不審そうに目を細めて何度かラベルを読み返し、栄はおそるおそるといった様子で口を開く。
「羽多野さん、これって」
「ソーホー通ったついでに興味本位で入ってみたら、いい媚薬があるっていうから」
どこに、とはっきりと口にしなくたって「ソーホー」と「媚薬」のキーワードが揃えばおぼこい栄だって理解する。
「び、媚薬? あ! これ空っぽなの、もしかしてさっきの変な味……」
ガラス瓶を再度確かめたところで、栄の顔がさっと青ざめた。
ソーホーのセックスショップで買った媚薬はもちろんジョークグッズだ。おまじない程度の滋養強壮成分くらいは入っているかもしれないが、基本はただのハーブ・コーディアル。危ない物は一切入っていないことを確認の上で購入している。その上で羽多野はいたずらを仕掛けたくなったのだ。
単純な栄だから、それっぽいシチュエーションで媚薬を盛ったと言えば真に受けるのではないか。真に受けたとして、彼は一体どんな反応を示すのか。
たちの悪い冗談だとはわかっているが、好奇心には抗えず羽多野は栄にその媚薬は「本物」であると告げた。中身はさっきの「変わった味のウイスキー」にすべて投入したから、今はすっかり栄の胃の中にある。
「び、媚薬って……そういうの、何か良くない薬物が入ってたりとか。あなた、わかってますよね? 俺がどういう仕事してるか」
焦りと混乱と怒り。羽多野を睨みつけ強い口調で責め立てる栄をいなすように両手を前に出す。とりあえず第一関門は突破。真面目な恋人は羽多野の冗談を信じ込んでいる。
「わかってるって。違法なものは入ってないし、翌日にはすっきり抜けて、習慣性もないそうだ。ただ、特殊なハーブだったかマッシュルーム抽出成分だったか、とにかくすごく良く効くらしい」
そして、栄の瞳を見つめてゆっくりと、魔法をかけるように言う。
「どうだ、もうじき体が熱くなってくるんじゃないか?」
「え……」
羽多野の言葉に反応するように、真っ青だった栄の顔がぱっと紅潮する。怒りでいっぱいだった彼はようやく「媚薬」と呼ばれるものが一体何を目的として、どんな効果を持つかをはっきりと意識したのだ。
羽多野にとってはお遊び半分、賭け半分。くだらない冗談で人を担ごうとするなと叱られることも覚悟していたが、どうやらあの液体は十分プラシーボとしての役割を果たしてくれそうだ。
栄がぶるりと身震いする。
自分が「すごく良く効く媚薬」を飲まされたと信じていて、しかもそもそも多少酔った状態であったのだから――きっと心も体も素直に反応する。羽多野は勝利を確信した。
「羽多野さん、あなた最低です……」
憎まれ口を叩く栄の表情を見つめると、悔しさの中にすでに情欲が混じりはじめているようだ。目の端も少し赤らんで、眠そうにとろんと瞳が揺らぐ。
「たまには我を忘れて乱れるのも悪くないだろう。普段自制心の塊みたいな谷口くんに、俺からの誕生日プレゼント」
「ひどいじゃないですか。俺はあなたの誕生日プレゼント、真面目に選んだのに」
「俺だって真面目に選んださ」
どこが、と言った栄が、落ち着かないのかもぞもぞと姿勢を変えようとする。危ういほどに単純だと思いながら、羽多野はからかいの笑みを浮かべた。
「どうした、もぞもぞして。もう効果が出てきたか? ズボンの前が張ってきたようだけど」
「そんなことありません!」
顔を真っ赤にした栄はさっと股間のあたりに手をやり、そこを隠す仕草をした。しかしみだらな指摘はそのまま形のない愛撫として栄の肌を撫でる。羽多野の言葉で強くセックスを意識した栄の手の下で、敏感な部分は本当に形を変えはじめているに違いない。
「媚薬って俺は試したことないんだけど、どんな気分?」
「だったら人に飲ませず自分に使えば良かったじゃないですか」
「俺が飲んだら、君にむちゃくちゃしちゃうかもしれないけど」
「……もう十分、むちゃくちゃですよ」
憎まれ口と同時にこぼれ落ちる吐息が甘い。一体どこまで単純なのか、これだから危なっかしくて目が離せないのだ。手を差し伸べて指先で軽く頬をくすぐると、栄はくっと息を飲む。
「ねえ、どんな気分?」
顔を近づけて。唇が触れないように甘いささやきだけを耳に吹きかける。びくりと体を震わせる栄の体温がまたぐんと上がるのが、濃密な空気を通じて伝わってくるようだった。
「……わ、わかんない。なんか、熱いような、強い酒飲んだみたいな」
「で、触れてもないのに敏感な場所が反応しちゃうんだ」
「ああっ」
栄の注意が逸れたのをいいことに股間に手をやり、爪の先で一度だけ軽く布越しの膨らみを引っ掻いてやる。はしたない声を上げた栄は羞恥のせいかもどかしさのせいか、羽多野の腕を掴んで爪を立てた。
視線を動かすと、シャツの胸元にもぷつんと小さなふくらみが二つ。
「谷口くん、乳首も勃ってる。君、そこ好きだからな」
「そんなこと、」
ない、なんて強がったところで説得力のかけらもない。物欲しげなそこに触れてやろうか。でも、まだ早い。せっかくだから今日はいつもとは違う楽しみ方を試したい。
触れてきそうで、触れない。羽多野が自分を焦らそうとしていることに栄は気づいている。だが人並み以上に羞恥心の発達した彼はこういうとき素直に振る舞うのが苦手だ。肌を熱くして、乳首と股間を硬くしながら唇を噛んで耐えようとする姿が艶かしい。
「どうしようか?」
「どうするって」
自分からは動けない栄に、羽多野は遠回しに次の行動を促すことにする。
「君は濡れやすいから、もう下着が湿ってきてるんじゃないか? このままじゃ、一番いいスーツが汚れちゃうな」
栄の持っている中で一番高級かつ、お気に入りであるスーツは今日クリーニングから戻ってきたばかりだ。それに栄は今日の午前中、散髪にも行った。ちょうど伸びてきたから、と言い訳がましいことを口にしていたが、普段の周期からすれば半月も早い。特別な夜のデートに備えているのだと思えば悪い気はしなかった。
スーツが汚れる。しかも自分の体液で。潔癖の栄にとってそれは許せないことなのだろう。慌てたようにベルトに手をかけ立ち上がる。
「脱ぐ。脱ぎます……」
かちゃかちゃと音を立てベルトを外すと、そのまま躊躇いなくスラックスを下ろす。しなやかな筋肉に覆われた脚があらわになるが、きゅっと引き締まった尻はボクサーブリーフに包まれ、上の半分ほどはシャツで隠れたままだ。
「ほら、貸せ」
スラックスを受け取るとカウチの背に掛ける。こんな場所に避難させたところでしわになってしまい、結局またクリーニングに出すことになるかもしれない。だが「汚れる」という指摘も栄が自ら脱ぐ場面を見たいという欲望ゆえだったのだから、スーツなどどうなろうが構わない。
胸元を緩めたシャツ。そこから伸びる脚。何もかもがこの上なく扇情的に映る。まるで羽多野自身も媚薬を飲まされたかのように激しい情欲が体の奥から湧き上がるのを感じた。
腕を掴んで引っ張ると、栄が体を反転させる。座ったままの羽多野が少し視線を下げると、下着ごしにくっきりと浮き上がった勃起が目に入った。当てずっぽうの指摘は正しかったようで、ちょうど亀頭の先端あたりには小さな染みができている。
「谷口くんはすっかりいやらしくなったな、指一本触れてないのにがちがちに勃たせて、こんな濡らして」
恥ずかしい場所を隠せないように栄の両手首をしっかり掴んでから、言葉で嬲る。下着の膨らみがぴくりと震えて、染みがじわりと面積を増した。
「一年前は、ちょっと触っただけでプロレス状態だったったな。しかも、ぶん殴られた。紳士な君が本気で殴るとは思わなかったから、完全に油断してたよ」
「あそこに至るまでに、軽く百回は羽多野さんを殴るの我慢してたんです」
呼吸が荒い。堪えているようだが、腰はゆらゆらとわずかに揺れている。刺激を欲しがっているのか、欲情を逃がそうとしているのか。
衝動的に触れた、あの夜から二人の関係は変わりはじめた。羽多野にとっても想定外ではあった。何しろ苛立ちを持て余して、栄を傷つけてその尊厳を汚すことで少しでも気を晴らそうとしたのが最初の動機だ。
出会ったときからずっと壊してやりたいと思っていた相手を、羽多野は少なくとも何度か本気で壊しかけた。
「谷口くんは、強いよな」
仕事で追い詰めても最後まで逃げなかった。卑劣な行為で汚そうとしても高慢で潔癖な態度を崩さない。そして、隠していた過去がばれたことに動揺して逃げ出した羽多野を迎えに、一千キロの距離を超えた。
「嫌味ですか? 当たったのなんて最初の一回だけで、あとは避けられてばかり……」
羽多野の言葉の真意に気づかない男の見当違いなお喋りを止めようと、羽多野はそのまま姿勢を屈めて唇を膨らみに押し当てる。
「んっ……ああ」
鼻にかかった呻き声。それから長く甘いため息。栄の体全体がぐっと緊張をはらむ。
戒めた両手首を離して、代わりに腰を抱き寄せる。やり場のない両手を少しだけさまよわせてから栄は羽多野の肩を掴んだ。
緩く、優しく、布越しに根元の膨らみを唇で揉む。たっぷりと充溢したその中にあるものをすべて吐き出させて、それだけで許してやれるだろうか。
「はあ、あっ、ん」
陰嚢をしつこく弄びながら腰を掴んでいた手の位置をゆっくりとさげていき、弾力のある尻の肉を揉む。それから徐々に頭を動かし、硬く勃起した陰茎を唇でなぞり上げていく。脱がせる間がもったいなくて、栄のシャツに頭を突っ込むようにしながら茎を丹念に愛撫して敏感なくびれにたどり着く頃には、亀頭周辺の布地はぐっしょりと濡れそぼっていた。
「えっちな匂いがする」
「や、」
栄が嫌がるのを知って、わざとそこに鼻をこすりつける。鼻梁でこりこりと刺激してやりながら栄の匂いをいっぱいに吸い込み、続いて口を大きく開けて亀頭全体を含んだ。
「ふ、あっ」
匂いだけでなく、先走りの味が口の中に広がる。それだけでは足りなくて、羽多野は布に染み込んだ愛液のすべてを啜ろうとするかのようにじゅっと音を立てて吸い上げた。
「んん、羽多野さんっ、駄目だって。そんなにしたら……」
「パンツ脱いでもないのに、いきそう?」
腰を震わせながら、栄ががくがくとうなずいた。下着をつけたままで達するのが嫌だという意味なのか、刺激を弱めて欲しいという意味なのか、栄本人もきっとわかっていないだろう。
だが、羽多野は――。
視線の端に、投げ出された黒い箱と、ピンク色のリボン。「媚薬」を包んであったものだ。それを目にした瞬間またひとつ、いたずら心がうずいた。
顔を離して、栄の下着を引き下ろす。腹につくほど反り返ったものが弾けるように顔を出して、ぷるんと震える。真っ赤に充血して、陰嚢はぱんぱんに膨れて、確かに、このままではすぐにでも射精してしまうだろう。
「いつも谷口くんはさっさといっちゃって、俺のこと遅い遅いって文句言うよな」
「それは、あなたが遅いからっ」
「ずいぶんひどい言いようだな。まあいい、たまには俺がいくまで我慢してみようか?」
どうやって、という質問は言葉にならない。羽多野はカウチの上に落ちたままだったリボンを拾い上げると、栄の勃起したペニスの根元に巻き付けた。
「えっ、何……待って……」
制止の言葉を無視して手の中のリボンをきゅっと結ぶと、自ら解いてしまわないように再び栄の両腕を捕まえた。
「可愛いな」
「……っ!」
かあっと、栄の体温がさらに上昇する。
素肌に乱れたシャツと、靴下。そして勃起したペニスには愛らしいピンク色のリボンが蝶々結びされている。「媚薬」で興奮した彼がどこまで自身の姿を客観視できているかはわからないが、多少正気を失っていたとしても強烈な羞恥を感じるには十分すぎる。
そして、恥ずかしいと同時に、ピンクのリボンは栄の欲望の解放をせき止める。射精することができない以上、快楽も欲情も彼の体の中で高まり続けるしかないのだ。
「嫌だ、これ、取れよ」
「俺がいくときに、一緒にな」
両手を封じられた栄は、どうにかリボンを解こうと艶かしく腰を揺らす。しっかりと結び目を作られて、そんな動きで外れるはずがないのだが、今はそんな判断すらできないのだろう。羽多野としても予想外の痴態は眼福としか言えない。
射精こそせき止められているが、完全に尿道が閉じているわけではないので先端からはとろとろと透明な液――いくらか白濁も混じっている――が溢れ、たくましい血管の浮き出た茎を伝わっていく。
「解くなよ。おいたするようなら、手首を縛るぞ」
強く言い聞かせながら、かつて縛られた記憶を思い出させるように一度ぎゅっと両手首を強く握る。
「い、嫌だ……」
拒否の言葉は弱々しかった。
栄は、羽多野が決して冗談を言っているわけではないと理解している。ベッドの上は羽多野のフィールド。ここで「ルール」に従わなければ、より恥ずかしく惨めなお仕置きが待っている。気の強い彼は頭では決してそのことを認めようとはしないが、体はもっとずっと素直だ。
羽多野が手を離すと、一度もじもじと右手を股間に近づけて、しかし栄はぎゅっと拳を握ってそれ以上の動きを堪えた。
「いい子だ」
そう言って立ち上がり、羽多野は栄のシャツのボタンを外す。真っ赤に色づいた乳首をピンと指先で弾くと栄の体は喜びに震える。触れられることを知らなかった体を、ここまで育て上げた。
「はあ、んっ。ああ」
弾いて、指でつまんで、捏ねて、舐めて吸う。それだけで達するほどに敏感な部位だから、栄の戒められたペニスはますます質量を増す。
「やっぱり、解いてっ。怖いってば。こんなとこ縛ったら……血が止まって……」
「大丈夫だって、ちゃんと加減してるから。それに、ただでさえ媚薬でいつもより敏感なんだから、外したらすぐ一人でいっちゃうだろ」
「じゃあ、早く一緒に」
ペニスを縛られていることへの恐怖と、過剰な快楽は栄の理性をどんどん奪っていく。どうやら羽多野をいかせない限りこの異常な状態からは解放されないと気づいたのだろう。栄は潤んだ目で羽多野を見つめた。
「じゃあ、ちゃんとおねだりしてもらわなきゃ」
促すように言うと、栄はどうすべきか迷うように膝を揺らした。
「どこに欲しいのか、ちゃんと見せて」
羽多野の呼吸もすっかり荒くなっている。
栄の「おねだり」を待ちながらベルトを外し、ズボンの前を緩めると硬くなったペニスを取り出して二度、三度自らの手で扱いて見せる。吸い寄せられるようにそれを見つめる栄の目にあからさまな情欲が浮かび、ごくりと喉仏が動いた。
「大丈夫。今夜は何したって、媚薬のせいで谷口くんの本意じゃない。あえていうならそんなもの飲ませた俺が悪いってことだ」
その言葉は栄の頭の片隅に残っていた理性を消し去るには十分だったのだろう。「媚薬のせい」だから、今夜だけは何をやったって栄のプライドも品性も傷つきはしない――。
シャツのボタンはすでに一つを除いて外されている。だが、その最後の一つを外す余裕はないのか、栄は羽多野に背を向けた。カウチに片膝をついて、伸ばした両手で背もたれを掴む。中腰で、裸の尻を羽多野に突き出すような姿勢でシャツをめくりあげた。
「羽多野さん……」
死ぬほど扇情的な姿勢に、すぐにでも貫きたい。血流の増したペニスに疼くような痛みを感じながら羽多野はかろうじてこらえる。
「どこに?」
震えながら栄が息を吐く。そして、カウチの背もたれから片手だけ外して自らの後孔に触れると、人差し指と中指でぐっとそこを広げた。
「ここ、です」
「君……どこでそういうの覚えてきたんだ」
自分で煽ったくせに、いざ目にしたみだらで直接的な誘いの破壊力は予想以上だった。怒りにも似た激しい衝動が湧き上がり、もう我慢などできるはずがない。羽多野は栄の腰を掴むとひくひくと震える孔に剛直の先端を突き当て、先走りでいくらか入り口あたりを濡らしただけでろくに慣らしもせずに挿入した。
「ああ……んっ」
喜びと苦しさが混ざり合った声が栄の喉からこぼれる。シャツ越しに、ぐっと背中の筋肉が張り詰めるのもわかった。乱暴すぎた自覚はあるが、思いのほか栄の中は柔らかい。言葉だけでこんなにもとろけてしまうだなんて――たまらず腰を押し付ける。
「痛い?」
「……だ、大丈夫。それより早く……いきたい」
射精をせきとめられた焦燥は、乱暴なセックスすら快楽に変えるというのか。尻で存分に羽多野の欲望を愛撫すれば約束どおり「一緒に達する」ことが許される。きっと栄の頭の中はそれだけでいっぱいなのだろう。焦れて自ら腰を振る姿が愛おしい。
ぎゅっと背後から抱きしめると、散髪したての栄のうなじに鼻先が触れる。刈り上げたばかりの襟足の感触がざりざりと気持ち良くて、鼻をこすりつけるだけではたまらず舌で舐め上げた。
「何……それ、気持ち悪い」
「うそ、気持ち良さそうな声だしてる。それに髪も、今日のためにきれいにしてきたんだろ?」
栄の体中すみずみまで、すでに唇と舌で征服済みだ。しかし散髪したての襟足を舌で愛撫すると、こんなにも感じるというのは知らなかった。羽多野はまたひとつ栄の新しい性感帯を開拓できた喜びに打ち震えた。
「君は、本当に……抱けば抱くほど……」
飽きるどころか、深みにはまる。
この体には、この心には、この男には一体どこまで――。
羽多野は腰の動きを激しくする。
そして、一番深い場所に欲望を叩きつけようとする瞬間、手を伸ばして栄のペニスに絡む濡れたリボンの端を引っ張った。
「あっ――――っっ」
悲鳴に近い声は途中でかすれて消える。びゅっと手で大量の熱いものを受け止めながら、羽多野もまた呻き声を上げた。
*
「痛てて……これ、ちょっと本気で痛いな」
首を曲げて肩や背中の痛みの元凶を確かめようとする羽多野に、寝転んだ栄が冷たい視線を向ける。
「自業自得です。ぶん殴られなかっただけ感謝してください」
「確かに、顔が腫れるよりはましかもな」
結局あのままリビングで二回戦まで。いや、「媚薬効果」で栄は三度達したかもしれない。正面から抱き合うと、興奮した栄は羽多野の肩や背中に容赦なく爪を立てた。だが一番深い傷は肩口の噛み傷。疲れ果てた栄の体を洗ってやっている最中に「媚薬は嘘だった」と明かしたところ、がっぷり噛みつかれたのだ。拳だったら避けられた自信があるのだが、まさかお上品な栄王子が、歯形がつくほどの強さで噛みついてくるとは思わなかった。
ひっかかれた場所も噛まれた場所もひりひりと痛むが、これも恋人との夜の証だと思えば悪い気はしない。
「勲章だと思うことにするよ。もしくは俺のとっておきのプレゼントへの、君からのお礼」
「噛みつかれて喜ぶなんて、あなたって本当にドがつく変態ですよね。ついでにプレゼントの趣味も最悪」
罵りの言葉を重ねながら栄はひとつあくびをすると、ごろりと寝返りを打って羽多野に背中を向けた。時計の針はとっくに夜半を回っている。うまい食事と酒、そして「適度な運動」。快眠の条件は揃っている。
羽多野は身をかがめて栄の髪にうやうやしくキスを落とし、照明のスイッチに手を伸ばす。
「おやすみ、谷口くん。お誕生日おめでとう」
返事はない。恥ずかしがっているだけなのか、早くもうとうとしはじめているのか、暗くなった部屋の中では判断がつかない。だから、本当の誕生日プレゼントのことは、朝になってから話すことにする。新しいワインセラーの一番端に、見慣れないワインの瓶が置かれていることに、栄はまだ気づいていない。
「十年後がピークになるようなワイン? やっぱりボルドーかブルゴーニュじゃないかな。見繕うのは可能だが、ちゃんとした設備がないと熟成はできないよ。ワインセラーだってピンキリだから」
ワインショップの店主にそう言われて、羽多野は家庭用としては最高級のワインセラーを買おうと決めた。あくまで本当のプレゼントの「付属品」として。
栄は以前の恋人にもらったボールペンを十年も大切にしまっている。自分が何かを贈ったとして、栄はそれを十年も大切にしてくれるだろうか。どんないいものを選んだって初めての恋人からのプレゼントには敵わないかもしれない。
だったら嫌でも十年間大切にするものを選ぶまでだ。
だから羽多野はワインセラーの中に「十年後にピークが来る」ワインを置いた。比較的扱いが簡単な銘柄だから、良いワインセラーの中で丁寧に扱えば自宅保管でも、日本に輸送することがあったとしても問題はないだろうと店主が太鼓判を押した一本だ。
飲み頃のピークを迎える十年後――栄はあのワインを誰と飲むのだろう。できることならば二人で。もしそうでなくたって、少なくともグラスを傾ける瞬間だけは、栄は羽多野のことを思うだろう。栄の十年後の一時を自分のために予約する。結局誰のためのプレゼントだかわからないが、結局のところ贈り物なんて自己満足の手段なのだ。
このロマンチックな贈り物を、栄は気に入るだろうか。それとも「重い」と呆れた顔をするだろうか。待ち遠しい朝が早く来るように羽多野も目を閉じる。隣では栄が穏やかな寝息を立てはじめていた。
(終)