「谷口くん、喉渇いた」
「……」
返事の代わりに、わざとらしくガチャガチャと大きな音を立ててキーボードを叩く音が部屋に響く。
ちらりと視線だけ右に向けると、羽多野のベッド横にあるサイドテーブルにラップトップを置いて栄は何やら事務作業をしている。テーブルが低く椅子も小さいせいで、背中を丸めるようにして画面を見つめるしかなく、実に窮屈そうだ。
仕事はひと区切りついたところだと聞いている。今朝大使館に電話をしたときも、栄は今日「在宅勤務したい」ではなく「年休を取得したい」と言っていたはずだ。
つまり、今度こそ完全にベッドの上で身動き取れなくなっている羽多野の隣で、わざわざ不自由な姿勢で仕事に没頭している振りをしつつ要望を無視するのは――いかにも栄らしい嫌がらせに決まっている。
「谷口くん、忙しそうなところ申し訳ないが水を飲ませて欲しいんだけど」
さっきより大きな声で羽多野が要求を繰り返すと、美しい横顔を引きつらせた栄はバタンとラップトップを閉じ、ベッドの側に向き直る。ほら、やっぱり仕事なんてしていなかった。
「一日くらい水飲まなくたって、死なないですよ?」
冷ややかな視線とともに投げかけられる言葉は、あまりに残酷だ。
「……それ、マジで言ってんの?」
「大真面目です」と一度答えて、短い沈黙の後に栄は「まあ、さすがに一日は言い過ぎかもしれませんけど」と言い直す。
「一日に何度も何度もあんな大騒ぎ、羽多野さんだって嫌でしょう?」
栄の懸念は正論ではあった。
「それを言われると……」
今朝、たかがトイレに行って排尿するだけのために大の大人の男ふたりでどれほどの時間と労力を費やしたかを思い起こすと、羽多野は何も言い返せない。もちろん時間と労力に加えて、羽多野は着ているものが脂汗でびしょびしょになるほどの痛みも味わった。
再びベッドに横たわり、しばらく安静してようやく痛みは引いてきたが、数時間おきにあれを繰り返すのだと想像するだけで背筋が冷たくなった。
昨晩は、脚の怪我に加えて背中を痛めた羽多野の体に負担をかけないよう、栄が上になってのセックスを試みた――はずだった。
実際、栄は彼の性格からすれば異例なレベルの頑張りを見せた。その頑張りゆえに羽多野の興奮は限界値を超えて高まってしまい、最終的には大量のアドレナリンにより痛みを忘れた状態で激しく下から恋人を突き上げるに至ったのだ。
案の定、射精して数十秒後にはセックスの興奮と共に脳内麻薬の効果も嘘のように体から失われ、「うっ」という低いうめき声を最後に羽多野は今度こそ本当に動けなくなった。
「ったく、いい年して後先考えず、恥ずかしい」
羽多野を責める言葉を吐きながらも、栄の顔がかすかに赤らんでいるのはきっと自分が煽りすぎたという自覚があり、とんでもない痴態をさらしてしまった記憶も残っているのだ。彼にとっては名案だったはずの目隠しと拘束は羽多野の暴走を抑えるどころか興奮を高め、しかも一番恥ずかしいタイミングはしっかり見られてしまった。
「まあでも、知らなかったよ。谷口くんも三週間やんないと、あそこまで欲求不満ため込むんだな」
羽多野が冗談交じりに水を向けると、栄の顔は真っ赤に染まる。
「欲求不満って、誰がそんな! 俺は羽多野さんが手だけじゃ満足できないだろうって思って」
「俺の擦るだけでガチガチに勃起してたのは誰だっけ。第一悪いことだなんて言ってないだろ。健康的ってことだよ。こっちだって欲情してもらえるのは嬉しいわけだし」
「そりゃ、俺だって多少は……」
ふてくされたようなつぶやきに、思い出すのは、ずっと前。まだ議員秘書時代のこと。
その頃の羽多野にとって、お育ちが良く見目麗しいエリート官僚の谷口栄というのは、もっとも毛嫌いするタイプだった。仕事上の必要もあったとはいえ、多分に私情も込めて無理難題を押しつけ、いっそメンタルに不調をきたして潰れてしまえばいいとまで願った。
だが、想像以上に負けず嫌いで責任感の強い栄は、羽多野がパワハラまがいの言動行動を繰り返しても、業務上十分かつ誠実な対応を続けた。
そんな栄の姿に、憎しみだけではない感情を抱きはじめていた頃、偶然夜の街で彼を見た。
ネオンきらびやかな歓楽街を、異国にひとりで放り出された子どものように不安げに歩いている姿――勃起不全による失敗をおそれて恋人とのセックスレスが続いていた栄が、自身の男性能力を試そうと慣れない場所に脚を踏み入れようとしていたと知ったのは、後の話だ。
結局、羽多野が声を掛けてしまったことで気を削がれた栄はあの日、性的なサービスを提供する店に入ることはなく家に帰った。
もしあの日彼に声を掛けずにいたら、どうなっていただろう。もしも栄がそういう店でセックスへの自信を取り戻して家に帰っていれば――当時の恋人との関係を改善させていれば――。
いくら考えても意味のない「もし」の泡沫を、羽多野は脳内で片っ端からつぶしていく。
大丈夫。日々小さなけんかや言い争いを繰り返しながらも、栄はいまは羽多野の隣にいる。そして羽多野は決して彼を手放すつもりはない。セックスに苦手意識を持っていた栄があんなにも淫らに求めてくるのも、手間暇かけて心身の硬いガードを解きほぐしてきたからだ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、すっと顔の上にストローが伸びてくる。仰向けに寝た体勢から身動きできない羽多野のために、栄がグラスに入れたストローを口元に向けてくれたようだ。
「いいの? 水、飲んで」
さっきは「あんな大騒ぎするなら一日くらい水飲まなくとも」とひどいことを言っていたのに、結局栄は羽多野を放っておくことなどできない。
「干からびられても困りますから」
ありがたく水を飲んでいると、中身をグラスに移して空になったペットボトルを前に、栄はよからぬことを言いだす。
「……羽多野さん、俺いいこと思いつきました。もしかしたらこれ使えばトイレまで歩かなくて済むんじゃ」
「おい、さすがにそれはふざけすぎだ」
さすがにペットボトルを尿瓶代わりは笑えない。羽多野は声を荒げた。平気を装っているが、怪我続きも加齢のせいかと密かに傷ついてもいるのだ。これ以上プライドを折るようなこと、耐えられない。
「自分はいつも趣味悪い冗談ばっかり言ってるくせに、何マジギレしてるんですか。大人げない」
普段の羽多野なら気を悪くする「大人げない」という罵り文句を、とりあえず今日のところは「若い」という好意的な意味に変換しておくことにして何とか心を落ち着けた。
それにしても、栄が積極的に頑張ってくれるのは新鮮で刺激的で実にいいが――やられたらやりかえしたいのが羽多野貴明という男でもある。
ギプスが外れて、背中が完治するまであと一週間、いや十日?
そのときにはたっぷり昨晩のお礼を弾んでやろうと、羽多野はベッドの中で密かにプランを練りはじめる。どうせ寝たきりで動けないのだから、悪だくみの時間ならばいくらだってある。
(終)
2021.12.18 – 2022.02.27