夏の夜の(奇妙な)夢:(5)未生

 むかむかとした気分の悪さで目を覚ますと、追い打ちをかけるように頭痛が襲ってきた。

 まず頭に浮かんだのは「風邪でもひいただろうか」という考え。朝の講義には出られないかもしれない……、今日のアルバイトの予定は……、と痛む頭を巡らせながら、枕元に置いてあるはずのスマートフォンに手を伸ばしたところで、未生ははっとする。

 スマホがない。それ以前にベッドが広くて寝心地が良い。つまりここは狭いワンルームにシングルベッドを押し込んだ自分の学生用マンションではないということだ。

「未生くん、起きた? 具合はどう?」

 次の瞬間、心配そうな声とともに、横たわったままの未生の上に恋人の影が落ちる。

「……尚人」

 そう、間違いなくここは尚人のマンションの寝室。いったいいつの間に? そして今は何曜日の、何時だ? 未生は記憶をたぐり寄せる。

 昨晩は大学の飲み会のためにアルバイトを休んだ。一次会が終わると同時に尚人の部屋に直行して「普段よりも長い週末」を満喫するつもりで店の中でも時計ばかり気にしていたことは覚えている。

 それから確か、篠原がウザ絡みしてきて――勧められた酒を断るため烏龍茶を口に入れ、違和感にむせたところで記憶はぷっつりと途切れていた。

「なんか気持ち悪い」

 絞り出すようなつぶやきに、嫌なにおいが混じる。

 知っている、これは二日酔いのにおい。正確にはアルコールが分解されて生じたアセトアルデヒドのにおいである――ということは今の大学に入学してから知ったことだ。

 だが未生は酒は嫌いだし、二日酔いするほど飲むことなど人生で一度としてなかった。

「二日酔いかな? 気分が悪いなら無理に動かない方がいいよ。待っててお水持ってくるから」

 未生が昨晩酒を飲んだことを既に承知している様子の尚人の身なりはすでに整っている。いつのまに起きて着替えたのだろう、まったく気づかなかった。というか、そもそも未生には尚人の隣で寝ていた記憶すらない。

 遅寝してしまったのか、カーテンの向こうはもう明るい。その光すら未生の目や脳をちくちくと刺すように不快だった。

 記憶を失うほどに泥酔しながらなんとかここにたどり着き、ベッドに倒れ込んだまま気づけば朝になっていた――未生が想像した昨夜のストーリーはそんなところだ。

「はい、お水」

 やがて戻ってきた尚人は、水の入ったグラスを差し出してきた。その顔には落ち着かない、未生の反応を伺うような気配がある。

 酒嫌いの未生が二日酔いするほど飲んだことをいぶかしんでいるのだろうか。いや、もしかしたら尚人を用心深くさせるような何か、つまり粗相をしてしまったのかもしれない。突然のアイデアに未生の気は重くなった。

「ごめん。よく覚えてないんだけど、俺酒飲んじゃったみたい。いつここに着いたかも全然覚えてない」

「……うん。二日酔いならお水飲んで寝てればそのうち治るから、大丈夫だよ」

 なぜだか尚人は未生の言葉に、ほっとしたように表情を緩める。

 二日酔いを心配するならば、記憶をなくすほど飲んだことをもっと心配してもいいはずだ。それどころか身の程知らずな飲み方をするものではないと、「尚人先生」モードになって小言のひとつあったっておかしくない。不可解な反応だ。。

「俺、何時くらいに来た? 終電?」

「えっと……多分そのくらいかな」

「大丈夫だった? うるさくするとか、なんかうざい絡み方するとか……」

「ない!」

 なぜだか尚人は前のめりで、噛みつくように未生の言葉を否定する。

「あ、あの、そういうのは全然ない! 僕も、えっと、先に……そう、昨日は疲れてて先に寝ちゃってたし……」

「あ、そうなんだ」

 一体何をしどろもどろになっているのだろう。不思議に思いながらも未生は改めて自分の状態を確かめた。

 デニムとベルトはハンガーに吊してある。未生が脱ぎ捨てたものを尚人が掛けてくれたのだろうか。着ていたシャツが見当たらないが、浴室の方から洗濯機の音が聞こえてくるので尚人が洗ってくれているのかもしれない。

 身につけているのは下着だけだが、奇妙なことに、この部屋に置いてある「お泊まり用パンツ」に履き替えてあった。そういえば汗をかいていたはずなのに体もべたべたしていない。

「俺、シャワー浴びてた? でもその割に頭は……」

 髪の毛や頭皮には若干の気持ち悪さが残っていて、シャンプーをした感じではない。自分は泥酔してここにたどりついてから、体だけ洗って着替えたということなのか。だが、女でもあるまいしシャワーは浴びるが髪は洗わないという選択肢は、普段の未生にはない。

 奇妙この上ない状況ではあるが、亡き母が酔っ払ったとき、素面の状態からは考えられない言動行動に出ていたことを思えば、こういうものなのかもしれない。アルバイト先でも、店に入ってきたときはいかにも真面目そうに見える客が、酔えばまったく異なる姿を見せることは多い。それをストレス解消と思う人間もいるのかもしれないが、未生にとって記憶のない一夜は不安で深いだ。

 いや、不快は不快だが、そういえば全身が不快というわけでもない。これだけ気分が悪く、頭も痛いにもかかわらず下半身だけは妙にすっきりしている。朝勃ちすらしていない。

 もしや風呂場で酔っ払って自慰したとか?

「うわーっ、もったいねえ!」

 大声を出すと同時に激痛が頭を締めつけ、未生はがっくりと枕に顔を埋める。

「ど、どうしたの未生くん」

 突然の奇声に、尚人も明らかに動揺していた。

「俺、今週末は長く一緒に過ごせるから尚人といちゃいちゃしようと思って、ここ数日オナ禁してたのに……」

 その我慢の結果が風呂場での無駄撃ちだとすると、あまりに虚しい。くだらないことだとわかってはいるが、未生は本気で落胆した。しばらく本気でへこんで、それからかすかな期待をかけて尚人に問う。

「なあ尚人、俺、本当に何もしなかった?」

 もちろん自分が記憶をなくして尚人を襲うようでは困るが、だからといって一人寂しく風呂場で処理したというのも若い男としてはあまりに情けない。

 視線を合わせると、尚人の目が一瞬泳いだ。

「な、なんでそんなこと言い出すの」

「いや、そりゃ正体なくなるまで酔って尚人に襲いかかったんだとしたら、それはそれで最低なんだけど……でも、何もなかったとしても、それはそれで、みたいな……」

 妙な話をしている自覚はあるので言葉がしどろもどろになる未生を眺めながら、不思議なことに尚人からは徐々に不安の気配が消えていくようだった。最終的には手を伸ばし、横たわったままの未生の髪を撫でて微笑む。

「大丈夫だってば」

「いや、全然大丈夫じゃない」

「どんなに酔っ払ったって、未生くんはひどいことなんかしないし、僕を怖がらせたりもしないよ」

 その言葉自体は、未生に大きな安心を与えてくれる。

 だが何かがおかしい。何かが怪しい。そういえば下着どころかシーツだって糊がきいてぱりぱりだ。これは未生との夜に備えて、洗濯したてのものを準備したから?

 もし、もしも未生が酔っ払って部屋を訪れて欲望のままに尚人に迫ったのだとしたら――。その後、尚人が眠り込んだ未生の体を拭いて着替えさせて、シーツまで替えてくれたのだとしたら――。

 頭に浮かんでくるイメージは妙に詳細で、生々しい。

 確かに尚人は嫌がってはいない。むしろその逆というか……ノリノリに応じてきて……いや、こんなのはただの妄想。しかもかなり未生にとって都合の良い想像だ。

「記憶がないって、怖いし気持ち悪いな」

 こういうときの尚人がおそろしく頑固であることを知っているし、自分の粗相が原因であるだけに、昨晩のことをしつこく問い詰めるのも気が咎める。

 とりあえず尚人が怒っていないどころか、むしろ上機嫌に見えるのは救いだ。だが、もし未生の妄想が現実に近いものだったとしても、泥酔のせいでとても「おいしい」シチュエーションを逃してしまったことになる。

 怖いような、もったいないような、複雑な気分で未生は決意する。

「やっぱり俺、これからも絶対に酔うほど酒は飲まない」

 

 終
2022.08.04 – 2022.08.27

 

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