鳥の声。虫の声。どんどん早くなる呼吸と激しく打つ鼓動。ときどき風が吹いて、頭の上で木の葉や枝がざあっと大きな声を立てる。

 こちら側の斜面は手入れされていないから草丈は胸のあたりまであるし、足下は大きな石や木の根でぼこぼこしていて危ない。だから普通、この山への上り下りには反対側の、きちんと草を刈って邪魔なものを避けてある道を使うのだ。

 だけど今日は特別。誰にも気づかれないように、誰にも追いつかれないように山を下りないといけないから。

 草いきれのむわっとした熱気の中を、下手くそなリズムみたいな足音を響かせながら走りつづける。

 つないだ手は同じ大きさで、同じ温度で、同じくらい湿っている。いつも怖がりで泣き虫なきょうだいを、僕が引っ張っているつもりだけど、もしかしたら怖がっているのはこちらなのかもしれない。

(どうか、どうか見つかりませんように、つかまりませんように)

 子どもの脚が大人に劣ることなんてわかっている。でも、小さな体で走り抜ければもしかしたらうまくいくかもしれないと思って作戦を決行したのだ。

 そのとき、遠くから声がきこえた。

「おい、草が倒れている。こっちだ!」

 低くて大きな、怒っているように叫ぶ男の人の声。見つかったらひどく叱られる。叱られるだけならまだましで、それ以外にも何か、もっとひどい目に遭わされるかもしれない。

 どうしよう、このまま走ればやがて追いつかれてしまう。追っ手をやり過ごすことができる場所を探して。身を潜めたほうがいいんだろうか。でも、あいつらは僕たちよりもずっとこの山を知り尽くしているから、どこに隠れたってすぐに見つかってしまう気がする。

 逃げだそうと言いだしたのは僕だ。こちら側の斜面をおりようと決めたのも僕。不安とプレッシャーで胸がぎゅっとなって、そのせいで足下への注意がおろそかになった。

「うわあっ!」

 足に衝撃を感じると同時につないだ手が離れ、つんのめった体が宙に浮いた。数秒遅れて肩からどさっと地面に落ちる。

 痛みよりも「やばい」という気持ちが先に立った。反射的にあげた声のせいできっと、僕たちがここにいることにも気づかれてしまった。あそこに連れ戻されてしまうのだと思うと、涙すらにじんだ。

「大丈夫?」

 ささやくような小さな声とともに腕が差し伸べられる。僕の手のひらとそっくりな手を握り返しながら、思う。そうだ、僕はひとりじゃない。彼のためにも絶対にこの山を降りなければいけないのだ。

「……うん」

 できるだけ力強くうなずいてみせてから立ち上がろうとすると、足首に激痛が走った。さっき転んだときに、木の根に引っかかってひねってしまったのかもしれない。なんとか体を起こすことはできるけれど、一歩足を踏み出すごとに脳天まで響くような痛みが突き抜ける。

「声がしたのはこの先だな?」

「ああ、そうだ」

 さっきよりも少し近い距離から、大人の声。

 もうだめだ。なにもかも台なしだ。

「ごめん……僕が逃げようって言いだしたのに」

 どうせ無理だと弱気だった彼を説き伏せて、脱走に付き合わせたのは僕。なのに転んで足手まといになってしまった。

 彼は一度後ろを振り返って、まだ大人たちの姿が見えないことを確かめてからゆっくりと口を開いた。

「僕が残るよ」

「え?」

 意味がわからずきき返す僕に、彼はもう一度言う。

「逃げ出したがってたのは、おまえの方だろう? だから僕が残る。捕まって時間を稼ぐから、その間にできるだけ先まで行けば、おまえは逃げきれるかも」

 彼を「囮」にして僕だけが逃げる――そんなこと考えてもみなかった。自分だけ先に行こうなんて、ずるいことに思える。それに僕ほど言葉に出さなかっただけで、ここから逃げ出したがっていたのは二人とも同じはずだ。

「でも……」

 首を縦に振れずにいる僕に向かい、彼は笑う。

「大丈夫、僕はお兄ちゃんだから。それにおまえと違ってこれまでの振る舞いも悪くないから、たいして叱られないさ。反省した顔をしておいて、しばらくしたら後を追うよ。ほら、早く行かなきゃ、奴らが近づいてくる」

 草をかき分ける音が近づいてくる。

 このまま二人で捕まるか、一人だけが逃げるか。決断を迷っている時間はない。だから僕は――「しばらくしたら後を追う」という言葉を信じて、ひとまず彼をここに残すことにする。

「ほら、早く行って」

「うん……」

 一度強く握って、それから手を離す。

 

 そして僕は山を下り、彼は残った。

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