第22話

「冷蔵庫にトマト煮みたいなやつ入れてあるから。米は炊いて冷凍してあるからチンすればいいし、パンの方が良ければバゲット買ってあるから」

 圭一は実家の冷蔵庫をバタンと閉めるとリビングの父親に声をかけた。昨晩アルバイトが終わった後で実家に戻り、渋谷に教えてもらった鯖のラタトゥイユや冷凍用のご飯を準備した。

「悪いな。しかしオムライスの次はトマト煮か。米も炊けなかったおまえがすごい変わりようだな」

「まあね。鯖のラタトゥイユっていうんだ。渋谷さんに教えてもらったんだけど、美味いし簡単だし青魚使ってるから体にもいいんだって。親父もいい年なんだから、もうちょっと食生活気にしたほうがいいよ」

 作ったラタトゥイユは一部、密閉容器に取り分けてある。それをスーパーマーケットのビニール袋に入れると、圭一はひとつ大きく深呼吸する。

「じゃ、行って来る。また来週か再来週には寄るから」

「ああ」

 まだパジャマ姿のままの父親はソファに座ったままひらひらと手を振る。そしてドアを閉めようとする圭一の背中に一言。

「圭一。母さんのこと長いあいだ黙ってたのは悪かった。今思えば、俺との関係はともかくおまえには最初からちゃんと話をして、面会させておくべきだったよ。思春期に急にあんな話を聞いて、ショックがより大きくなるのは当然だった」

 圭一は足を止めて振り返る。窓の方を向いて新聞に読みふけっているポーズをしている父親の表情は見えない。だから、過度に深刻にも湿っぽくもならないよう軽い調子で返す。

「子どもの頃に全部聞いてたら、もっと荒れてたかもしれないし。まあ、今が良ければ過去なんかどうでもいいんじゃねえの」

 そのまま扉を閉めて、玄関を出てから向かうのは隣の家だ。普段スニーカーばかりなので慣れない革靴の感覚に少し不安になる。靴擦れができて変な歩き方になったら、きっとみっともないと思われてしまう。

 澤家の呼び鈴を押すと、和志の母が出てきた。

「あら、圭ちゃん。どうしたのずいぶんおしゃれしちゃって」

「別にそんなことないよ。おばさん、和志は?」

 照れ隠しに圭一が話を短く打ち切ると、和志の母はまるで子どもを呼ぶかのように階段の上に向かって大きな声をあげる。

「和くーん。圭ちゃん来てくれたわよ。何やってるの? お洋服決まらないならお母さん見てあげようか?」

「うるさいな! そういうのやめろって言ってるだろ!」

 和志の返事も反抗期の子どものようで、圭一は笑いを噛み殺す。〈SHIZU〉が書いていた「親がいつまで経っても子ども扱いする」というのは、どうやら圭一に話を合わせたわけではなく和志の切実な悩みであったようだ。

「あ、おばさん、これバイト先で習ったラタトゥイユ。和志も好きだって言ってたから飯のときにでもどうぞ」

 ビニール袋を和志の母親に渡すと、圭一は早足で階段を上がり声もかけずに和志の部屋のドアを開ける。

「着替えにどれだけかけてるんだよ」

「うわっ、急に開けるなって」

 普段はきちんと整頓されている和志の部屋は、今朝に限ってはひどい有様だった。扉が開けっ放しのクローゼットの中身は空っぽで、代わりに持てる限りの洋服が全てベッドの上や床に散らばっている。そして、当の和志は上下チグハグな服を着て深刻な顔で姿見をのぞき込んでいた。

「……何やってんの? おまえ、俺の母さんともほのかとも何度も会ったことあるんだろ? いつも通りダサい格好してりゃいいじゃん」

 いつものシャツとカーディガンとチノパンの方が、今の素っ頓狂なファッションよりはよっぽどましだし、正直あの優等生スタイルは和志には似合っていると思う。圭一が手近なところにあった「いつもの」一式を拾い上げ手渡してやると、和志は恨みがましそうな顔をした。

「ダサくていいって、ひどいよ。自分はそんなおしゃれしてきてるくせに。しかもどうしたんだよ、髪まで染めて」

「別におしゃれなんかしてねえよ。髪の毛だって、おまえのせいで『川津ほのかの兄貴は黒髪』ってことになったから、それに合わせて染めたんだよ。万が一のときに嘘がばれないように」

 そう言い返して圭一は手元にあった衣類を手当たり次第に和志に投げつける。だが、むきになるのは図星だからで、今日のコーディネートを決めるのに圭一は相当な時間をかけた。結局、過度に気合いを入れている風でもなく、だからと言ってカジュアルすぎないようにカットソーの上に手持ちの一番いいジャケットを羽織った。しかも今も往生際悪く、かっちりした革靴よりもレザースニーカーの方が良かったかもしれないなどとしつこく考えているくらいだ。

 今日、圭一は初めて母親の新しい家庭を訪ねる。一人で来いと言えば圭一の負担になると思ったのか、母は最初から「和くんと一緒に」と誘った。

 母の現在の夫も、ちょうど仕事がオフであるためほのかも家にいる。圭一がほのかと顔を合わせるのは面会の場で怒りを露わにした十四歳のあの日以来だ。あんなひどい態度をとったにも関わらずいつか訪れる兄との和解を健気に待っていたというほのかをがっかりさせたくなくて、着るものや髪型から手土産にまで散々悩んだ。

「手土産、結局どうしたの?」

「渋谷さんがフィナンシェ焼いてくれた。習おうかとも思ったけど、さすがに菓子づくりはレベル高くてまだ無理だわ」

「あ、あれ美味いからきっとほのちゃんも喜ぶよ」

 選んだ手土産に和志のお墨付きが得られたことに内心でホッとした。一度会っただけで過去の大失点が消えてなくなるとは思っていないが、今後少しずつでもほのかに対して兄らしいことができればいいと思う。

 川津ほのかの初スキャンダルは、思いのほか速やかに鎮火した。週刊誌の記事が出たその日のうちにほのかが自分の口から直接事情を説明したのは上手い戦略だった。片親違いの兄との兄妹愛というストーリーはファンにも違和感なく受け入れられ、それでもほのかを追いかけようとしたマスコミも多少はいたらしいが「複雑な家庭環境の中前向きに頑張っている女の子を追い回すなんて」という批判の前に事件は収束するしかなかった。

「……圭ちゃん、何ニヤニヤしてるの」

 その声にハッとすると、着替えを終えた和志が不審そうに圭一の横顔を眺めている。

「ニヤニヤなんかしてない」

「嘘だ。ほのちゃんに会えるのが嬉しくて顔が緩んでるの、見え見えだよ。大体、俺のためにはそんなおしゃれしてくれたことないのに」

 あれだけ圭一とほのかの和解を望んでいたのに、いざとなればわがままなものだ。和志の勝手な物言いに呆れながらも圭一は悪い気分ではない。いつだって「ほのちゃん、ほのちゃん」と騒ぐ和志に圭一は面白くない思いをさせられてきたのだ。美しき兄妹愛を前に、これからはちょっとくらいは和志にもやきもきしてもらいたい。

「いいからさっさとその散らばってるの片付けて、出かけるぞ」

「はーい」

 素直に片付けをはじめる和志を尻目に、圭一は和志のデスクに避難する。

 ノートパソコンのディスプレイに表示されている書きかけのレポートはやたら小難しい文章と、さっぱり意味のわからない図表や謎の数式が並んでいる。日本語で書かれているのになぜか「、」が「,」、「。」が「.」で表記されているのは〈SHIZU〉の文章と同じ。後で和志に聞いたところでは、論文の世界ではそれが普通なのだというが圭一にはどうでもいいことだ。

和志はウェブ上のフォーラムなどでは名前を逆さにした〈SHIZUKA〉というハンドルネームを使っていて、〈SHIZU〉という名前もそれから取ったのだという。「俺だって気づいてくれるかなとちょっと期待してたんだけど」と言われたが、たったそれだけの情報で詐欺メールの相手と幼馴染を結びつけることを一般的には「突飛な考え」というのではないだろうか。

 相変わらず圭一は和志のマイペースな思考回路についていけない。だが、ついていけないなりになんだかんだと十八年間続いてきた腐れ縁なのだから、何となくこのまま続いていくものなのかもしれない。

 和志は超特急で部屋の片付けを終え、二人は肩を並べて澤家を出発する。「行ってらっしゃい」と見送る和志の母親も嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

「しっかし、オレの母さんも意地が悪いよ」

 駅に向かって歩きながら圭一は愚痴をこぼす。圭一の母親は何もかも知っていて、その上でしらばっくれて圭一に三十万円を貸したのだ。

 和志から「ほのかを騙って迷惑メールを送っている奴がいる」と相談されたとき、母は、そんなメールは放っておくようアドバイスしたのだという。だから和志が有料サイトに登録して借金を作ったことや、その和志を騙していたのが圭一だということ自体にはひどく驚いたが、何となく背景の事情は察したのだろう。平静を装って息子に金を貸す一方で、圭一とのやり取りをすべて和志に話した。

 圭一が三十万円を工面するため奔走していたことに和志は驚いた。そして法外な金を取られることは覚悟してやったことだからと金を圭一に返そうとしたが、それを止めたのも母だった。詐欺の片棒を担ぐなんてとんでもないことをしたんだから、本当に反省するまでしばらく本当のことは黙っていて――そう言われれば和志も従うほかになかった。

「ずっと会ってなかった息子だぜ、しかも幼児の頃に捨てた。もうちょっと優しくしてくれてもいいのに」

 愚痴はとめどなく出てくるが、圭一も本心から怒っているわけではない。むしろ母が叱るべきときに叱る人でいてくれることは喜ばしいと思っている。彼女はまだ圭一を叱れる。それは、母が今も心の底から圭一を自らの息子だと思っているからこそなのだろう。

 すべてが明らかになってから母は圭一に三十万円の返済は求めないと言った。だが、それでは納得がいかないので、圭一は当初の約束通り金を返していくつもりでいる。

「いろいろ振り回されたけど、まあ丸く収まったってことだな」

 そうつぶやいて、後は今日ほのかに好印象を残せさえすれば――と思ったところで、和志が真剣な表情で圭一の目をのぞき込んでくる。

「ところで圭ちゃん、俺今日おばさんに、『息子さんをください』って言ってもいいの?」

「……やめろ、せっかく俺が母や妹との関係を再構築しようとしてるのを邪魔するな」

 頭を抱えて圭一は思う。

 前言撤回。やっぱりまだまだこの幼馴染に翻弄され、踊らされる日々は続きそうだ。

 

(終)
2017.11.13-2018.1.14