羽多野が足を怪我した話 (02)

 ちなみに羽多野の怪我は、足の甲に重量物が落下したことによる中足骨骨折だと診断されている。

 鉄製プレートの側面が真上から直撃したため、瞬間的に受傷箇所にはかなりの力がかかったと見えて、レントゲンに映る足の骨は見事なほどぱっきりと割れていた。

 骨折の度合いとしてはなかなか派手なものである一方で断面は断ち落としたかのように美しく、患部を固定して安静に過ごせば四週間でギプスを外すことができ、数ヶ月の後には後遺症もなしにきれいに治癒するだろうというのが医師の見立てだった。

 職場には連絡を入れて、ギプスが外れるまでのあいだは、どうしても対面でのやり取りが必要な場合以外は在宅で仕事をする許可を得ることもできた。

 ……というわけで羽多野にとっては「最悪の中の最良」といって差し支えない状況なのだが、向かい合って夕食をとる栄は相変わらず冷淡だ。ひとしきり話を聞いた後で、グリルしたサーモンをさも不味そうに口に運びながらため息を吐く。

「俺の仕事だって、忙しいのに」

 これが不機嫌の理由の一端か、と羽多野は察する。

 栄はここのところ、複数の国際会議への出席やら英国政府との経済交渉準備やらで多忙だ。しかもそんな業務状況を一切勘案することなく日本からは根回しもなしに複数の調査訓令が送りつけられてきたとかで、昨晩もぶつぶつと文句を言っていた。

 要するに彼は、羽多野が怪我をしたことで世話の手間が生じたり、家事の負担が増したりするのではないかと懸念しているのだ。

 生真面目な栄がプレッシャーを感じること自体は理解できる――が、心配の言葉ひとつもなしに仏頂面とため息だけを見せつけられる羽多野としては実に切ない。というより腹立たしさすら覚えてしまう。

「……谷口くんに負担をかけるつもりはない。むしろ在宅勤務が増えるんだから、家事は俺がメインでやれるし、そんな不機嫌な顔するほどのことじゃないだろ」

「ずいぶんとご立派な心がけですけど、その足でどうやって? さっきだって玄関先に座り込んで靴脱ぐだけで何分かかりました? ひとりで立ち上がることもできないくせに」

「そんなの工夫と慣れでどうにでもなる。玄関には椅子を置けばいいだろ」

 そもそも羽多野がほとんど家で過ごすのであれば靴の脱ぎ履きも頻繁に生じるわけではない。重箱の隅を突くように責め立ててくる栄と、むきになって言い返す羽多野。毎度のことではあるが、やりとりはどんどんヒートアップする。

 そして行き着くところは――。

「言っておくけど、骨折は初めてじゃない。谷口くんの助けを借りなくたって日常生活くらいは何だって問題なくこなせるんだ」

 羽多野は思わずそう言い放っていた。

 一瞬驚いたように目を見開いた栄が、口の端をゆがめて笑う。

、こなせる?」

 羽多野はそこでようやく気づいた。

 プライドの塊であり――かつ、なんだかんだと世話焼きで主導権握りたがりの栄が求めていたのは「迷惑をかけずになんでも自分でやる」という宣言ではなかった。羽多野が膝を折って頭を下げて、いやなんならひざまずいて三つ指ついて「ご迷惑をおかけしてたいへん申し訳ありませんが、これから数週間あなた様の手助けなしには生きていけません。何卒よろしくお願いいたします」と懇願することに他ならなかったのだ。

 だが、売り言葉に買い言葉を重ねた今となっては、羽多野にとっても道化を気取るのはハードルが高い。

 実のところ学生時代にレスリングの試合で脛を折ったときは、当時付き合っていた彼女に全面的に世話をしてもらったのだが、そんなこと栄には口が裂けたって言えない。ちなみにその彼女はヨーロッパ系とヒスパニックの混血で、エキゾチックでセクシーな美人だった。若い男にとっては理想的な恋人だったが、しばらく後にパーティで出会った高木リラを本気で口説くことに決めた羽多野は自ら関係の解消を切り出した。……という話も、もちろん栄には決して知られてはならない。

「ああ、何だって自分でやる」

 羽多野は改めてそう宣言する。

 かくして不穏なまま夕食は終わり、栄がバスルームに向かうのを見送った後で羽多野はぎこちない動きでなんとか食器をシンクに運び、軽く水で流してから食洗機に放り込んだ。

 その日、羽多野は入浴を見送った。

 ギプスでほとんど覆い隠されているが、骨折した患部はひどく腫れている。最低でも炎症がおさまるまで数日は体を温めすぎないように言われている。バスルームで湯船のへりに腰掛けて、湯に浸したタオルで体を拭きながら、入浴許可が出た後の難易度も高いぞと覚悟する。

 かつて骨折したときも、数日後には体を拭くだけでは物足りなくなって、固定箇所を大きなビニール袋やガムテープで覆ってシャワーを浴びたが、バランスを崩して転びそうになったり、ビニールの隙間から水が入ってきたりで大変だった。せめて隣で見守り支えてくれる相手がいればいいのだが――それまでに栄の機嫌が直っているか否か、確率はおそらく半々だ。

 

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