議員会館にて(前編)

 ――これを手に取るのは、耐えがたい。

 昼どきの混雑時が去り閑散としたコンビニエンスストアの棚の前に立ち、谷口栄は頭の中でつぶやいた。

 鏡などなくても、今の自分が職場ではまず見せることのない不快そうな顔をしていることはわかる。

 周囲をよく確認してから棚に近づいたから、知り合いに遭遇することはないはず。とはいえ、もしも今の栄を同僚の誰かが目撃したとしても、声をかけることはせずそっと立ち去るだろう。そして、庁舎に戻って周囲と噂するのだ。谷口さんがあんな顔していたなんて、レクでよっぽどひどい詰められ方をしたに違いない、お気の毒に、と。伊達に人徳を積み上げてきたわけではないのだ。

 実際のところは、栄をしかめっつらにしているのは十分ほど前に宿題なしで円満に終了した議員レクのせいではない。

 問題は、目の前に居並ぶセンスゼロどころかマイナスの最低最悪田舎趣味の商品の中からどれかを選び、自らの手でレジに持ち込まねばいけないことに他ならない。

 なぜこのような状況に陥ったのかといえば、話は数時間前に遡る。

 昼休み、栄はパウチのゼリー飲料を飲みながら午後のレクで使う資料を確認していた。視界の右側には部下で係長の大井。彼の昼食はいつも、庁舎に売りに来る500円弱のビジネス弁当だ。確かに若手の懐にも優しく腹は満ちるのだろうが、炭水化物と揚げ物に埋め尽くされたプラスティック容器は見るだけで胸焼けがする。

 その更に向こうでは、係員の山野木が事務補佐員の荻と楽しそうに談笑しながらサンドウィッチを食べている。事務補佐員――簡易な事務処理を担当する非常勤職員――の荻は最近採用されたばかり。役所での仕事は初めてらしく、最初は緊張しているようだったが最近は山野木とお菓子と交換したり芸能人の話をしたりと楽しそうにしている。

 しばらく談笑していた二人だが、ふと山野木が左を振り向き大井に話しかける。

「大井係長、これ知ってます?」

 差し出されたスマホの画面をいぶかしげに眺めてから、大井はにやっと笑う。

「何これ、知らない」

 そして順当な流れとして話題は栄へと向かってくる。

「谷口補佐、議員会館でカフェラテ飲んだことあります?」

「え? ないけど」

 質問の意味がわからないままに、栄は返事をした。

 仕事柄、そして役職柄。栄も大井も永田町にある議員会館には頻繁に足を運ぶ。

 議員会館は衆議院議員向けに二棟、参議院議員向けに一棟が並んでいて、一見するとただのビジネスビルのようだが、地上階にはびっしりと国会議員の事務所が詰まっている。

 国会議員は通常選挙区にも事務所を持つが、そちらは主に選挙や地元活動用。議員会館内にある事務所は議事堂や各省庁などと近いこともあり、国会での活動拠点として使われる。

 事務所の他には、議員たちが使うための会議室もあるし、飲食や物販のテナントも少ないながら入居している。

 大井の言っている「カフェラテ」は会館内にある某大手コーヒーチェーンのメニューのことだ。打ち合わせ前の時間調整などに便利なのだろうが、栄や大井のような公務員については、いくら会館内で空き時間ができようと「業務時間内」であるため、なかなか立ち寄る機会はない。

「あそこのラテがどうかした?」

 確かに立地は特殊だが、店舗自体はどこにでもあるチェーン店そのもの。何が珍しいのか理解できずききかえすと、大井は山野木から手渡された画面を栄の目の前に差し出した。

 そこには、ココアパウダーで大きく「衆」の文字が描かれたカフェラテが大写しになっている。

「会館限定ラテらしいです。海野大臣の投稿がバズってて」

 山野木がそう付け加えた。

 頭の硬い年寄りの多い国会議員にしては珍しく、自らSNSで積極的に発信する海野大臣の投稿が定期的に話題になっているのは知っていたが、よりによって政策とは関係のないこんなくだらない内容。正直呆れを隠せない栄だが、部下たちは議員会館限定ラテの話で盛り上がっている。

「俺、今度午後イチの用件入ったら、早めに行って寄ってみようかな」

「いいなあ、私も連れて行ってください」

「山野木おまえ、普段は議員対応に腰が引けてるくせに、こういうときだけ調子いいな」

 そして、山野木はふと、にこにこしながらやりとりを聞いていた荻の顔を見る。

「でもさ、荻さんだってチャンスがあれば見てみたいでしょう。レアなカフェラテ」

「皆さんのお話聞いて、どんなところかなあって想像だけが膨らみます」

 自らの職責で議員会館に足を踏み入れることはほとんどないとわかっている荻は当たり障りなく答えた。

「普通のビジネスビルみたいなところだけど、地方から陳情で来る人とかもいるから、コンビニに変なお土産も売ってるのよ。歴代総理大臣の似顔絵が描いてある湯飲みとか、おまんじゅうとか」

 そう、あそこのコンビニエンスストアには誰が買うのかわからない謎の土産類が置いてあるのだ。再び資料に目を落としながら、栄はぼんやりと若者たちの会話に耳を傾けていた。

「誰が買うんだよって思うけど、レアっちゃレアだよな。前いた課の課長、総理大臣湯のみ使ってたぜ」

「ええ、本当に使う人いるんだ、あれ」

「あと俺、全大臣の似顔絵入りの金太郎飴セットもらったことある。包み紙ならともかく飴本体に顔があるから食いにくくてさ」

 大井と山野木の話す内容に興味を惹かれたのか、荻がぽつりとつぶやく。

「へえ、うちの夫、そういうの面白がりそう」

 その悪気ゼロのひと言が、栄にとっての不幸のはじまりだった。

「だったら誰かに買ってきてもらえば? そうだ、谷口補佐午後会館でレクありましたよね」

 地獄への道は善意で敷き詰められている、とはよく言ったものだ。何の悪気もない昼休みの会話。話を盛り上げるための萩の前向きな相づち。なかなか議員会館に行く機会のない事務補佐員への山野木の配慮。それら善意の行き着く先が、栄にとっては地獄だったというだけのこと。

「え、ああ、うん……」

 まずいことになった、と思いつつ、この手の頼みを断るのは苦手な栄だ。結局はいつもの爽やかな微笑みを浮かべて「時間があれば、何か見てくるよ」と答えたのだった。

 

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