお探しですか」
声をかけられた瞬間、心臓が飛び出しそうになった。万引きを見つかったとき人間はこんな気持ちになるのかもしれない、もちろんやったことはないけれど――尚人は店員に向かって精一杯の笑顔を浮かべた。
「え、えっとあの……大丈夫です」
尚人は今日初めてひとりで表参道駅で降りた。
洒落た格好で颯爽と歩く人々の間をうつむいて歩き、以前栄の買い物に付き合って訪れたことがある雑貨店に直行したが、なかなか店内に入る勇気が出ずにビルの前を何度もうろうろと行ったり来たりした。
少し前に付き合い始めた恋人である谷口栄の誕生日はもう来週。授業やアルバイト、そして夜も三日も空けずに栄と過ごしていることを思えば誕生日プレゼントを買うチャンスは今日しかなかった。
まだ友達同士だった尚人の誕生日に彼がさりげなく渡してきたカシミヤのマフラーは、これまで尚人が触れた中で一番柔らかくて軽かった。自分では決して選ぶことがない色合いにはひるんだが、巻いてみると意外なほどしっくり馴染んで会う人会う人に「いいマフラーだ」と褒められた。
セール品だったと栄は言っていたが、タグに書かれていたメーカー名で検索すると、出てきたのは尚人がこれまで使っていたマフラーが軽く十本は買える値段の商品ばかりで目を疑った。
都会育ちで洗練されたセンスを持ち、物へのこだわりが強そうな栄。そんな彼のお眼鏡に適うものを見つけるのは簡単ではない。いっそ直接本人に欲しいものを聞いてみようかとも考えたが、野暮な行為だと落胆されるのが怖い。
ここ数週間の尚人は、暇さえあればインターネットで「センスの良いプレゼント」を検索していた。しかし調べれば調べるほど広大な情報の海に溺れてわけがわからなくなってしまい、だったら栄のお気に入りの店に足を運んでみようと勇気を出したのが今朝のことだった。今日の栄はレポートのための調べ物があるからと図書館に行っている。一緒に行かないかと誘われたが、アルバイトをでっちあげて断った。
勇気を出して店に入ったものの、垢抜けない自分が場違いに思えて尚人は落ち着かない。
広々とした店内にならぶ服飾小物、インテリア雑貨――どれも栄に似合うような気もするし、どれも彼の好みとは違っているような気もする。美しくディスプレイされた商品に手で触れて良いのかもわからず途方に暮れていたので店員の手助けはありがたいはずなのに、うっかり「大丈夫です」などと心にもないことを言ってしまった。
「そうですか。何か気になるものがあったらお声がけくださいね」
尚人の愛想のない返事にもにっこりと笑い、店員の女性が会釈をする。彼女も間違いなく「あちら側」の人間だ。シンプルな白いシャツに黒いスカート。髪型だってごく普通のショートカット。ひとつひとつのパーツを見る限り珍しいものではないのに、どうしてこうも垢抜けているのだろうか。
店員の申し出を断った気まずさを打ち消すように視線を向けた棚にはキラキラと光るガラス製のリンゴの置物。何に使うかわからないそれに「17,800円」という値札が付いているのを見て頭がくらくらしてきた。
親からは一定額の仕送りをもらっているし、奨学金も受給しているが生活のすべてを賄うには心許ない。週に数日家庭教師のアルバイトをしている給料は生活費の穴埋めと、夏休みの研修旅行などの臨時支出のためのささやかな貯蓄に充てていた。
テーマパークや旅行といったいかにも恋人らしいイベントはまだ未経験だが、ちょっと遠出するための交通費や食事代など、ちょっとした出費の積み重ねも馬鹿にならない。恋人ができて初めて尚人は、恋愛にも金がかかるということを知った。
憧れの人と友達になれただけでも嬉しかったのに、その栄が尚人のことを好きだと言ってくれる。まるで夢のようだし、栄を喜ばせるためにはなんだってしてやりたいのだが――貯金を切り崩すにも限度があるし、そもそもいくら金を積んだところでセンスは手に入らない。改めて考えると小説や映画のような「身分違いの恋」という単語が頭をかすめた。
店内をうろうろと歩く。
他の店にも行ってみようか。栄と一緒に行ったことのあるインテリアショップが確か少し先にもあったはずだ。でも、数を見れば見るほど混乱して収拾が付かなくなってしまう気がする。
暖かそうなウールの手袋が目に入る。そろそろ秋も深まってくるから防寒具などどうだろうかと考えたそばから、尚人は昨冬に栄が高そうな革の手袋をしていたことを思い出す。あれと比べたらこの手袋は見劣りする。冬は勉強中に寒いかもしれないから膝掛け――北欧ブランドのものというブランケットの値段は三万円、とても手が出ない。一体これは、量販店で売っている数千円の毛布と何が違うというのだろうか。
こんなに悩まなくたって、優しい彼だからきっと尚人が何を贈ったところで、いつものように笑って「ありがとう、ナオ。嬉しいよ」と言ってくれるだろう。だって尚人だって、栄が自分のために選んでくれるものなら何だって嬉しい。いや、物なんてくれなくたって、栄が尚人を喜ばせようと思ってくれるだけで十分幸せなのだ。
それでもやっぱり尚人は、栄が本心から満足してくれる何かを贈りたいという気持ちを捨てきれない。友達になれただけで嬉しくて、恋人になったときには天にも昇る思いだった。その上、今では栄にもっとよく見られたいと思ってしまう。センスがないことは自覚しているのに、無駄にあがいてしまうことを止められない。
「欲張りなのかな」
つぶやいて、今頃図書館でレポートに没頭しているであろう栄のことを考える。夕食を一緒に食べる予定で待ち合わせているから、あと半日で会える。毎日のように顔を見て声を聞いているのに、それでも彼のことを思うたび甘くて幸せな気持ちになり、次に会う瞬間のことが待ち遠しくてたまらない。
不安と居心地の悪さにそわそわしながらも、こうして知らない世界に踏み出せるのは栄のおかげだし、尚人は日々少しずつ広がるまぶしい世界を楽しんでもいるのだ。
「あ……」
顔を上げると、アクセサリーコーナーのすぐ先に、文具ばかりを並べた一角があるのが目に入った。
あそこならば、手袋よりブランケットより、いつも栄の近くにいられるものが見つかるのかもしれない。急に足が軽くなったような気がして、尚人は一歩踏み出した。