羽多野が足を怪我した話 (01)

 その日、羽多野貴明は左足をプラスター・キャスト――つまりギプスで固定し、松葉杖をついた状態で帰宅した。

 仕事帰りに寄ったジムで思わぬアクシデントに見舞われたことも、そのまま整形外科に運ばれたことも、脚を白い石膏でぐるぐる巻きにされたことも、同居するパートナーの谷口栄にはまだ知らせていない。

「ただいま」

 玄関ドアを開けて声を掛けるが、反応はない。だが、このご時世、帰宅したパートナーを玄関まで出迎えるのは飼い犬くらいのものだ。出迎えがないこと事態は想定内だった。

 リビングに出向くまでの短い時間で、羽多野は帰りの道すがら頭の中で繰り広げてきたシミュレーションをもう一度復習する……つもりだったが片足が動かない状態で靴を脱ぐのは存外に難しく、それどころではない。

 壁に寄りかかるようにしながらゆっくり玄関に腰を下ろし、靴を脱ぐ。ついでにビニール袋に入れて持ち帰ってきたもう片方の靴――ギプスをつけたため必要なくなってしまった――をバッグから取り出していると、リビング側の扉が開く音がした。帰宅した気配はあるのに羽多野がいつまでもリビングにやって来ないことを、栄が怪訝に思ったのだろう。

「何やってるんですか? そんなところで座り込んで」

 それが、第一声。

 栄からはまだ、羽多野の背中しか見えてはいない。そして、きっと次の瞬間、視線を動かした彼は壁に立てかけた松葉杖の存在に気づく。そして、羽多野が投げ出した左足に分厚く巻かれた石膏にも。

 きっと一瞬くらいはうろたえただろう。澄ました表情が乱れ、その瞳には心配の色が浮かんだだろう。少なくともそう信じたい。

 だが、振り返るタイミングが遅れた羽多野の目に入ったのは、すでに「ギプスをつけて即日帰宅したということは、羽多野の怪我は深刻なものではない」こと、つまりそれは「何らかの失態による間抜けな怪我」であると確信した栄から向けられた冷え切った視線だけだった。

「……何ですか、それ」

 視線に負けないくらい冷たい声が投げかけられる。

「俺のせいじゃない。ジムで隣にいた奴がクソ重いプレートを落としたんだ」

 もうちょっとスマートな説明を考えてきたはずだったが、栄の初手が好戦的だったので、つい羽多野も棘のある返答をしてしまう。

 この怪我が羽多野自身によるものでないことは事実だ。ジムで近くに立っていた男が、ダンベルのプレートを取り替えようとして手を滑らせたのだ。その鉄の塊が不運にも羽多野の足の甲を直撃した。

 ……という事情は残念ながら、気難しく冷酷な恋人の同情を得るに十分ではなかったようだ。

「間抜けですね」と、一撃くらわせて、栄は続ける。

「第一、マシンや器具を使ったトレーニングって、ちゃんと安全な距離をとるように言われるでしょう? 日ごろ筋トレ上級者ぶって偉そうな顔してる割に、そんな基本もおろそかにしていたんですか?」

「それは……」

 ぐうの音もでない正論だ。だが、オフィス街のビルに作られたジムはそこまで空間に余裕があるわけでもなく、混み合う時間帯だとどうしたって他の利用者との距離が近くなる。だが、いくら切々と事情を訴えたところで今の栄は聞く耳をもたないだろう。

 だから羽多野は苛立ちを飲み込んで、言い返す代わりに栄の指摘を受け止める。

「その点は、こっちも悪かったと思ってるよ」

 実際、危険な動作をする相手の近くに立ったのがミスだと言われればそこまでだ。だから必要以上に怪我の原因を作った人物を責め立てることもなく、念のため連絡先を交換するにとどめた。医療費が保険でカバーできる範囲におさまるなら、あえて相手に請求しなくたっていいとすら考えている。

 羽多野がすんなり非を認めたことで、それ以上叱責する勢いを削がれたのか、栄は黙って床に座り込んだままの羽多野を見下ろす。その整った顔を見上げながら羽多野は場違いにも「たまにはこんな構図も悪くない」と思った。

 ほんの数センチではあるものの、羽多野は栄より背が高い。よって普段の視線はほぼ同じ高さもしくは羽多野が少し見下ろす構図になる。セックスのときだって基本は羽多野が栄を押し倒す。真下から栄を見上げるような姿勢をとることはほとんどなかった。

 羽多野が動きを止めたことを奇妙に思ったのか、栄が軽く首をかしげる。そして、怪我のせいで起き上がれないかもしれないという可能性に思い当たったのか、ようやく手を伸ばしてきた。

「いつまでそうやってるつもりですか?」

 差し伸べられた手を握りながら羽多野は笑う。

「いや、たまにはこうやって王子のご尊顔を見上げるのもいいもんだと思って」

 さっと栄の頬が赤らむ。極めつけのナルシストのくせに、いざ言葉にして褒められると人一倍はにかむ。続く憎まれ口は、ただの照れ隠しだ。

「馬鹿なこと言ってないで。玄関に座り込むなんて汚いから、そのスーツはクリーニングに出してくださいね」

「はいはい、谷口くんの仰せの通りに」

 ぐいと力をこめて腕ごと引っ張り上げられ、羽多野は右足に体重をかけながらなんとか立ち上がる。こんな風に手を取ってもらうことも、そういえば初めてかもしれない。

 すでに同居をはじめて一年ほどが経ち、見慣れた恋人の姿、当たり前になりつつある日常。しかしほんの些細なアクシデントで、あだまだ新鮮味を感じる余地はあるということか。

 たまには怪我も悪くないのかもしれない。羽多野はこっそりほくそ笑んだ。

 

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