九月も下旬になって、ずいぶん日が短くなってきたと感じる。
そういえば羽多野がロンドンにやって来てなかば強引に栄の部屋に転がりこんでからも、じき一年が経つ。小さな諍いは絶えないながらも当たり前のものになった二人での生活は、ふとした瞬間に消えてしまう幻ではないかと疑いたくなることもたまにある。羽多野にとって自分が他人を求め一緒に暮らしたいと思うことは、そのくらい予想外のことだった。
「日が短くなってきましたね」
カーテンを閉めながら栄が言う。どうやら彼も同じことを考えていたようだ。
「俺のときは、一番日が長い時期だったからな」
羽多野の誕生日は六月、緯度の高い英国の夏至近くとくれば夜の十時になっても空はまだ明るい。長い時間をかけてワインとコース料理を楽しんでからレストランを出ても暗闇でないのは、確かに活動しやすいのかもしれないが風情には欠ける。
栄は今週、三十二歳になった。二人の年齢差はこれから九ヶ月のあいだ、八歳から七歳に縮まることになる。
何かと多忙なウィークデーにあわただしく祝うよりは週末にゆっくり、という点で意見は一致し、当日には軽い乾杯だけで済ませた。そしてようやくの土曜、食事を終えて帰ってきたところだった。
祝うような年齢でもないのだから大袈裟なことはしないでいいと栄は言うが、それが建前であることは理解している。なんせ初めての恋人からもらった初めての誕生日プレゼントを十年経っても手付かずで保管している男なのだから、重いだとか鬱陶しいだとか憎まれ口を叩かれるのは承知の上でやりすぎるくらいでちょうどいいのだ。
「美味かったけど、勘定かなりいったんじゃないですか?」
上着を脱いでネクタイを緩めながら栄が言う。
「それはお互い様だろう」
羽多野の誕生日は高級フレンチのコースをご馳走になったから、今日は寿司にした。さすが世界有数の大都市だけあってロンドンにはいくつも本格的な寿司屋や和食店がある。その中でも一番と言われる店を早めに予約しておいた。
日本からはるか離れた場所だけに食材に制約はあるし、値段は銀座や六本木よりもずっと高くなるが、異国の地で本格的な寿司が食べられるのは何よりありがたい。刺身、つまみ、酒、おまかせで値段は気にせず食べたので支払いはそれなりの額になったが、羽多野の誕生日のときも栄は奮発して高いワインを開けてくれた。
「それに、いくらいい酒を飲んだところで、ここで手に入る日本酒じゃ高級ワインの足元にも及ばないからな」
ワイン、という言葉に思い出したように栄が視線をキッチンに向けた。不満というよりは戸惑いの視線で冷蔵庫の隣に鎮座する「新しい家電」を眺めて口を開く。
「……羽多野さん、どういうつもりなんですか。あんなの買っちゃって」
今日の昼間に運び込まれたのはワインセラー。サイズこそ小さいがコンプレッサー式の、家庭用としてはかなり本格的なタイプだ。
「君だってワインは好きだろう? ワインセラー欲しいって言ってたじゃないか」
「そりゃそうですけど、まさかあんなものを誕生日プレゼントに買ってこられるとは思わないですよ。第一あれ日本に持って帰れるんですか? 海外の電化製品は日本で使えないって聞きますけど」
「電気代は多少かさむだろうが、50Hzだからトランス使えば大丈夫らしい。万が一ダメだったときは買い換えればいいだけの話だ」
「買い換える!?」
最高の寿司と酒でご機嫌だった栄のこめかみにぴくっと筋が浮いた。
言いたいことはわかっている。ロマンチストな彼はこの贈り物に満足していない。確かに栄はワインが好きで、過去にたびたび「ワインセラー欲しい」と口にしていた。だが、誕生日プレゼントに色気のかけらもない電化製品――しかも二年後の帰国時にはへたすれば処分する羽目になるようなものを贈るなんて――その目には落胆と軽蔑が見て取れる。
羽多野の誕生日に栄が選んだのは、プラチナにアレキサンドライトの飾りがついたシンプルだが美しいカフスボタンとネクタイピンのセットだった。散々悩んだあげく無難なものを選んでしまった、と悔しげにつぶやいたが、羽多野にとって一番の贈り物はその「散々悩んだ時間」であり、栄が与えてくれるならば本当は拾った石ころ一つだって嬉しいのだ。そんなことを口にしたらきっと「やっぱりこれじゃ不満ってことなんですね」などと怒り出してしまうのだろうが。
いくら甘い言葉をささやいても、独占欲をあらわにしても、栄が羽多野の心情を完全に理解することはないだろう。少年時代からずっと飢えて、渇いて、癒してくれる何かを探していた。それはもしかしたら幼い自分を傷つけた人々が当たり前のように手にするもの――語学能力であったり、学歴だったり、もしくは家柄や社会的地位のようなもの――なのではないかと、がむしゃらに手を伸ばしては、しかしどれも根本的な解決にはならなかった。
傲慢でわがままで、そのくせ高潔で健気な男に触れて、初めて羽多野は自分がずっと求めてきたものが何だったかを知ったのだ。彼を腕の中に捕らえて、支配して、支配されて、崇めて敬うと同時に辱める。この矛盾した欲望を満たすことが人生の喜び。四十年近く生きてやっとたどり着いた結論だ。
羽多野はちらりと自分の手首に視線を落とす。アレキサンドライトは昼と夜では色が変わる不思議な石だ。出かけた頃には太陽光の下で青緑色をしていたそれは、いまは室内照明に照らされ赤紫色に輝いている。六月の誕生石ということで選ばれたプレゼントだが、昼と夜、外と中で別の顔を見せるなんて、まるでどこかの誰かみたいだ。
そろそろ夜の顔が見たくなってくるが、羽多野の不埒な思惑に気づかない栄は恨みがましくワインセラーを見つめていた。
「そんな不満そうな顔するなよ。せっかくの記念日だからもうちょっと飲むか?」
羽多野の言葉に、はっとしたように栄の顔色が変わった。ワインセラーだって決して安い買い物ではない。人から贈られたものにけちをつけるのは品が悪いと思い直したのか、取り繕うように笑みを浮かべた。
「じゃあ、一杯だけ。さっきの店でもけっこう飲んだから、俺のはハイボールで薄く作ってください」
栄も酒は強い方だが、羽多野には付き合いきれないとよくぼやいている。確かに羽多野自身は「ざる」と呼ばれるタイプだ。
言われたとおり水割りは薄く。
だが、そこにほんの少しの隠し味を足す。それが羽多野の用意したバースデイ・スペシャルだった。
「薄くって頼んでもあなたはいつも言うこときいてくれないから」
何度も酒で丸め込まれた経験からか、栄は疑り深い。手渡されたグラスの中身をほんの少しだけ口に含んで、意外そうな顔をする。
「君は疑り深い。ちゃんと言われたとおり、ぼったくりバー並みの薄さで作ってあるよ」
そう言って羽多野は栄と並んでカウチに腰掛けた。ロックグラスに口をつけながら恋人の整った横顔をうかがう。どうだろう、酒が薄いから気づかれてしまうかもしれない。
「なんか、これ変わった味のウイスキーですね」
案の定、味覚の鋭い栄は不思議そうにグラスを眺める。羽多野は平静を装った。
「アイスランドで醸造された珍しい銘柄なんだってさ」
「ふうん」
出まかせは簡単に受け入れられた。ハイボールの刺激で違和感が和らいでいることに助けられたかもしれない。
今日の寿司屋の感想などをつらつらと語り合ううちに、栄のグラスの中身は無事空になった。
――さて、本番はここからだ。
羽多野は空きグラスを恋人の手から取り上げた。
「谷口くんさ、俺のプレゼントがあれだけだったと思ってる?」
「……違うんですか?」
疑念と期待の混ざり合った表情。もっとロマンチックな何かを期待しているであろう栄の目の前に羽多野は小さな黒い箱を差し出した。箱の封印は外れ、リボンもいかにも「結び直しました」といった感じで不格好。
「何ですかこれ、開封済みじゃないですか」
栄は怒ったようにぎゅっと眉間にしわを寄せて、怪訝な様子で箱を開けた。
「香水、の瓶?」
確かにちょうど香水くらいの大きさの、きれいに細工されたガラス瓶。だが中身は空っぽだ。からかわれていると思ったのかどんどん不機嫌さを増す栄の表情が――ボトルのラベルを読んだ瞬間、はっとしたように硬直する。
そこにははっきりと「LOVE POTION」の文字が刻まれていた。