約束までの距離

 靴を脱ぐとじんわりと爪先を痺れるような痛みが包む。

「そろそろまた、限界かなぁ」

 ルーカスはつぶやいて、骨ばった足から勢いよく靴下を抜く。圧迫されていたせいで親指の先は薄赤く染まっていた。

 半年ほど前に買った靴がまた少しきつくなった。こうなることがわかっているから大きめのものを選んだつもりだが、予想より駄目になるのが早かった。無理して履き続ければ足を痛めるのは確実なので、さらにサイズの大きな靴を新調する必要があるだろう。

 加速したり停滞したりと多少の波はあるものの、ギムナジウムの最終学年を迎えてもルーカスの成長期はまだまだ終わる気配を見せない。もちろんそれは歓迎すべきことだ。

 ルーカスは先日十八歳になり、それと同時に後見人だった叔父からはものの見事に縁を切られた。もちろんそれはルーカスにとっても望むところで、むしろあの叔父が少なくともこの歳までは後見人を続けたこと、そしてルーカスが亡き養父母から相続した遺産をきっちりよこしてくれたことの方が驚きだった。

「世間体を気にする人だからさ」と毒づくルーカスを、同居人かつ身元保証人かつ――恋人であるはずのラインハルトは軽く小突いて諌めた。

「世話になった人に、そんな言い方するもんじゃない」

「だって」

 思わず唇を尖らせてから、それが子どもっぽい仕草であることに気づいて慌てて冷静な表情を装った。ラインハルトの口元に微かな笑みが浮かんだのはきっと、ルーカスの動揺に気づいているから。それがなおさらにもどかしい。

 実際ルーカスだって叔父に感謝の気持ちがないわけでもない。なんせ叔父にとってルーカスは、甥っ子夫婦が反対を押し切って引き取った戦災孤児で、血縁のかけらもない。甥っ子夫婦、つまりルーカスの養親が不慮の事故で夫婦揃って命を落とすという偶然のいたずらのせいで後見人のお鉢が回ってきたに過ぎないのだ。しかも蓋を開けてみれば、押し付けられた子どもはただの戦災孤児ではなく、ナチスドイツの施設レーベンスボルンで育てられた忌むべき子ども。それどころか体良く身柄を預かってもらった男と同性のくせに恋仲になったというのだから、彼にとってはほとんど天災といっていい。

 血縁関係がないからとうら若い子どもを放り出してしまう体裁の悪さと、血縁はないとはいえ身内に忌むべき少年を抱えることへの嫌悪。板挟みになった叔父は最終的に、「十八歳になるまで書面上のみ後見人を務める」という最低限の関わりを選んだ。そして、ようやくその叔父との関係も終わりを迎えた。

 ラインハルトが叔父の存在を過剰といっていいほど気にしていることは知っていた。いくらルーカスが違うと言って聞かせたところでラインハルトは心のどこかで、幼いルーカスをかどわかしてしまったくらいの気持ちでいるのだろう。ラインハルトの中に見え隠れする罪悪感はルーカスをときに苛立たせる。

「何やってるんだ?」

 ルーカスがソファーに座ったまま、しびれを取ろうと足をぶらぶらさせていると、リビングに入ってきたラインハルトが怪訝な顔をする。シャワーを終えたばかりの髪も肌もまだしっとりと湿っている。そんな姿に思わず喉を鳴らしそうになり、何とか堪えた。

「また靴がきつくなっちゃって」

「は? まさか」

 ラインハルトはなぜか、ルーカスの正直な答えを否定した。

「まさか?」

 しかも何だか怒ったような、困ったような表情まで浮かべている。

 気分屋で気難しいラインハルトの性格は十分理解しているつもりだが、それでもルーカスは聞き流すことができない。だって、靴の持ち主であるルーカス本人がサイズが合わなくなったと言っているのに、なぜそれをラインハルトが否定するのだろう。しかも急に機嫌悪そうな顔をされたところで戸惑うばかりだ。

「そんなにすぐに、きつくなるはずない。塩気の多いものでも食べ過ぎたんじゃないか」

 ラインハルトはツンと冷たい表情で否定の言葉を繰り返した。要するに靴のサイズが合わなくなったのは恒常的なものではなく、偶然ルーカスの足がむくんでいるだけだと言いたいのだ。

「……何言ってるんだよ、そんなはずないじゃん。別に新しいの買ってって頼んでるわけじゃないし、そんな顔しなくたっていいだろ」

 売り言葉に買い言葉で、思わずルーカスの声色も棘をはらんだ。

 社会的な立場は「未成年の同居人」であったルーカスは多くの面でラインハルトの世話になってきた。この部屋の名義や家賃支払いのほか、光熱費や食費などさりげなくラインハルトが多く支出してきたことも知っている。でもルーカスだって以前は毎月叔父から決まった金額を生活費として渡されていたし、今はまとまった遺産を自分で管理している。もちろん今後の生活や進学費用をやりくりしなければいけないので余裕があるとまではいえないが、成長に合わせた衣類や靴を買うくらいは何とかなる。ラインハルトにしかめっ面をされる筋合いなどないはずだ。

「別に、俺は金の話をしているんじゃなくて」

 思わぬ反撃にひるんだ様子で、ラインハルトはすっと視線を逸らした。ルーカスはますますむきになる。

「じゃあ、どういう意味だよ」

「……いや、やっぱり今後の学費だってあるんだし、あんまり無駄遣いするのも良くないだろう」

 急にトーンダウンしたラインハルトはそのまま話を金の問題に収束させようとした。散髪に行ったばかりで、涼やかな細い首筋が入浴の熱の名残でうっすら赤らんでいる。寝間着から覗く手首や足首も、ルーカスのものと比べるとあからさまに頼りない。

 以前のような極端な食事制限はしていないが、長い節制で少食が習慣になっているのか、相変わらずラインハルトは痩せている。比較的背も高く骨格自体はしっかりしているので本人が理想とする「少年のような体躯」には程遠いが、神経質そうな雰囲気も併せて周囲には繊細な印象を与える。

 思春期の失恋や家族の不和を経て、ラインハルトは自身の肉体に奇妙なこだわりを持つようになったのだという。要するに、家族や恋人に愛されていた頃の美しい少年の姿こそが彼にとっての理想として固定され、成長期を過ぎてからの自身の姿を極端に憎むようになった。

 ルーカスが出会った頃のラインハルトは髪の色を不自然に金色に染め、ろくに食事も取らずにがりがりにやせ細っていた。その上同居に当たっていくつもの理不尽な約束を要求してくる年上の男を正直最初は不審に思った。しかし、家族に恵まれず出生に傷を抱えたルーカスを肯定し、必要としてくれたラインハルトへの感謝の気持ちはやがて親愛の情へ、そして――彼のいびつで弱い面を知るにつれて、その感情が恋や愛と呼ぶべきものであると気付いた。

 自分より背が高く体格に優れ、十近くも年上の男に対して、守ってやりたいという感情を抱く自分のことが不思議に思えたのは最初のうちだけ。いつしかそれらの思いはすべてルーカスの中にごく当然のものとして存在するようになった。

 この部屋で、互いの愛情を言葉にして確かめ合った。あれから二年の時が流れ、ルーカスは自分自身の責任を自ら負うことができる年齢になった。自分ではもう、ほとんどラインハルトと対等の大人といえるのではないかと自惚れているくらいだ。

「大丈夫だよ、ちゃんと勉強してる。大学は奨学金が受けられるところにするつもりだし、ちゃんと自分の力で学校に通って卒業するよ」

 ルーカスは次の六月にギムナジウムの卒業試験と大学入学資格試験を兼ねたマトゥーラと呼ばれる学力試験を受けることになっている。学校の先生からもこの調子で勉強を続ければ希望する大学で奨学金を受けることは可能だと言われていた。

「でも、この間大学院に行きたいって――しかも法科の」

 それでも浮かない顔のラインハルトに、ルーカスは繰り返す。

「うん。そういうのも含めてちゃんと考えてるよ」

 ルーカスの第一志望は地元の大学の法学部だ。法学部に行きたい、弁護士になりたい、大学院にも行きたい――そんな将来の夢を語り始めたルーカスを見てラインハルトはあからさまに動揺した。

 もちろん弁護士になりたいと思ったのは、ラインハルトの初恋の相手だったオスカルの存在を、ルーカスが心のどこかで割り切れていないからだ。長い間ラインハルトの心を縛り続けたオスカル。それどころか、健気にも長い間オスカルのことを思い続けたラインハルトの気持ちを笑い飛ばした挙句に、自分勝手な正義感で暴走してその仕事を奪った酷い奴。彼は大学院で法学を学んでいるのだと言っていた。

 あれだけ酷いことをした男なのに、それでもオスカルは騒動からそう日を空けずにラインハルトに連絡をよこした。小学校での仕事を台無しにしてしまった罪滅ぼしに、新しい仕事を紹介したいという内容だった。どの口でそんなことを、とルーカスは怒り狂ったが、意外にもラインハルトは当初オスカルの申し出を受けようとした。

 だって、決まっていた住み込みの病院の仕事を断ってしまったから新しい仕事を探さなきゃいけないだろ――あくまで他意はないと言い募るラインハルトだが、最終的にはルーカスの猛反対を尊重して、オスカルの話は断ってくれた。その後新たな仕事探しに苦労するラインハルトを見て、ルーカスは、自分も早く大人にならなければと気持ちを新たにした。

 結局、困っているラインハルトに現実的な解決策を与えられるのは年下の恋人である自分ではなく、人脈や力を持つオスカルなのだ。あのときの苦い気持ちは今も消せずにいる。

「……あのさルーカス、蒸し返すつもりはないんだけど」

 ラインハルトはソファへ歩み寄るとじっとルーカスの顔を見下ろした。

「別に、おまえにはおまえの人生があるんだから、オスカルに張り合う必要なんかないんだからな」

「そういうつもりじゃ……」

 否定はしてみるものの、完全に図星だ。「張り合う」という言葉で子どもっぽさを指摘されたようでルーカスは面白くない。

 第一、こんなことをいつまでも気にしてしまうのはラインハルトがまだルーカスのことを子ども扱いしているからだ。直に確かめればそんなことないと言われるけれど、実際にいまだにルーカスはラインハルトの寝室に入ることは許されないし、小鳥のようなキスを少し深くしようとすれば、身をかわされる。

 ルーカスの身長がラインハルトを追い抜いたら――キスの先を許す条件としてラインハルトがかつて口にした条件を、ルーカスは当初冗談だと思っていた。叔父の許しもしくはあきらめによりここで再び一緒に暮らせるようになれば、自分たちは恋人としての甘い暮らしができるのだと。

 ――しかし現実は甘くはない。二年経っても、あくまで肉体的な部分に限って言えば二人の関係は膠着状態にある。

 過去の経緯から醜形恐怖や恋愛恐怖に近い傾向があり、しかも潔癖なラインハルトが年下の恋人と一線を越えることに躊躇するのは理解できる。以前、感情のままに押し倒して怖がらせてしまった負い目もある。でもルーカスだって健康な男子だ。一つ屋根の下に恋人と暮らしていて、そろそろ次のステップに進みたいと思っても責められはしないだろう。

「第一、いつまでもラインハルトが子ども扱いしてくるからさ」

「何ぶつぶつ言ってるんだよ」

「――あ」

 そこで、ふとしたことに思い当たった。

「そういえばラインハルト、靴のサイズいくつだったっけ」

 パッと顔を輝かせたルーカスの問いかけに、ラインハルトの骨張った肩がギクリと震えた。

「……何でそんなこと聞くんだ?」

「いいから教えて」

「……よ、42くらい」

 不自然に声が小さくなるのは、質問の意図に気づいているからだ。ラインハルトの靴のサイズは42。そして、今日ルーカスが小ささを訴えていた靴のサイズも同じ42。つまりのところ。

「僕、ラインハルトの足のサイズは追い抜いたってことだよね」

 喜びのあまり素足のまま立ち上がったルーカスの勢いに、ラインハルトは気圧されたように後退りながら必死に否定する。

「だから気のせいだって。朝になったらむくみが取れて、今の靴でちょうど良くなってるに決まってる」

 そしてずるずると後退したラインハルトは、今はまだルーカスの立ち入りを禁じたままのの寝室に逃げ込もうとする。

「あ、ずるい。逃げる気? そういえば最近身長比べてないね。僕、そろそろだと思ってるんだけど」

 ラインハルトは、ルーカスとの約束を忘れてはいない。それどころか過剰に意識しているからこそ、まずは靴のサイズを追い抜かれたことに敏感に反応したのだった。

「うるさいな、こっちは仕事で疲れてるんだよ。今日は寝るって言っただろ」

 あわよくばこの場で互いの身長計測を目論むも、ラインハルトは顔を赤くしてルーカスの鼻先で寝室の扉を音を立てて閉めてしまった。

「……ひっでえ」

 素足に木の床が冷たい。つれない仕打ちにすごすごとルーカスはソファへ引き返した。第一すっかり身の丈に合わなくなったソファでいまだに恋人を独り寝させることにラインハルトの心は痛まないのだろうか、

 ラインハルトは、きっと理解していない。もう何年もの間ルーカスがここでどれほどの欲望と戦っているのか。自分がルーカスの妄想の中で何度剥かれて、どんな格好をさせられ、どんなはしたない言葉を口にさせられているか。

 潔癖な恋人にあられない妄想を知られることなどあってはならないと思う反面、何もかも告げて思い知らせてやりたいという乱暴な気持ちに襲われることもある。それでもルーカスは欲望を抑え込んで、今はまだ約束に従順でいる。もう二度と酷いことはしないと、傷つけないと決めたから。

 ――ともかくラインハルトはあの約束を存外真面目に捉えているらしい。

「まあいいや。おやすみ」

 声を掛けるが寝たふりをしているドアの向こうから返事はなく、ルーカスはまた一つため息をつく。

 さて、次はどんな理屈をつけて、背比べに持ち込もう。

 

(終)
2019.02.19

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