「あ、そろそろ電話切らなきゃ。尚人は仕事行く時間だろ」
時計に目をやったのか、はっとしたように未生が言う。
ぎくりとしながらも、後ろめたいことを考えているわけではないのだからと尚人は平静を装った。
「え、ああ。そうだね、もうそんな時間なんだ」
片道約一時間の距離に離れて暮らす専業家庭教師の尚人と、学業とアルバイトに追われる大学生の未生。忙しい中でも時間を作って電話をしては、その日の出来事など他愛ないことを話し合うのは日々のささやかな楽しみだ。今朝は、未生が午前中にとっている講義が休講になったおかげでいつもより長く話をすることができた。
本音を言えば名残惜しい。尚人も今日はいつもより遅い時間に家を出ればいいからもっと話していられる。でも――それを告げることはできないから、尚人は喉まで出かかった未練をぐっと飲み込んだ。
「じゃあ、今週は金曜の夜に行くから。多分八時か九時くらい」
「もしかしたら僕の方がちょっと遅くなるかもしれないけど、できるだけ早く帰るから」
そして電話は終わってしまう。
寂しい。でも、今週末のことを考えると心は躍る。普段の未生は金曜の夜は夜通し居酒屋でアルバイトに励み、土曜の朝に疲れ果てた状態で尚人の住むマンションにやってくる。でも今週は特別だ。二人が恋人同士になって初めてやってくる未生の誕生日だから、バイトは休みにして普段より長い時間を一緒に過ごすことにしたのだ。
だから尚人は今日、半休を取った。家庭教師という仕事柄授業の予定を変更するのは簡単ではないが、社内の打ち合わせや事務仕事を調整すれば日中の時間を空けるのは比較的たやすかった。
何も知らない未生には、さもいつも通りに仕事に行く振りをして、尚人は彼のための誕生日プレゼントを買いに行く。
誕生日プレゼントには苦い思い出がある。
まだ学生だった頃、付き合いはじめて最初の栄の誕生日に尚人が散々迷って準備したのはブランドものの美しいボールペンだった。
自分自身は文具店やコンビニエンスストアで売っている数百円のペンしか使ったことがなかったのだが、ダークウッドとピカピカのステンレスが組み合わさった流線型のボールペンを見た瞬間、これは栄に似合うに違いないと思った。服飾雑貨ほど主張しないから、多少趣味と違っていても使ってもらえるのではないかという打算もあった。
一万円弱のボールペンを買うのは尚人にとっては清水の舞台から飛び降りるような気分だったが、それが栄のポケットに収まっている場面を想像すると金などどうだっていいことに思えた。
誕生日当日、包みを開いた栄はとても喜んでくれた――ように見えた。だが、以降尚人は栄がそのボールペンを使っているところを一度だって見たことがない。あるとき、栄が普段使いしている黒いボールペンのロゴマークを検索してみると、尚人が贈ったものよりはるかに高級で歴史のある筆記具メーカーのものだった。
それ以来尚人は、栄へのプレゼントを選ぶのをやめた。あらかじめ欲しいものを聞く、もしくはレストラン代を払ったりケーキを買ったりするいわゆる「消えもの」。そうやって贈ったものならば栄はちゃんと使ってくれたから、やっぱり自分のような人間にはセンスの良い恋人のお眼鏡に敵うものは見つけられないのだとあきらめた。
だから、プレゼントには懲りているはずなのに――。
本当はまだ迷っている。未生の趣味とかけ離れたものを選んで落胆させてしまうのではないか。だって、若い男の子が確実に喜ぶことならいろいろと知っている。たとえば焼肉をごちそうするとか、テーマパークに誘うとか。もっと無難な選択肢はいくらだってあるはずだ。
でも尚人は、最初の記念日に未生のために何かを選びたかった。
栄相手には失敗してしまったけれど、できれば自分の選んだささやかな品が、離れ離れのあいだも未生のそばにあって欲しい。だって本人にその気がない(と信じたい)にしても、周囲の学生たちからすれば未生はきっと魅力的だろう。お守り、所有の証、どう呼べばいいのかはわからない。ただ、自分の痕跡を少しでも未生に残していたい。
そんなことを思いながら、ときどき訪れるセレクトショップのドアをくぐる。この店を教えてくれたのは栄だという後ろめたさはあるが、尚人には自ら店を開拓する能力はないから許して欲しい。それにここは、学生時代金銭に余裕のない尚人のために栄が見つけてくれた店だから、未生の負担にならない価格帯の商品もあるだろう。
雑誌やテレビを見てはあれが欲しいこれが欲しいと口にする未生だが、あまりに頻繁なものだから「本当に欲しいものが何なのか」は掴めない。栄ほどこだわりが強くないし高級志向でもなさそうだが、尚人の目から見れば未生はおしゃれな今どきの大学生。趣味も世代も違っている。
「何かお探しですか」
店内を見て回っていると、店員が声をかけてくる。
今も垢抜けたとは言いがたい尚人だが、こういうやりとりにひるまない程度の経験は積んだ。それは十年という年月のたまものだし、いろいろな場所に連れて行って経験を積ませてくれた栄のおかげでもある。
「友人の誕生日プレゼントを探しているんですけど、どういうのがいいのかわからなくて」
素直に悩みを打ち明けると、店員はさりげなく尚人の全身を見回した。
「誕生日プレゼント……お相手は、お客様と同じくらいのお年ですか?」
「いえ、大学生の男の子なんですけど」
「ああ、弟さんかご親戚……」
自分が大学生にプレゼントを贈るとなると、相手は弟だと思われてしまうのか――赤の他人の言葉に、普段は気にしないようにしている年齢差を突きつけられたようで尚人の心はわずかばかりのダメージを受ける。だが相手に悪気はないことはわかっているし、いくら世の中が変わりつつあるからといって、ここで「いえ、恋人です」などと言えるはずがない。
「ええ、そんな感じです」
尚人は笑って首を縦に振った。
結局尚人は、店員のアドバイスも聞きながら通学に使えるバッグを選んだ。たくさんの教科書にラップトップも入れることができる収納力の割に、見た目はすっきりしている。ストラップが太めなので肩への負担も小さい。汚れや水を弾く加工もされているから実用性は十分で、変形ポケットにはちょっとした遊び心もある。
こんなにたくさんの荷物を持って大学に通ったことはないと肩こりを訴えていた未生も、このバッグを使えば少しは楽になるのかもしれない。
バッグは箱に入れてプレゼント用に包装してもらったから、あとは当日にケーキを買うだけ。店の目星はつけてある。
ショップの紙袋を手に尚人の心は沸き立つ。喜んでもらえるだろうか、今度こそ使ってもらえるだろうか。怖い気持ちもあるけれど、今の尚人ならきっとはっきりと言うことができる。「一生懸命選んだんだから、ちょっと趣味に合わなくたって使ってよ」と。
尚人は手帳のカレンダーページを開くと、かつてとは違う意味の×印を書き込む。待ち遠しい週末まではあと二日だ。