「でさ、その指導担当が最悪で。この先やっていけないかもって自信なくしちゃったんだよねぇ」
「ええ~っ。そんなこと言わないで一緒に頑張ろうよ! ねえ、笠井くんもそう思うよね!」
「……え? ああ、うん」
愚痴混じりではありつつも楽しげな周囲の話を適当に聞き流しながら、未生は時計ばかりを気にしている。
試験や研修で多忙を極めた時期をようやく乗り越え、ようやくセットした久しぶりの飲み会だからとしつこく誘われ渋々参加を決めた。
だが、なぜよりによって週末の夜なのだろう。普段ならアルバイト先で一稼ぎしている時間帯に、稼ぐどころか金を払って、目の前に並ぶのは学生向け飲み放題プランにありがちな冷食と安酒ばかり。
どうせバイトを休むならば、せめて一時間、いや一分でも早く電車に乗って、恋人と過ごす時間を増やしたいのが正直なところだ。
とはいえ未生だって、入学当初と比べれば別人のように協調性を身につけた。尚人に言われたとおり「充実した大学生活」は学費と勤勉さだけでなく、周囲との協力やコミュニケーションが必須。困ったときはお互い様で、ノートや録音資料の貸し借りはもちろん、講義や研修の情報交換。さらには今周囲で繰り広げられているように、同じコースで同じように学んでいるからこそわかりあえる悩み、こぼしあえる愚痴もある。入学当初のまま未生が孤立を選んでいたならば、きっと学生生活はずっと困難だったろう。
結局のところ、尚人はいつも正しい。
頭の良さ、思慮深さ、年の功。きっとどれもが理由だ。ぼんやりとして単純で、ちょっと天然で……出会った当初は頼りなく思えていた彼はいつの間にか未生にとっては、愛おしい恋人であると同時に、なくてならない羅針盤のような存在になっている。
人の良い笑顔を思い浮かべると、胸のあたりに温かさと寂しさがじんわり広がる。会いたい。先週末も一緒に過ごしたし、毎日電話で話もしている。でも、すぐにまた、たまらなく会いたくなる。
たまの逢瀬ゆえに新鮮味が失われないメリットはあるのかもしれない。互いの仕事に学業、未生の経済的な事情を思えば今の距離感が適切だというのも、頭では理解している。でも若い未生にとって恋人と過ごせるのが週に一度というのは寂しく、物足りない。
「……でさあ、毎日会いたいって言うからバイトの後もわざわざ家に行ってるの。正直めんどくさい」
「いやそれ、のろけでしょ」
反対側の女子学生達の恋愛トークが耳に飛び込んできて、未生は小さくため息をつく。毎日会いたくて、実際会えるなんて、贅沢すぎる悩みだ。
「おい、なんだよまた退屈そうな顔して」
「うわ……っ、なんだ篠田か」
背後から突然肩を叩かれると同時に心の声を正確に代弁されて、心臓が飛び出そうになる。驚いて未生が振り返ると、酔いで顔を真っ赤にした篠田がいた。離れた場所に座っていたはずだが、トイレついでに未生の隣に移動してきたらしい。
「どうせまた『こんな退屈な場所からさっさと逃げ出して彼女のところに行きたい』って思ってんだろ。わかってんだよ、笠井の考えることくらい」
「おい、酒臭ぇよ。顔近づけんな!」
篠田はさして強くないのに酒好きだ。それに加えてサービス精神旺盛な男なので、こういった席では場を盛り上げようとして序盤から必要以上にペースを上げてしまうのだ。酔っ払いを嫌悪する未生だが、篠田の気の良さを知っているだけに、どうにも憎めない。
「え~、いいじゃん笠井も一緒に酔っ払いになろうぜ」
無理やり隣の女子との隙間に体をねじ込んで居場所を確保した篠田は、相変わらず安酒のにおいをぷんぷん漂わせながらビールのピッチャーを手にした。
未生はあわててその手を止める。実のところまったく飲めないわけでもないのだが、酒も酒を飲む人間も苦手なので未生は周囲には「下戸」でとおしている。
「いやいや、俺全然飲めないから」
「そんなこと言うなよ。親友の酒が飲めないのか。寂しいじゃないか」
――前言撤回。「どうにも憎めない」どころかこいつはクソめんどくさい絡み酒タイプの酔っ払いだ。未生は酒臭い息を吹きかけてくる篠田から体を反らして逃げを図りつつ、手近にあった烏龍茶のグラスを手にする。
「俺はこれでいい。こっち飲んでるから!」
そう言って勢いよくグラスの中身をあおって――次の瞬間、まずは鼻に抜ける消毒薬のような香り――続いて、喉が焼けた。
「!?」
ぎょっとしてグラスを凝視する未生に、誰かの声が聞こえた。
「ちょっと笠井、それ俺のウイスキーなんだけど、大丈夫か?」
*
「お客さん、終点ですよ」
肩を揺さぶられて、はっと目を覚ました。どうやら電車の中で眠ってしまっていたらしい。
「あ、すいません……」
頭も体もまだふわふわしている。さっきまで大学近くの居酒屋にいたはずなのに、いつのまに電車に乗ったのだろう。酔っ払い学生を迷惑そうに見つめる鉄道員に頭を下げて、ふらつく足で未生はホームに出た。
見慣れた風景。壁には「中野富士見町」の文字。よくわからないが、いつの間にか飲み会は終わり、自分は電車に乗って尚人の住む街までたどり着いたらしい。
終電近くの丸ノ内線新宿・荻窪方面のダイヤは複雑だ。荻窪行き、方南町行きに加えて新宿止まり、中野坂上止まり、そして車庫のある中野富士見町止まり。うっかり別の電車で寝入っていたら、今頃は貧乏学生にとっては贅沢すぎるタクシーを拾う羽目になっていただろう。
「ふふ、俺、天才だな」
眠くてたまらないのに、妙に高揚した気分でもある。通い慣れたルートで正しい電車に乗ることができただけなのに、自画自賛の言葉をつぶやいて未生はひとり笑った。
地上に出て、生ぬるい空気の中、尚人のマンションへ歩く。そういえば電話もしくはメッセージは入れただろうか。記憶が定かではないが、スマートフォンを取り出して確かめることすら億劫に思えた。それに、もし尚人が寝ていたって、自分の手には合鍵がある。というか、もらって以降使う機会のなかった合鍵で、今日こそあの部屋のドアを開けてみたい気がする。
エレベーターに乗り、インターフォンは押さないままに合鍵で玄関ドアを開けた。驚いた尚人が飛び出してくるかと思っていたが、玄関は暗く、室内はしんと静まりかえっていた。
「尚人……?」
スニーカーを脱いで、邪魔な荷物は玄関に置き去りにした。よくよく考えれば先に寝ていてもおかしくない時刻なのだろうが、普段の半分も働いていない未生の頭ではそんな複雑なことは考えられない。
待ちわびた週末。待ちわびた逢瀬。ただ今は一秒でも早く尚人の姿を確かめたい――そんな思いでリビングを抜け、寝室にたどり着き、ベッドで眠る恋人の姿を見つける。
真夜中の侵入者にも気づかず、ベッドの上ですやすやと寝息を立てる姿。無防備な寝顔を見た瞬間たまらない感情がこみ上げて、未生は上から覆い被さるように尚人を抱きしめた。