羽多野が足を怪我した話 (13)

 久しぶりの放出は、栄の体に想像以上の快楽と衝撃をもたらした。真っ白になった頭で何も考えられないまま、満足げに口角を上げる男の姿をぼんやり見つめる。

 腹、胸、首元、そして顔にまで飛び散った飛沫を指ですくいとり、羽多野は慣れた仕草で口元に運んでいった。

 その隠微な振る舞いはいつだって栄に複雑な感情を与える。体液を飲み下されることへの羞恥と屈辱。栄のすべてを食い尽くそうとする羽多野の独占欲に対する、身が焦がれるような歓び。そして同時に――彼がなぜ他人の精液に執着してしまうのか、その理由を知っているがゆえの哀れみ。

 察しのいい男は栄が複雑な感情を胸に彼を見つめていることなど百も承知だろう。棘を失った振りをしているが、彼に深く根付いたプライドも傲慢さも完全には消え失せていない。そんな羽多野が栄の哀れみの感情を呼び起こし受け止めることに甘んじるのもきっと――なりふり構わず、ただ、つなぎとめておきたいから。

 こうして視線で、行動で示されると改めてたまらない気持ちになる。口喧嘩と意地の張り合いばかりの日々は、薄皮一枚めくればどれほど切実な感情に満ちていることか。もちろんその切実さは、栄の中にも存在する。

 もう誰とも深い関係を築くことはないと、外面を取り繕った姿以外を求められることはないとあきらめていた栄の醜く幼稚でどろどろとした内面を面白がって、笑い飛ばして、求めてくる物好きな男。

「本当に……」

 ようやく整いつつある呼吸の隙間から、思わず小さな声がこぼれる。まだ指に残る白い粘液を丹念に舌で拭いながら、続きを気にするように羽多野は眉を動かした。

 だが、栄はそれ以上何も言えなくなる。半ば無意識に口にしようとした言葉の続きは、裸の尻に当たっているものの熱く硬い存在感に気づいてしまったが最後、まっさらに消え去ってしまうのだ。

「本当に、何?」

 羽多野は続きを督促する。栄は首を左右に振って「忘れました」と答えた。

 考えてみれば、羽多野のような男が手で一度処理してやったくらいで「完全に終わる」はずがない。腹の上にまたがって乱れる恋人を見ているうちに再び漲るのはあまりに当然で、もちろんその熱はきっちりと栄に伝わってくる。

「なんだよ、たまには愛の言葉でも聞かせてくれるのかと期待したのに」

「……気が散るようなことする方が、悪い」

 とはいえ、わざと押しつけているというよりは単に場所が悪いのだろう。栄が羽多野の下腹部に座っているがゆえに、勃起したものがちょうど尻の割れ目に押しつけられる格好になるのだ。

 おそらく羽多野側に悪気はないのだろうが、栄としては彼を責める以外にない。気まずさからもぞもぞと尻の位置を調整しようとすると意図せず勃起を擦ることになり、羽多野は困惑したように顔をしかめた。

「でも、この状態で反応するなって方が難しいだろ。こっちは動けないから一応自制しようとしてるんだ。ほら、そういうふうに動かれると……」

「は? 俺のせいにするんですか?」

 反射的に言い返しつつ、本当は栄だってまずいと思っている。前を手で刺激してもらうのは気持ちよく、本来今日はそれだけで満足なはずだった。でも、こんなふうに後ろを擦られたら嫌でも別種の快楽を思い出す。もっと深くて、強くて、我を忘れるほどの。今の羽多野にはそれができないからこそ、今日は別の方法を選んだというのに。

 どうすべきかはわかっていた。

 互いの手で一度ずつ達して今日のところはおしまい。栄がさっと羽多野の体を下りればいい。どうしてもおさまらなければもう一度手で抜いてやったって構わない。そして、あとは完全安静。一週間も経てばギプスは外れ、きっと背中も治り、「お預け」は解除される。

 わかっているのに、そして普段ならば理性が勝って当然なのに――栄は動けない。久しぶりに肌と肌で触れ合って離れがたいというのはもちろんだが、それ以上に、自分でも意外な感情が芽生えていた。

 つまり、自由に動けない羽多野を相手にするという非日常的なシチュエーションは、栄にとって興奮を駆り立てるものだったのだ。

 そうこうする間にも、尻に触れるものは角度を増す。硬いものが粘膜の襞をごりっと擦り、栄は飛び上がりそうになった。

「……っ」

 はっと息をのんで体を震わせる栄に、羽多野は少し迷って切り出す。

「あのさ、もし谷口くんがなら、できなくもないと思うけど」

 なにが「できなくもない」かはわかっている。というか最初からわかっていたが、あえて考えないようにしていたのだ。羽多野が仰向けに寝転がって、脚を固定されて、背中も痛みで動かせない。それでも、やろうと思えばできる。

 だが、自分が羽多野にまたがった状態で、表情や動きすべてを見られながら動くなんてとても無理だと思っていた。羽多野も、まさか栄がそこまでするとは夢にも思わないから口に出さずにいたのだろう。だが、意外にも久しぶりの接触に栄も積極的で――何より互いに、このままでは終わりがたいと思っている。

「つまりさ……」

「言わないでください! わかってます!」

 言葉にされるとなお恥ずかしい。ただでさえ結局この場での決定は栄の意思に委ねられるのだ。逃げようと思えば今この瞬間に逃げることは可能なのだから、いつもみたいに「羽多野が強引だから」「流されたから」という言い訳はきかない。

 だが、栄は自分の後孔が、その奥深い内部が温度を上げ、ひくひくとうごめきはじめていることに気づいている。その熱は、欲しいものを得るまで決しておさまらないということも。

 恥と欲望の板挟みになり、途方に暮れて視線を泳がせた先に中途半端に扉が開いたままのクローゼットがあった。

 そういえばこの部屋ではさんざん恥ずかしいことをさせられた。ネクタイで目隠しされたり手首をしばられたり、膝抱きにされて揺さぶられているところを鏡越しに直視させられたり。ここにさらに、黒歴史を加えるなんて……。

 そこで、ふと思う。何をしたところで「羽多野に見えなければ」恥ずかしさは半分になるのではないか?

 黙ったまま体の上から下りる栄に、羽多野はあからさまに残念そうな顔をした。理性の勝利により栄が行為をやめることを選んだと思ったのだろう。だが栄はつかつかとクローゼットに歩み寄ると、ここしばらく使われていない羽多野のネクタイを数本手に取る。

「谷口くん?」

 わけがわからないといった様子の羽多野に背を向けたまま、栄は言った。

「羽多野さん。俺、いいこと思いつきました」

 

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