絶対に眠ったりしないと決めていたのに、ハッと意識を取り戻すと、窓からは朝陽が差し込んでいた。そして、絶対に離したりしないと決めていたのに、俺の腕の中は空っぽだった。
最初に聞かされたルールのとおり、俺の妖精は帰っていってしまった。
最後の夜が終わり、もう二度と俺の前には現れない。
ぼんやりと、たった数時間前までルカが寝ていた場所を眺める。心臓にぽかんと穴が空いたような気分で、しかし涙は出てこない。これが失恋なのか。学生時代に付き合っていた彼女と別れたときは、こんな感じではなかった気がする。確かに悲しかったし辛かったけど、こんな風に体の一部をもがれたような、心の一部を持っていかれたような喪失感はなかった。
しばらく呆然と横になったままでいて、それからようやく体を起こす。いつもどおり、ベッド脇にはゴミ袋にまとめられた夜の名残。汚れたカップホールにティッシュペーパーなどが詰め込まれている。いつもきれいに片付けてくれていたのは、ルカだったのだろうか。一度もお礼を言わないまま終わってしまった。
ああ、髪の一本でももらっておけば良かった。あのキラキラきれいで、顔を埋めると日なたのいい匂いがする柔らかい髪の毛。そうでもないと、俺がルカに会った証拠すらどこにも――。
そこで、ふと思いついた。あのカップホールだけが俺とルカを繋いでいた。指を入れるとどろろんと煙が出て、不機嫌なあいつが部屋の中に現れる。
一夜にひとつ。それは本当に本当なんだろうか。もしかしたら、もう一度使えたりはしないんだろうか。固く結ばれたゴミ袋を開けると、精液特有の匂いが鼻をついた。俺はそこから「締め付けタイプ」のカップホールを取り出す。
それはひどい有様だった。貫通タイプでないにも関わらず中で射精したので、内部は精液でドロドロに汚れていた。これ、俺が中出ししちゃったからだよな。しかも二回。だからルカはあんなに中で出すなって怒ってたのか。ある程度指で掻き出したつもりではいたが、完璧ではなかったのだろう。
俺は、悲惨な状態の使用済みカップホールを持って洗面所に走った。そして、蛇口をいっぱいにひねると、出てくる水につけて洗いはじめる。
ダメ元で、次の満月の晩にこれに指を入れてみよう。きれいに洗えばもしかして、もう一度くらい使えるんじゃないか。もしだめだったら、給料もボーナスもつぎ込んでひたすらホールを買い続ける。「一億人に一人」の難易度が相当に高いことは想像できるが、やらないよりマシだ。続けていれば、いつかは再び俺のところに幸運が舞い込んでくるかもしれない。
あきらめずに、どうにかして再びルカと会える方法を探そうと心に決めると元気が出てきた。俺はカップホールを長い時間かけて、丹念に洗った。
「さて」
再利用を想定して作られたわけではないので若干見た目に難はあるが、一応ホールはきれいになった。これをきれいに干して、しまっておいて、次の満月の晩に使ってみよう。タオルで水気を取ったホールを干しに俺はベランダに向かう。
掃き出し窓を開けてベランダに一歩踏み出した瞬間、声が聞こえた。
「うっわ。何それ、洗って再利用する気? きったねえなあ。童貞の上に貧乏って最悪かよ」
俺は声の方向に視線を向ける。
「……」
数秒間固まったまま動けず、それからホールを持っていない方の左手で自分の頬をつねってみた。夢なら覚めるはずだが、目の前の影は消えない。
もしかしたらつねり方が甘いのかもしれない。もう一度、もうちょっと強く。
「何したいのかわかんないけど、痛いのが好きならぶん殴ってやろうか?」
ベランダの隅に座って外を見ていたルカは、そう言って立ち上がった。素肌に俺のシャツを着て、下は何もはいていないようで、すんなりとした脚がそのまま伸びる。相変わらず細いがしなやかな筋肉のついた美しい――じゃなくて。
「ルカ! ルカ! お、おまえ、消えたんじゃなかったのか? あ、あ、朝になったら消えるって」
思わずどもってしまう。なんでここにいるのか。あの取扱説明書は嘘だったのか。だとすれば俺はなんのためにあんなに悩んだんだ。
「そのはずだったんだよ。誰かさんが余計なことしなきゃ」
ルカは左手を目の前にかざして、はあ、とため息を吐いた。そこからは、服を脱いでも決して肌身離さなかったあの金銀のブレスレットが消えていた。
「どうしてくれるんだよ。もう妖精でもなきゃ魔法も使えない。あーあ、なんでこんなことになっちゃったのか俺にもわかんないや。ったく清史郎、おまえ責任取れよ」
気だるそうに、いやいやといった感じで、しかしルカの顔はどこか嬉しそうに見える。そして、ようやく目の前の事実――それはただ、ルカが夜が明けてもここにいるというだけのことなのだが――を理解した俺は、喜びのあまりその細い体に飛びついた。
「ルカ! いいよ。俺、責任取るよ。魔法なんか使えなくてもいいし、不機嫌でも、毒舌でもいいから、頼むから俺のところにいてくれよ」
二度と触れることができないかと思っていた髪に触れ、口付ける。唇は髪から場所をじわじわ移し、やがて唇同士が触れ合う。このままでは外から見えてしまうと思い、ルカを抱いたまま俺はじわじわと体を動かし、ベランダから部屋の中に移動した。
浅いキスと深いキスを繰り返し、口付けだけでお互いの気持ちを伝え合う。あ、まだルカに好きって言ってもらってないけど、まあいい、これからいくらだって時間はある。
「え、また? 昨晩さんざん……」
意図を持って腕を引くと、少し戸惑ったようにルカが言った。
「そう、また。童貞の性欲を舐めるな」
そして、俺はルカの身体をベッドに押し倒す。勢い、キャビネットの上の空き箱に肘が触れ、箱は音を立てて床に落ちるが今はそんなこと気にしていられない。
俺とルカが、箱の裏に書かれた取扱説明書の文面に見慣れない注意書きが加わっていることに気づくのは、朝の光の中でさんざん愛を確かめ合ったあとのことになる。
《満月の晩にだけカップホールの精を呼び出すことができます。それはあなたの一番強く望んでいることを心の奥底から読み取り、どんな願いも叶えます。※本商品にはスーパームーン特典が含まれています。あなたが本当に強く願い、必要とするならば、スーパームーンの晩に限り、当初の願いの他に、もうひとつだけ特別にあなたの望みが叶うでしょう。》
西の空には、普段より大きな月がちょうど沈もうとしている。
(終)
2017.07.05-2017.07.15