スマートフォンの画面に目をやると、ホーム画面には「23:08」という数字が表示されている。
「まだ十一時か……」
相良尚人は思わずため息をこぼした。
仕事も趣味の研究――それも恋人の未生に言わせれば「仕事の延長だろ」と言われてしまうのだが――も充実している代償として、時間に追われる毎日。普段ならば「もう十一時」と感じるところだが、今日に限ってはやたらと時間の経つのが遅い。というか、さっき時間を確かめてからまだたったの十五分しか経っていないことに絶望してしまう。
テーブルの上には持ち帰った仕事の資料が広げてある。小テストの採点、授業の準備といった自身の受け持つ生徒に関連した作業。「事業部長」として担当している、不登校生徒向けコースの実績分析と今後の事業計画。大学時代の友人たちと月一でやっている勉強会でも、次回は発表を頼まれている。そういえば〆切は来週末あたりではなかったっけ?
つまり、やるべきことはいくらだってある。こういう隙間時間を利用して少しでも進めておきたいはずなのに、何もかもが手につかないのだ。
理由は、わかっている。
「そろそろ連絡がきてもいい頃だよなあ」
未生の大学最寄り駅から、尚人の住むマンションにやってくるための電車は、そろそろ終電が出た頃だ。なのにまだ「電車に乗った」という連絡が来ない。
五分おきに時間を確かめたり、新着メッセージを知らせるポップアップを見落としたのではないかとロックを解除したりを繰り返し、すっかり電池残量が少なくなったスマートフォンを尚人は恨みがましく睨みつけた。
大学生の飲み会だったら、おそらく開始は十九時。飲み放題つきのプランだったら二時間か、せいぜい三時間で一次会は終わるだろう。
飲み会嫌いの未生だから普段ならそこで「やっと終わった! 今から行く」と連絡を入れてくるし、まれに二次会に連れ込まれる状況に陥れば、その旨を知らせてくる。一見してわがままで気まぐれな今どきの若者のように見えて、未生はけっこうまめなのだ。
そのまめまめしさが、彼の本来の性格なのかはわからない。もしかしたらかつての尚人が、何時に帰宅するかわからない栄を毎晩待ち続け、心をすり減らしていたことを知っているから、あえて連絡をこまめに入れるようにしているのかもしれない。いずれにせよ、ありがたいことだと思う。
だが、そうやって甘やかされた副作用とでも言うべきか、いつの間にやら尚人はすっかり堪え性がなくなってしまったようだ。たまの飲み会で、盛り上がれば恋人への連絡を忘れることくらいあるだろう。わかっているのに、やきもきしながら時計やスマホばかり気にしてしまう。
そもそも、大学の同級生たちとの交流に後ろ向きだった未生に友人の重要性を説いたのは他ならぬ尚人だ。最初は嫌がる彼の背中を押して飲み会に送り出した。だから、未生が友達づきあいを重視したからといって文句を言える筋合いなどどこにもないのだ。
でも――。
「なんか、落ち着かないんだよなあ」
今日は週末。未生は飲み会を終えたらすぐに尚人の部屋にやってくることになっている。いつ連絡があるかわからないから、いつ未生が到着するかわからないから集中できない。いや、そんなのは建前で、本当はただ待ち焦がれているだけだ。
こちらは未生と過ごす週末をこんなに楽しみにしているのに、未生は飲み会に夢中で尚人のことなど忘れてしまったのだろうか。そんなことを考えてちょっとだけいらだち、寂しさを感じている。
「いや、こんなこと考えちゃ駄目だ」
寂しさは、正面から向き合うほどに増幅する。こういうときは気を逸らすに限ると自分に言い聞かせ、尚人は再び本を手に取るが、ずっと楽しみにしていた作家の新刊なのに呆れるほどに内容が頭に入ってこない。一ページ読んではスマホに目をやることを繰り返しているうちに、とうとう時計は日付をまたいでしまった。
なぜ今日に限って、未生からはうんともすんとも連絡がないのだろう。さすがに終電には間に合っていると信じたい。いや、連絡がないということは乗り過ごしてしまったのだろうか。
万が一にも急病や事故だったら? こちらから一度メッセージを送ってみようか。いや、電話の方が確実かもしれない。何度も頭をよぎるが、結局は実行には至らない。
尚人だっていい大人だから、病気や事故の可能性が低いことなどわかっている。盛り上がった飲み会の席で恋人への連絡をおろそかにしてしまうことも、終電を逃してしまうことも珍しくない。待たされる立場だから過剰に気にしてしまうだけで、まだ焦るような状況ではないのだ。
焦って連絡して、もしスマホの画面や通話内容を周囲に気取られたら未生が恥ずかしい思いをするかもしれない。それは避けたかった。
悶々と悩んだ末に、尚人はひとつの判断を下した。
「寝よう」
そう、こういうときはひとまず寝て忘れるのが一番だ。きっと未生は今ごろ二次会を楽しんでいる。
枕元にスマートフォンを置いておけば連絡があればすぐに目覚めるし、未生には合鍵をわたしてあるから、もし彼が終電に乗っていたのならば勝手に鍵を開けて入ってくることもできる。
半ばやけくそな気分で、尚人はテーブルを片付けもしないまま寝室に行った。今日は未生と一緒に眠るつもりだったから、ひとりきりで横たわるベッドはやたらと広く冷たく感じた。